第5話

 話に夢中になっている間に、病院に到着していた。

 悩む暇がなかった事が功を奏し、また、すたすたと院内に入る佐藤の背中が前にある事がまた一つとして、郁を大いに助けた。病院の中を観察するでなく、郁はただ、真っ直ぐに佐藤の背中だけを見つめ、追いかけていれば良かった。

 可能な限り視界を狭くして、薬のにおいを感じずに済むよう口呼吸に切り替える。佐藤がエレベーターに乗り込むと、飛び込むようにして後を追った。束の間二人きりになると、佐藤は「大丈夫?」と小さく言った。それに何とか頷きながらも、視線を足元に落としたままの郁に感じるところはあったのだろう。佐藤は肩に提げた鞄を振るようにして、「掴まってていいよ」と言った。有難く鞄の端を摘まむ。

 俯きながら、佐藤のかかとを追うようにして進む。

 口で息をしていても、廊下だけを見つめていても、心を閉ざしているつもりでも、情報はあらゆるところからやって来る。

 ふとした瞬間に鼻で吸ってしまった空気に混ざる薬品の匂い、清潔でつるりとしている廊下も独特で、ガラガラとストレッチャーの音が聞こえる。患者の、医療関係者の、息遣いが、声が、言葉が、郁の心臓を締め付ける。

 鞄を摘まむ指が、震えている。郁自身の提げた鞄もずっしりと倍程重く感じ、はっ、はっ、と郁は震える唇から鼓動を吐く。

「映画さ」

 不意に声をかけられて、郁はぎゅっと鞄を摘まむ指に力を込めた。

「映画?」

 平静を装っているつもりだったが、声が震えたように思う。

「見たいアニメ映画やってるの思い出した」

「……あにめ」

「嫌い?」

 鞄の動きで、佐藤が振り返ったのが分かった。恐る恐る顔を上げると、首だけでこちらを振り返る佐藤と目が合う。

「あ、にめ? ああ、アニメ。ええっと、嫌いじゃないけど」

 投げかけられる言葉を脳が理解処理するまでに、時間がかかる。余計な事を考えている証拠だ。

「じゃあ君に見たいのがなかったら、それにしようよ」

 ふっと笑った佐藤を見ていると、ほっと安堵の息が漏れた。口から鼓動の塊を吐き出していたはずなのに、詰めていた息をやっと吐き出せた、そんな感覚だった。

「奢られるの嫌いって話なんだけどさ」

「……うん」

「条件あったらどう?」

 条件、と呟く郁に、他の事を考える余地を与えまいとするように、佐藤は続ける。

「ポップコーン奢るからさ。……いや、違うな。一つお願いを聞いて欲しいから、奢られてくれない?」

「奢られてくれない?」

 変な言い回しだなと、郁が小さく吹き出すと、佐藤はしてやったりとばかりに、にやりと笑った。

「御礼を考えるのが面倒くさいからさ。代わりに奢られて?」

「お願いによるかな」

 佐藤の言葉に耳を傾け、会話をする事に頭を使い始めると、意識がそちらに集中していく。ふっと気が楽になっていく事でそれを悟った郁もまた、会話を切らさないようにと直ぐに反応を返す。

 佐藤は徐に、後ろ手をこちらに向けて差し出した。

「母への彼女アピールで。手を繋いでる姿見せたいんだけど?」

 即レスしてやると意気込んだ郁だったが、言葉に詰まった。まじまじと差し出された手を見遣り、前を向いてしまった佐藤の後頭部に視線を戻す。

「お触り禁止条約の破棄を申請されてる?」

「一分だけ」

 佐藤はやはり首だけで振り返り、きまり悪そうに苦く笑う。嫌だ、とは思わなかったので、郁はゆっくりと、差し出された佐藤の左手に自らの右手を載せた。郁の手を手繰り寄せるようにして、佐藤は小さな郁の手を握り込む。

「直ぐ、終わる」

 佐藤に言われて顔をあげると、目の前には「佐藤」と扉にネームプレートのある病室があった。ガラス張りで、中の様子は廊下にいても良く見えた。下半身が隠れるようにカーテンが引かれていたが、ベッドに横たわり、首だけをこちらに向ける女性と目が合い、はっとする。

 佐藤は郁と手を繋いだままの左手を上げ、手を振る。掴まれたままの郁も手を振る羽目になったが、引っ張られた訳ではないので痛くはなかった。

「ありがと。ちょっとだけ話してくるから、ここで待ってて」

「……うん」

 するりと郁の右手から熱が逃げて、佐藤は病室の中へと消えて行った。失った熱を探すように右手を開いたり握ったりしながら、郁はただ、廊下に佇んだまま小さく一礼をした。一応彼女としてきているという使命感もあってか、郁は微笑みを絶やさぬようにと努める。

 そんな郁の目の前で、佐藤は女性の側の椅子に腰かけ、女性と話し始めた。何を話しているのかは聞こえないが、こちらに視線を寄越したり、母親の顔をのぞき込んだりしながら、彼女の前でリンゴジュースを飲む。

 郁の事を紹介しているのかなと、幾度となくこちらに視線が向けられる事で思う。いつこちらを振り返るやらと思うだに、表情筋を緩める事が出来ない。少しでも佐藤が郁を自慢できるように、少しでも佐藤の母親が郁に対する心証を良くすることが出来るように、ただ、郁は微笑んだまま二人の様子を見守った。

 佐藤の母親はげっそりと痩せこけていたが、穏やかな表情をしていた。痛みに苦しんでいるといった様子ではない。穏やかに、幸せそうに、息子を愛おし気に眺める姿にじんと来て、郁は我知らず涙ぐむ。自分の母親もあのような目で郁の事を見ていてくれたのかと想像すると、そうあって欲しいと願わずにはいられない。

 郁の記憶にあるのは、鮮血乱れ飛ぶ、戦場のような病院での両親の姿だ。

 ストレッチャーに乗せて運ばれていく苦しそうな両親の姿、それが郁が見た生きた両親の最後であって、手術室から出た時にはもう二人共死んでいた。

(病院にも、こんな穏やかな時間が流れるんだな)

 笑う佐藤と、幸せそうなその母親の姿を見つめていると、止め処ない涙が溢れる。

 もう何度目か、郁を振り返った佐藤が、ぎょっとしたように表情を硬くした。はっと我に返って涙を拭おうとしたが、もう遅い。

 佐藤は母親に断るようにして、慌てて病室から出て来た。

「だ、大丈夫? どうした?」

「あー、ごめん、なんでもない。なんでもないの、ほんとに。幸せそうで、泣けた」

「は?」

「病院ってそうだよね、痛いのをなんとかするとこだよね。痛い所じゃなくて。忘れてたなぁ」

「……はあ。とりあえず、送るよ」

 訳が分からないといった様子の佐藤だったが、郁も正直何を言っているのか自分でも分からない。ただ、手術室に入る前の両親の事ばかりがトラウマになっていたが、運び出された両親は、信じられない程穏やかな死に顔をしていた。痛みを失い、それはそれは、穏やかだった。あの病院は、両親を治そうとしてくれた場所だった。

 佐藤の母親の病室は、真っ白だった。血を思わせる赤いものはなくて、清潔感のある目に眩しい程の白さ。横たわっている女性はいつ死のうかという状態とは聞いたが、穏やかで、痛みとは無縁の顔で郁を心配そうに見ている。郁が、心配されている。

「大丈夫、本当に。お母さんに付いていてあげて。私一人で帰れるから」

「いやいや、送るって。遅いし。明日また来るって言って来たから平気。行こう」

 佐藤は郁の手を取り、母親にガラス越しに手を振る。郁がぺこりと頭を下げると、彼女は目だけでおっとりと、微笑んだ。

 佐藤はもう一度だけ母親に向かって手を振り、歩き出す。手を引かれるままに歩き出した郁は、反対の手で涙を拭いながら佐藤の背中に向かって言う。

「ごめん、お母さんに心配させちゃった」

「そんなの気にしなくていい。気分悪い? 倒れない?」

 気にするよ、と佐藤に聞こえないように独白する。息子が最高の彼女を捕まえたと喜ばせてあげなければならないところを、予告通りぶっ倒れたならまだしも、泣き出してしまうとは。申し訳なくて頭が上がらない。

「……えっ!?」

 急に体を引っ張られて、郁はぎょっとする。え、え、と困惑の声を上げている間に背負い上げられ、郁の頭は真っ白になる。

「な、なに!?」

「病院出たら直る? 痛いとこあるなら、ここ病院だからついでに診てもらおう」

「い、いやいやいやいや、接触禁止令!」

「時と場合って言ったのはその口だろ。高校生が急に泣き出すって、普通か!?」

 まあ普通ではない、と郁は苦く笑いながら、ふと目を向けたガラスに映った自らの姿を認め、さあっと青くなる。いい年をして、子供のように背負われる姿に、恥ずかしさを通り過ぎて眩暈がした。

「お、おおおお落ち着こう、落ち着こう佐藤君! 本当になんともない! 倒れない、痛くない、ただただ恥ずかしい! 心の底から降ろして欲しい!」

 くすくすと、通りすがる看護婦さんに笑われ、次いでお静かにと注意を受ける。更に恥ずかしい。

 佐藤もまた、看護婦さんの言葉を受けて我に返ったのか、徐に郁を下ろした。しっかりと郁が自らの足で立ったのを見届けてようやく、佐藤は重い息を吐く。

「……泣くとかさぁ」

「それは本当にごめん。こう、感極まって涙が出るのと同じようなもので、痛いとかじゃないの。本当に、ごめんね。お母さん、心配してるんじゃない? 平気かな」

 郁は両手を合わせ、謝る姿勢を見せつつ問う。

「いや、もうほんと気にしないで。連れて来た俺が悪いんだから。こっちでどうとでもする」

「気になる」

「気にしないで」

「気になるって」

「気にしないでって」

 ごほん、と通りすがりの咳払いに、郁と佐藤は黙り込む。何故か睨み合うようにして病院を抜けた時、郁は暗くなった空を見上げ、はっと後ろを振り返った。病院の中を歩き回って、自らの足で、出て来た。

 郁はしみじみと病院を見上げ、妙な達成感に体の力が抜けていくのを感じた。へたり込みこそしなかったが、すっかり肩の力が抜けた郁を見て、佐藤は喧嘩の続きを始めようとはしない。

「……お母さんに、お会いできて嬉しかったですって、お伝えしてね」

「……ありがと」

 きっと変に思われた。心配もかけた。だが済んだ事を言っても、もうどうしようもない。

「彼女でいるうちは、また会いに来るよ」

「ん?」

「このままじゃ気持ち悪い」

「ああ。いや、お気持ちだけで。これ以上君に負担をかける事が、俺にとっても負担だから」

 佐藤は時計を見遣り、ぎょっとしたように歩き出す。

「やばい。門限間に合う? 急ごう」

 歩き出す佐藤に慌てて続きながら、郁は最後にもう一度だけ、病院を見上げた。

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