魔法学園への一歩
本を手にしてから一年が経った。
私は順調に四つの本を読み進め、ついに基礎の魔法は完璧に習得した。言語の勉強からスタートすることになったが、全て順調だった。
順調……とは言ったが、寝不足と疲労で三回ほど倒れたのだった。名誉の負傷とはこのことを言うのかもしれない。
よって、仕方ないことではあるが、もうあの四冊の本の内容では足りなくなった。回復魔法の基礎は体で覚えたし、薬草の調合は本を丸々暗記した。植物を操る魔法だって、沢山練習したのだ。
私は、とっくに医者としての一歩を踏み出していたみたいだ。
最後の一冊の、最後の一ページを読み終わった時、私はなんとも言えない虚無感に駆られ、そのまま古本屋へと走った。悪い予感と淡い期待が混ざり合って、身体中が震え始めた。怖いのだろうか、それとも高揚しているのだろうか。
古本屋につくなり、私はココアが出てくるのを待たずにジジイに言った。
「ジジイ! さっき、全部読み終わった……買った本を、全部!」
「まずはこんにちは、でしょう? ……そうか、読み終えたのかい。よく頑張ったね」
ジジイは優しく微笑んで、ココアを出してくれた。私はいつもの席に座って、それを一口だけ飲んだ。ちょうど走ってきたからだろうか、いつもよりも甘く感じた。
「なぁ、次の本って高い? 私、銅貨五枚しかないんだけど……」
「その必要はないよ。もう、今のミリなら推薦入学できるはずだからね」
「えっ、そう……なの?」
嬉しい気持ちと、寂しい気持ちが、私の胸の中を曇らせた。少しだけ予感していた、でも実感はなかった。
「他に教えてくれることは?」
「すまんが、全部教えたよ」
「そうなんだ。そうなのかな……」
私は急に、寒気のような感覚に襲われた。以前クラリスが言っていた「この街を出る」ということを、少しだけ実感したのだ。
ようやく達成した一つ目の目標のその先には、孤独が待っているような気がした。でももう、引き返せない。私は医者になるのだから。私はそれを認めたくないのか、キツイ言葉を使った。
「……じゃあその、早く推薦の受け方を教えてよ」
「そうだね、魔法学園へ面接に行く前に、本当に五級の実力があるかを試す必要かあってね」
「そうなのか?」
「そう。だから、気が遠くなるかもしれないけど……身近な人が怪我をしたら、すぐに駆けつけてヒールできるか試すんだ。無事成功したら、五級の実力があるということになる」
なるほど……? そうか、植物と生物ではヒールに要する技術や魔力量に差があるのか。本当に気が遠くなるぞ、母も私も怪我なんか滅多にしないし。近所のクソガキはよく転んだりしてそうだけど……頼りたくないな。
つまり、お預けってわけか。
「まぁ、気長に待つといいよ。魔法学園は逃げないからね」
「……うん、まぁ。そうする」
私が不満そうに頷くと、ジジイは私に言った。
「ミリ、お前はすごいぞ。私が十年かけて学んだ事を、たったこれだけの期間で習得したんだ」
「そう」
「君は今まで沢山努力してきた。せめて、入学までの間は焦らずに休むといい」
「でも、魔法学園が逃げるかもしれないからさ! ……なんてね、わかったよ。ジジイ」
ジジイはやはりニコニコしていた。もちろん、三秒後に拳が飛んでくることもない。ただ、いつもより少し、寂しそうな顔をした。
ふと、クラリスがいつものように話に割り込んでこないことに気がついた。彼女はいつも、どこからともなく現れるというのに。
「ジジイ、クラリスは?」
「屋根の上で話を聞いているんじゃないかな」
「そっか……」
私は見上げて、なるほどと思った。屋根には天窓がついており、少し開いているのがわかった。屋根の上にいると、この天窓越しに私達の会話が聞こえてくるのか。どうりで、自然に話に割り込んでくるわけだ。
ということは、さっきの話も聞いていたみたいだな……。
この街を出ていくのは寂しい。それはきっと、クラリスも同じ気持ちでいるのだろう。前に話したときは、とっととここから去りたいとばかり思っていたが、あのときの彼女の気持ちが少しだけ理解できた。
私は「ちょっと行ってくる」とジジイに伝え、駆け足で店の外に出た。そして、見様見真似で、木箱を使って屋根の上まで登る。しかし、それだけで息切れしてしまった。本ばかり読んで運動不足の私にとっては一苦労である。
クラリスは屋根の上に寝そべって、空を見ていた。
「クラリス、毎日ここ登ってるのか。よく疲れないな」
「…………日向ぼっこはつまらなそうなんじゃなかったっけ?」
「違う、お前に会いに来たんだ」
私はクラリスの隣に寝そべって、同じように空を見上げた。青い空は、一枚の天井になって私達を見下ろしていた。雲が高く、いい天気だ。いっそ雨でも降ってくれていたらよかったのに……そう感じるほどの晴天だった。
「ねぇクラリス。さっきの話、どうせここで聞いてたんでしょ」
「…………」
「私は医者になる。そのために、この街から出ていく」
「……せっかく友達になったのに?」
クラリスの声は、珍しく震えていた。彼女らしかぬ曇った声色に、私は少しだけ申し訳なくなった。
「そうだな。でもまぁ、そのうちまた会えるよ。友達だから」
「そうかな? 私はね、ミリがもう少し長くこの街にいてくれると思ってたよ。けど、ミリは優秀だからって……おじいちゃんが言ってて」
「寂しいのか?」
クラリスはハッと起き上がって、私の顔を覗き込んだ。透き通った瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。その姿が太陽と重なり、逆光越しに彼女は声を荒らげた。
「寂しいに決まってるじゃん!」
「そうか……私もだよ」
「……」
「でも、決めたことだから」
「……うん」
「少し、日向ぼっこでもしてから帰るよ」
そして私達は青空を見ながらしばし、何も話さなかった。静かな古本屋の屋根の上は、やはり静かだった。遠くに聞こえる話し声、風の音、私の鼓動……それだけしか聞こえない。これが日向ぼっこか、思ったより悪くないのかもしれない。
さっきの言葉は嘘じゃない。私も、本当は寂しいのだ。初めてできた友達と、もうしばらくは会えないなんて。
太陽の光が、全身に染み渡るのを感じた。屋根の上から見る景色は、混じり気のない青だけの世界だった。
私は、隣ですすり泣くクラリスに一つ、ずっと言いたかったことを言った。
「ありがとう。私を街へ連れ出してくれて。パンを分けてくれて。大切なことを教えてくれて」
「……どういたしまして」
「出発の日、また来るよ」
私は立ち上がり、街を見下ろした。そして、大きく伸びをして、深呼吸をしてから言った。
「じゃあね」
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