第7話 二人目は可憐な花

 その人は、まるで何もかもを見透かしたように柔らかく笑う人だった。胡散臭い、と誰より大切な人は毛嫌いしていたが、キニアにはその笑みが作り物には思えなかった。

 この世の全てを憂いている人だった。この世界の全てを愛している人だった。

 彼の人にとって、何もかも同等の価値でしかなかったのだろう。行き過ぎた博愛精神を抱えて生きる姿はとても窮屈で、哀れに見えた。特別がある温かさを知るキニアの目には、ただの寂しい人としか映らなかった。

「来た」

 草を踏み分ける足音を捉え、キニアは身を起こす。丁寧に編まれた枯草のベッドは居心地がよくてつい微睡んでしまっていたが、睡眠の時間はもう終わりだ。

 ついに会える。特別を持たない人が、焦がれ続けた相手。唯一になってくれるかもと期待を託した我らが主。

 乱れた髪を整えて、皺の寄った服を少しだけ伸ばして、それから口角をきゅっと両手で引き上げる。

 はじめましては笑顔がいい。好きになってほしいから。

 第一印象はきちんとしていた方がいい。その方が大切にしてもらえそうだから。

 打算ありきだが、それがキニアの行動原理。お友達には奥に引っ込んでいるように指示を出して、それからふと今日は隣にいない大切な人を視線で探す。

 会いたいと言っていたはずなのに、どこへ行ったのだろう。朝食を調達しに行っているだけならいいのだが。

 どんどんと近づいてくる足音に耳を澄ませながら、散漫とちらかる意識を外に追いやり、逸る鼓動を深く吸った息で宥める。じわりと滲むのは緊張の汗だ。息苦しさを覚えるのは、後戻りできない出会いへの不安からだ。胃の腑がしくしく痛むのは、いよいよ運命が巡り出すことへの期待からだ。

 そうして待つこと十数分。ようやく目の前に現れたその人を見て、言葉を失った。

 つややかな黒髪、白い肌。見たことのないふわりとした服がよく似合う、見惚れるような美貌の娘。

 ――だけど、そんなことはどうでもいい。

 その髪を彩るリボンに目が釘付けになる。それは、そう、彼の人が珍しく破顔しながら見せてくれたもの。私欲を捨てた人が我欲に塗れていると自嘲しつつ手にしていたもの。

 明確な、愛の証。

 息が詰まる。歓喜の衝動に身を焼かれ、声が出ない。

 あまりの衝撃に浮かべるはずだった笑みを失っていることにすら気づかず、ただキニアは立ち尽くした。




 

 獣道ですらない所を歩き続けること数十分。妖精の無駄口も止み始めた頃、ぽっかりと開けた空間に出た。あれだけ方々に伸びていた雑草も、枝葉を伸ばしていた木々もない。遮るものを失った天上から降り注ぐ日差しの温かさは、日陰に冷やされた体へ浸透して仄かな熱を残した。

 それは、文字通り自然を体現した森の中、人為的に作られた場所だった。

 その中心に、少女はいた。歳は十を少し過ぎたあたりだろうか。澄んだ造形美、というのが一番ふさわしい可憐な面立ちの少女だ。華やかなピンクブロンドは腰にかかるほど長く、顎あたりで切り揃えられた横髪が滑らかな象牙色の肌を引き立たせる。大きな柘榴が嵌め込まれた双眸はやや垂れ気味で、どことなく気弱そうな印象に拍車をかけそうな危うさを醸し出している。反面、固く引き結ばれた淡く色づく小さな唇は意志の強さを表しているようでもあった。

「……はじめ、まして」

 しかし、花弁はふるりと解け、雲雀の鳴き声を思わせる――或いは金糸雀の囀りを思わせる声で挨拶を落とした。か細く、儚く、硝子細工のように壊れそうで、返事を躊躇った。何を言っても彼女を傷つける気がした。大きな布一枚で作られた簡素なワンピースが華奢な体躯を強調しているせいもあって、非常に庇護欲を煽られる。

「わたし、キニア。あなた、は?」

 たどたどしく少女――キニアが名乗り、大きな瞳を潤ませて見上げてくる。ぎこちなく引き上げられた口元が弱々しい。怯えや恐怖の色は見えないのに、どうしてだか後ろめたさを覚えた。

「シャルディナです。キニアと呼んでも?」

「はい。閣下の、お望みのまま……呼んで」

「ありがとうキニア。貴女も閣下はやめて」

「じゃあ……魔王様?陛下?」

「できれば普通にシャルディナと。私は確かに魔王役だしその役に殉じるけど、孤高の存在は遠慮したいから」

「……?わかっ、た」

 よく呑み込めていない顔で、それでも素直に受け入れてくれたキニアが手を差し出してきた。反射的に握り返せば、柔らかな感触が返ってくる。豆のない手だった。滑らかで瑞々しく、労働を知らない手だった。公爵令嬢であるシャルディナの掌の方がまだペンなどを握る影響で硬いかもしれない。

「もう一人いると思ったんだけど」

「いる。でも、さっきから、いない」

「どんな人?」

「……優しい、よ」

 その人に大事にされているのだろう。はにかむように言った彼女の顔は、先ほどまでとは違いとても明るかった。

「会いたい?」

「うん。そのために来たからね」

「わかった」

 こくんと頷いたキニアが握った手を放して背を向ける。淡く陽光を弾く髪が軌跡を描いた。なめらかな動きだ。丁寧に梳かれているのがわかる。

 本人に自覚があるかはさておき、彼女がもう一人の誰かに猫かわいがりされていそうな気配がひしひしと伝わってきて苦笑が零れた。仲間内の結束が固いのはいいことだが、駒としては扱いにくい。四人それぞれに動いてもらおうと考えていたが、考え直す必要がありそうだ。そうでなくても純粋培養で育ちましたと言わんばかりの振る舞いをしているキニアを単独で動かすのはリスキーに思えた。

 当初の方向性から若干の軌道修正をしつつ思考を目まぐるしく回転させる私を置いて、すん、と宙を嗅ぐ仕草をしたキニアが歩き出した。慌ててその背を追いながら、キニア、と話しかける。

「ずっと此処で暮らしているの?」

「違う。覚えてない。でも、違うって、ルスが」

 それが、もう一人の名前か。男とも女とも判断しにくい名前を頭に刻み、唇を舌で湿らせる。

「どうして違うって言われたの?」

「わたし、動けたから」

 その発言の意味を量りあぐね、どう受け取るか悩んだ。覚えていないからには物心つく前なのは確かだが、動くにもいろいろ種類がある。這う、立つ、歩くなど、赤子ができそうな範囲だけでも幾つか候補を挙げられる。彼女がいったい幾つの時から森で暮らしていたのか、動けた、という言葉だけでは判断のしようがなかった。

 その困惑が伝わったらしい。一瞬振り返ったキニアがひどく申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんなさい。わたし、うまく話せない。ルスは、平気、なんだけど」

「緊張する?」

「ううん。言葉、選ぶの難しい」

「……選ばなくて、いいよ?」

 同性の、それも年下に気遣われるのはこそばゆいを通り越してひたすらに気まずい。与えられた配役が起因しているのかもしれないが、私はもっと砕けたフラットな関係を築きたいと思っている。具体的に言うなら、互いに敬語は使わず、遠慮なく物申せる関係だ。アリステラたちと明確に敵対して対面する場においては無理だとしても、それ以外の私的な場では立場と言う壁を取っ払って気軽に接してくれた方がありがたい。

 などと諸々言い募ってみたが、キニアの反応は芳しくなく、ふるふると横に首を振られた。

「できない。ルス、特別。シャルディナは、えっと、おねえ、ちゃん?」

 なんだろう、このとてつもなくかわいい生き物は。

 振り返って上目遣いに見上げて来るキニアの尊さに、心臓がきゅっと締め付けられたように切なくなる。

「わたし、シャルディナ、好き。嫌われたく、ない」

 追撃がきた。ぐうっと変な音が喉奥から零れ出る。

 これは、駄目かもしれない。私はこの子を守りたくなって、どろどろに甘やかして、果てには四天王の道から遠ざけてしまうかもしれない。そんな考えが過ぎるほど、計算した様子のない純粋な好意から繰り出される素直な発言は威力が高かった。落雷が身体を貫いたかの如く、社会人生活に揉まれた経験のある私にはあまりに効果抜群だった。

 どうして対面して間もない私を好いてくれているのか、とか。疑問がないわけではなかったが。

 嫌われたくないと願う彼女と同じく、私も彼女に好かれたいと思ってしまった。

「嫌わないよ。寧ろ私が嫌われるんじゃないかって不安かも」

 その思いを言の葉に乗せる。きょとんとキニアが目を丸くした。

「どうして」

 心の底から理解しかねている声だった。わたしは好きなのにと副音声が聞こえてくるほど、まろやかな好意に満ちた顔だった。幼子が父母の愛を疑わないように。赤子が悪意を知らないように。

「うそ、言わないよ」

 彼女の世界には、愛が満ちている。溢れんばかりの愛を抱えて、開けっ広げに手渡している。

「必要な嘘もつかないの?」

「うん」

「なんでか訊いても?」

 質問ばかりしているなと思いながら尋ねると、うん、とキニアが頷いた。

「わたし、本当が好き。正しいは、傷つく。本当も、残酷。嘘の方が、優しいとき、あるよ。でも……優しいは、自分にだから」

「それは……例えば、だけど。傷ついてほしくない、じゃなくて、傷つく貴方を見たくないっていうエゴだから?」

「うん」

 キニアが紡ぐ。風にさらわれそうなほどか細く、だがしっかりと。

「うそは薄氷。割れるもの。白日の下、いつか、輝く。エゴは優しく、でも、人、選ぶ」

「そうだね」

 彼女の言う通り、嘘は諸刃の剣だ。残酷な真実を覆い隠し言われた人に安寧を与えるが、言った方には安堵といつ真実が露呈するかという不安を覚えさせる。全てが明るみに晒された時、嘘を親切だと受け取られるならまだいい。だが、裏切りと捉えられたら最悪だ。互いの間に育んだ絆は断絶され、禍根だけが残ることになる。

 そもそも嘘をついた場合、それを責任と認識してしこりにする人がいる。得体のしれないもやもやとした不快感を臓腑に溜め込んで、焦燥に駆られる日を過ごす。その結果、向ける感情が歪み、関係が拗れ、負担に潰されておしまいだ。

 何事にもメリットデメリットは存在している。それをしっかり理解していても人は失敗するし傷つけあう。

 それなら最初から正直でいたいというのは当たり前のことだった。その当たり前が難しい点を覗けば。

「正しさ。本音。真実。全部、敵を作る。空気読めない、って、言われるって」

「ルスが?」

「ルスが。でも、わたし、それでいい」

 キニアが軽く両手を広げて、息を大きく吸い込んで、笑った。幼い彼女に相応しい、無邪気な笑みだった。

「わたしの中心は、ルス。それからシャルディナ。仲間。それだけ、だから。外野は、知らない」

「――――――」

 何となく、理解した。キニアに裏表はないが、それはただ純粋だからではない。排他的だからこそ生み出された、透明な心なのだ。彼女にとって大多数の人間はどうでもよくて、敵に回したところで彼らの言葉がキニアの心身を傷つけることはない。どれだけ悪意を向けられても、鋭利な切っ先を喉元に突き付けられても。無関心な相手の言葉は負け犬の遠吠えや騒音にしか聞こえない。わざわざ相手をするのも、心を割くのも、それは対象が自身にとって無視できない何らかの関心の対象だからこそ成立するのであって、その対象にすらなれなかった者は皆塵芥に等しい。

 それでも、割り切れないのが人間だ。人類は共感するために感情を獲得しそれを言語化する術を身に付けたが、それひ容易く相手の権利を侵害し迫害する道具にもなった。面白半分に他者を傷つけその有様を嘲笑い愉悦に浸る愚者を、異なる者へ抱く本能的な恐怖を凌駕するため徹底抗戦を選ぶ過激な者を生み出した。それらの悪意に無関心でいるには、人の感情は可能性に満ち溢れ、感受性豊かに、心は繊細過ぎた。

 形なき透明な刃は常人に癒えない疵を刻み、優しい者ほど追い詰め、病ませた。

 キニアのようにすっぱり二分化して対応できるのは、極めて珍しい例と言えた。

「それに、わたし、ほんとう、だから」

「……?えっと、それは具体的に何がどう本当なの?」

「役目。対応?かも」

 自信なさげに付け加えられ、目を瞬く。彼女に課せられた役目、対応。そういえば、本人の口から明言こそされなかったが――妖精は首肯した――コノエもどう振る舞うのか定められている様子だった。ごく自然に嘘と真実を織り交ぜて話していたから忘れかけていたが、説明放棄していたあたりもしかしたら判明している以上に四天王には枷が多いのかもしれない。

「シャルディナは、ない?」

「ううん。あると言えばある、けど」

 シャルディナ自身には魔王として君臨する以外、指令らしい指令はなかった。四天王を探すよう妖精に促されたのが当てはまるのかもしれないが、さりとてそれは交換したばかりの魂に好き勝手孤軍奮闘される前の対処に過ぎない。他に考えを誘導するような何かを言われたりはしていない。第一、四天王を招集すると決めたのも私個人の判断で、責任は私自身にある。

 ただ、日常的に私がシャルディナを演じる、という点において振る舞いが制限されているのは真実だ。歴史を彩る悲劇を、後世に語り継がれる英雄譚を綴るために、私は私ではない彼女になりきる。

 喋り方も、考え方も、振る舞いも。体に染みついた習慣のままトレースして、彼女を愛した人たちの中で日常を謳歌する。スワンプマンのように。ドッペルゲンガーのように。腹に一物抱えているぶん下手な怪異より怖い存在だろう。

 兎に角、本人か否かの違いはあるものの、在り方を定められているところはキニアたちと同じと言えた。

「そう。一緒、だね。同じは、うれしい」

「お揃いみたいだから?」

「うん。わたし、ほんとうだけ。真実たれ。そう、決まってる」

 少しずつ滑らかになった喋り口で教えてくれるキニアは誠実だ。

 虚実を操るコノエとは違い、彼女はただ真実だけを紡ぐ。裏を返せば、嘘を吐くのが御法度なのだろう。故に、キニアは己の心に忠実に動く。嫌いなら嫌い、好きなら好き。隠し事は嘘につながる要因だからしない。明け透けな言動を心がけ、世界に求められるままある。

「その決まりを疑問に思ったことはない?」

 何の不満も滲ませないキニアはコノエと同様、運命を呪わないのだろうか。

 浮き上がった疑問をそのまま形にすれば、間髪入れずに彼女は言う。

「それはルス。ルスは自分が死ぬ、いいの。わたしが、は、いや。だから」

「だから?」

「ルス、言ってた。わたしたち、魔王陛下の駒。敗北の定め。でも、覆す、って」

 きらきらと希望に輝く瞳が微笑みを灯す。相手を慕う色だけを乗せて、信頼と親愛に溺れた声音で事実だけを口にする。

「わたしと、生きる。その道、諦めない。約束」

 たとえ魔王が運命に斃れたとしても。その命を散らせたとしても。

 四天王に与えられている役回りは前座であり露払いであるからこそ、明確に生死の語られない結末部分に手を加える。敗北までをきっちり演じつつ、その後にも未来が続くように立ち回る。

 方法は不確かで、困難が幾つも立ちはだかるような無謀な挑戦だ。霧で見えない道を歩くようなものだ。だけども、キニアの運命を呪ったルスは、与えられた役割の中で精一杯逆らうことを選択したのだ。

 ――相手を想うがゆえに結ばれた約束は、とても美しい。

「そっか」

 自然、笑みが浮かんだ。嬉しかった。当たり前のように死出の道に同伴するのではなく、隣にある温もりを優先してくれる意志が眩しかった。それはコノエが示さなかった――今後示してくれる機会もないであろう強さだ。

「いいの?」

 キニアが恐る恐る見上げてくる。怒られるのを覚悟していたのだろう。驚いたとありあり顔に書きながら盛んに瞬く様子に声を出して笑ってしまう。

「いいよっていうと偉そうになるけど、本心はね、皆にそうしてほしい」

 私は恋を知る代償として役を全うするけれど。コノエもきっと死ぬ道を邁進するけれど。四天王が役に抗ってはならない道理はない。シャルディナのように中身が入れ替えられる危険性は孕んでいるが、あがく権利は誰にでも平等に与えられているはずだ。

 一緒に死ぬのが忠義ではない。命を賭すのが配下の定めではない。生き延びて再起を図る――そんな体を取れば、歴史は二人を見逃してくれるかもしれない。

 すべてが終わった後に寄り添う誰かへ微笑みかけるキニアを想像する。それは何と幸せな光景だろう。

「シャルディナ、優しい」

「……そうでもないよ。二人に会いに来たんだから」

 嬉しそうに賛辞され、苦い笑みを浮かべる。

 本当に生き延びてほしいと思うなら、自分より身内を優先してほしいと思うなら、放っておけばよかったのだ。そうすれば、彼らは勝手に必要とされていないと判断して今まで通りの生活を送ることだってできたかもしれない。役目に縛られるとしても、自己判断で演じ方を決めるのであれば身の安全を第一とした引き際を互いに裁量もできた。

「私の優しさは、偽善だ」

 吐き捨てるように告げて、拳を握る。キニアが歩みを止めた。ひたりと据えられた双眸から笑みが消える。

「偽善は、ダメ?」

「……自己満足でしょ」

「全部そうだって、ルスは言う。ね?」

 視線が逸れた。つられて追って、息を呑む。

 いつから其処にいたのか、すぐ近くの木に背を凭せ掛けた少年がいた。キニアより二歳ほど上に見える彼は、かけられた声に応えるように笑んでから数歩近づいてきて、手を差し出してくる。

「こんにちは、でいいかい?我らが魔王陛下様」

 ひどく底冷えのする声は、言葉とは裏腹に私の訪れを歓迎してはいなかった。

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