14.ふたりきり

――千尋ちひろが、二人きりで話したいことがあるってさ。


 体育の授業中ずっと、トーカの意味深なセリフが快龍かいたつの頭から離れなかった。おかげで快龍が放つボールは時々あらぬ方向に飛んでいき、バッティング練習では三振を繰り返した。


「ドラゴンってバレー以外は下手くそだったんだぁ」


 トーカがニヤニヤしているのが鬱陶しい。そういう彼女も思い切りバットを振り回して派手に三振していたので、似たようなものだった。だけどバットが空を切る度に金色の髪が靡くせいか、彼女の三振は美しく華があった。トーカは良くも悪くも派手なので、周りの男子の視線をよく集めていた。


 結局そのまま1本もヒットを打てずに体育を終えた。

 トーカは最後の打席でサヨナラ安打を放っていて、帰り際に無言で背中をポンポンってされた。屈辱的な気分のまま、きつく縛った靴紐を解いた。


「ほ、北条君、さっきはありがと」


 下駄箱の前で、囁くような声がした。

 振り返ると、小倉おぐらさんがひとりひっそりと立っていた。快龍がペアを代わった5組の女子。相変わらず彼女の長袖は指の先まで隠すくらいに長い。

 しかし快龍は彼女が一度だけその小さな手を露わにするシーンを目撃していた。

 快龍の代わりにペアになった小豆沢あずきざわ君がスリーベースヒットを放った時だ。

 彼女は周りに見つからないようにちょっとだけ腕を捲って、音がしないくらいの控えめな拍手をしていた。


「いいよ。礼ならトーカに言ってやってくれ」


「うん。でも、北条君にも一応お礼言いたかったから」


 小倉さんはそう言ってぺこりと頭を下げた。


「……、小豆沢のことが好きなのか?」


 快龍は靴を下駄箱にしまいながら言った。

 小倉さんはハッと顔を上げて、目を一瞬大きく開いた。そして萌え袖で口元を隠すと、小さくコクリと頷いた。小動物みたいな、愛らしい仕草だ。


「告白はしないのか?」


「そ、それはまだ、二人だけで話したりもほとんどできてないし、いきなりすぎても困っちゃうと思うから」


 顔の前で手をブンブンと振る小倉さん。

 なるほど、いきなりすぎても困るものなのか。

 告白するにも、色々な準備段階が存在するようだ。


「でも、今度カフェに誘ってみようと思ってるの。小豆沢くんは甘いの好きだから」


 少し顔を赤らめながら、小さな声で小倉さんが付け加えた。

 

「……、素敵だな。俺にはなんのアドバイスもできないが、頑張れよ」

 快龍はグーサインをつくって、階段の方に向かった。


(……恋愛、か。)

 自分には縁遠い話だ。学業に支障が出るし、時間の無駄だとも思っている。それでも、自分以外の誰かのために本気になれる小倉さんのことは少しだけ羨ましいと思ってしまった。


(いかんいかん! 雑念を抱いてしまった)

 

 煩悩を振り払うためにダッシュで階段を駆け上がった。

 ソフトボールで普段は使わない筋肉を使ったからか、一段一段が少し重く感じた。


 それでも、教室まで十秒フラット。引き戸に手をかけガラガラと開く。

 教室ではすでに半数くらいの男子生徒が着替えていた。

 汗と土と制汗剤の混じった匂いが、むわっと鼻につく。

 快龍は自席まで進み、机の上に畳んでいた制服に手を伸ばした。


――ん?


 持ち上げた制服の隙間から、ひらひらと白い紙が落ちた。

 メモ用紙のようなサイズの紙が、半分に折られている。

 快龍はそれを拾い上げて、中身を確認した。

 文字を目で追う。

 短い文章なのに一度目は頭に入らなかったので、もう一度最初から読み直した。


【快龍さん

 お話したいことがあるので、放課後、視聴覚室まで来ていただけないでしょうか】

                    

 その文字は、美しい楷書で書かれていた。

 ホウカゴ。シチョウカクシツ。キテイタダケナイデショウカ。

 ハナシタイコト。

 こんなにシンプルな命題なのに、内容がうまく頭に入ってこない。

 快龍は誰にも聞こえないように繰り返しながら、紙を小さく折りたたんでブレザーのポケットにしまった。


 紙の右下には、これまた達筆な文字で千尋と記されていた。


***

 放課後。担任の長話がようやく終わり、少し時間をおいて教室の生徒の数が減ってから、快龍は校舎の片隅にある視聴覚室に向かった。

 ほとんど使ったことがない教室だ。視聴覚室近辺の廊下はやけにひっそりとしていて、文化部の生徒の姿も見かけなかった。

 ドアはガラガラと音をたてて開き、部屋の様子が少しずつ視界に入ってくる。

 西陽が差し込む教室は、折り畳みのテーブルも全て片付けられていてガランとしていた。


「快龍さん、来てくれたんですね」


 ただっぴろい空間の窓際に、千尋が姿勢を正して立っていた。

 今日は部活がないからか、髪は丁寧に織り込まれたハーフツイン。

 制服姿で爪先までピンとした姿勢は、まるであらゆる作法に通じたメイドのようだった。

 何が始まるのかと、息を呑んだ。


「どうしたんだ? わざわざこんなところに呼び出して」


「はい、それは……、あ、す、すみません、少し待っていただけますか?」


 千尋はくるりと振り返ると、窓ガラスの端に寄せられていた全てのカーテンを勢いよくザッと閉めた。差し込んでいた日差しが遮られ、部屋全体が薄暗くなる。

 放課後。誰もいない視聴覚室。

 密室、という言葉がよく似合った。


「ふぅ、誰かに見られたら恥ずかしいですからね」


「なぁ。何が始まるんだ」


 もう夕日の影響はないはずなのに、千尋の頬は赤く染まっているように見えた。

 ドクドクと心臓の音がして、それが自分の心音だと遅れて気づく。


「快龍さん、わ、私、きちんと言わないといけないなぁと思いまして」


 千尋は行儀よくスカートの前で右手を左手で押さえるようにしていたが、よく見るとその手は小刻みにふるふると動いていた。

――いきなりすぎても、困っちゃうと思うから。

 小倉さんの言葉を思い出す。

 これは、もしかしたら、準備段階というやつなのだろうか。


「ああ。ゆっくりでいい」


 快龍は覚悟を決めた。

 どんな言葉でも、マネージャーとしての立場をわきまえながら、受け止める覚悟だ。

「か、快龍さん、私は、ですね……」

 千尋はスゥっと息を吸った。そして、両手を胸に当てて言った。


「快龍さんのおかげで、私、ピアノを辞めることができました! ありがとうございました!!」


 はぁ。

 彼女はとても晴れやかな顔をしていた。

 まるで長い間自分を縛っていた鎖からようやく解放されたような。

 そんな微笑みに、拍子抜けしたなんて言えなかった。


「おお、それは良かったな。母親に言えたのか」


「はい。最近は自分のやりたいことにも自信が持てるようになってきて、はっきりとそれを伝えることができました。お母さんも、応援してくれるって言ってくれてホッとしてます」


「やりたいこと?」


「はい、勉強と、バレーと……」


 そこまで言ったところで、千尋は快龍から目を逸らした。

 いや、むしろここまでよく目を合わせて喋っていたなと思う。

 それに母親に自分の気持ちを、しかも辞めたいというネガティブな気持ちを伝えることだって相当な覚悟が必要だっただろう。

 最初に会ったときに比べたら、彼女は間違いなく成長していた。


「あともう一つは、ひ、秘密です!」


「そうかそうか」


 千尋の成長が嬉しくて、なんとなく聞き流してしまった。

 多分、先日の部活で一緒にやったスクワットだろう。

 あの中毒性にはそう簡単に逆らえるものではないことはわかっていた。


「よし、じゃあ行こうか」


「あ、待ってください快龍さん! あの、その」


 千尋が何やら口ごもった。


「ゴールデンウィーク、よければどこかお出かけしませんか!」


――ぬ?


 予想だにしない誘いに、一瞬脳が停止してしまった。

 いや、それよりも。

 快龍よりも、何故か千尋の方が驚いたように口を開いている。

 どうしたんだ、と口に出そうとしたとき。


「あ、それ私も行きたい!」


 快龍の後ろから、明るい声が聞こえた。

 ドアを開けた音はしなかった。はずなのに。

 軽やかなステップで、彼女は快龍の隣に並んだ。


「紗良!? なんでいるんですか?」


 千尋の目がぐるぐると泳いでいた。

 紗良は、快龍のいとこはうーんと小さく首を捻る。


「なんでいるんですかって、それはこっちのセリフでもあるよね。私は、快龍くんに部活の伝達事項があって探してて、こっち方面に行く姿を見たってがいたからなんだけど」


 ボブヘアを靡かせて、紗良がにっこりと笑っていた。

 両手を胸の前で組んだまま固まる千尋。

 彼女は何も返すことができず、重たい沈黙が二人の間にのしかかった。

 

「まぁ、いいや。それよりも、さっきの話。ゴールデンウィークさ、トーカと雪も誘ってみんなでお出かけしようよ!」


 そんな沈黙をはねのけるかのように、紗良は元気よく言い放った。

 幼い時から見ていた、いつもの紗良だった。

 千尋は長い間呼吸を止めていたのか、ふぅぅと息を吐き出した。

 快龍の大胸筋まで、ピクピクと痙攣していた。

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