【1話完結】小1女子のファンファーレ
水也空
小1女子のファンファーレ
「じゃあ、あした!」
「おう」
「殺虫スプレー、もってきてね」
「あ、おれゴキブリのやつしかないかも」
「それでオッケー」
「おう。またなー」
かくして決戦の火ぶたは切って落とされた。
いつ頃だったか、暑かった。
住んでいたアパート裏。その駐車場のフェンスの角に、蜂の巣があらわれたのだ。
灰色をして、黒い穴ぼこが幾つもあった。そこからやつらは無尽蔵にあふれ出てきた。表情はない。皆お面をかぶったようだった。言わずもがな悪の手先、その牙城といった様相。そいつがブンブンと、ここのところ威勢がよかった。
いやあねえと、母は言った。「この前、ベランダのを取ってもらったばっかりなのに」と。
「通り道じゃないだろう」と、父。新聞をバラリとめくった。
「でも子どもに何かあったらどうするのよ」と、母は洗っていた皿をガチャンと置いた。それでなくとも、このときの母はご機嫌ななめで、ブラウスに飛んだケチャップが取れないとか、下の美容室の音楽がひびくとか、なんやかんやでひりついていた。
「こわいじゃない。あぶないわよ。何かあってからでは遅いのよ」と、わたしのほうをキッと見た。
ああそうか。
そんなものか。
というわけで、子どものわたしが一役買うべく袖まくりした。何かあったら大変だから。というよりは、好きな時代劇の真似事でもして悪を「成敗!」してみましょうかと、そんな程度の調子だった。
実際、父も母も毎日忙しいのは、子どもながらに心得ていた。乾いていた。蜂ごときで火がついては困るのだった。弟もよちよち歩きで心もとない。何かあってもなくても何とも出来まい。これはもう仕方がない。しかるに大人の手は煩わせたくない。
結論、自分の安全は自分が守るべし。ひいては家族の、さらにはこの世の安全と平和を守らんと火消しに走った。
火だねは小さいうちに潰すに限る。
何かあってからでは遅いのだとさ。
とはいえ、立ち向かうには算段が要った。
心強い武者をぐるりと探した。
おなじアパートの男子をさそった。
彼は快諾してくれた。気のいいやつで、何よりひとんちの冷蔵庫を自由に開けて梅酒をラッパできる剛の者。有事に際し、おあつらえ向きの人材だった。
それで冒頭のやり取りだった。
ひといき合議し、明日に備えた。
そうして迎えた決戦日。
あっけなかった。
殺虫スプレーは容赦なかった。
蜂どもはボタボタ落ちた。それでも動いているものもいた。ブチブチ踏んだ。キャアキャア笑った。地面に黒いシミができていった。
そう時間はかからなかった。
カラになった巣は蹴っ飛ばしてみたが、案外に頑丈。やれ面倒なと、むこうの草むらに投げて帰った。
万歳。
拍手喝采。
大団円。
悪は滅んだ。かくしてこの世の平和と安全は守られたと、ファンファーレが高らかに鳴ったのだった。
「成敗!」
とばかりに蜂の死骸はかき集めて、持って帰った。
当時の子ども向け雑誌の付録に箱型の拡大鏡があって、大事にしていた。その中に詰めておいた。さらには机の一番下の引き出し、その奥の奥にしまい込んだ。
たまに思い出したようには取り出して、ガサガサ振った。ガサガサ、ガサガサ。いつまでもいつまでも音がした。
そうなると不気味になった。そいつは点々と、段々と、シミのようにひろがった。その真っ暗闇と見つめ合う勇気は、さすがになかった。
それで引っ越す時に箱ごと棄てた。
あとはトイレの水でも流すように忘れてしまった。
それがふと蘇った、今日の夕。
かたわらにはテレビ。画面にはニュース映像。アナウンサーの声が覆いかぶさる。
やれ誰かが死んだ。表彰された。
値上がりした。お買い得はこれ。
ああ勝った。そら負けた。
我らが正義。悪はどいつだ。
あいつだ。おまえだ。いやいやわたしだ。
正解も正体も真っ暗闇に、拭い去れないシミを見る。そのまた奥の奥から音がする。
ガサガサ
ガサガサ
いつまでもいつまでも。
音がして居た。
【1話完結】小1女子のファンファーレ 水也空 @tomichael
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