⑩【働く者:佐那】 【仲良し旅行:真白】
【働く者:佐那】
白髪の迷い人に別れを告げ、佐那は大股で群衆を掻き分けていく。
飛行機が正常に飛ばない場合、今日の移動自体を諦めて空港を去る者もいればこの広大な施設内に残留することを覚悟する者もいる。
ただでさえ予定を乱されるイレギュラーな事態に焦りや不安を募らせる人々のためにも、こういった場面ではより一層気を引き締めなければならない。
非常時には予期せぬ出来事が普段の何倍にも起こり得る。
空港に残る人々のためにも自分たちがその治安を守っていかなければ。
自分が全うすべき職務を想い、佐那は堂々と誇りを胸に抱く。
その磨かれたばかりの切っ先を彷彿とさせる精悍な瞳の先には大学生が五人。
彼らも例に漏れず飛行機の欠航によって身動きが取れない若者たちだろう。女が一人に男が四人。一見するとアンバランスな男女比で構成された彼らグループは、へらへらと陽気に笑いながらぬいぐるみに囲まれた長い連絡通路を歩いていく。
きっと待ちくたびれて外に出たくなったといったところで、何も不審な動きをしているわけでもない。空港は皆に開かれた施設で、誰もが自由に行き来する権利がある。
とはいえ、その権利がこの施設内のすべてに通用するという認識は少し誤りがあるだろう。例えば国際線を利用したければパスポートを持っていなければならないし、航空会社のラウンジだって何かしらの資格が必要だ。
飲食店もその一つと言える。対価として金銭を用意しなければ食事のサービスを受けることは認められない。
ほかにも、この空港には事前に予約をして対価を払わなければ使えない施設が設けられている。主に講演会や研修、壮行会などで使われる貸会議室もその一つだ。
国内線ターミナルビルを離れ、佐那は大学生五人組から距離を取りつつ彼らの後ろを静かに追う。
傍から見ればただ仲良く時間つぶしの散歩しているだけの彼らだが、警備員として勤めて早十年近くが過ぎようとしている佐那の目にはそう映らなかった。
不審な行動とそうでない行動を切り分ける絶妙な判断材料となったのは五人のうち一人がやけに困惑した面持ちをしていることだった。彼女がこれまでに培った経験値をもとに弾き出した答えだ。
一人、浮かない表情をした背の高い彼は仲間に導かれるがままにどこか知らぬ場所へと誘導されている。五人の先頭を行く男は青春を額縁に収めたかの如くとても良い笑顔を浮かべているが、佐那にはその笑みの奥に何やら怪しい企みが隠されているように見えた。
怪しい。実に不穏な香りがする。
長年の経験で育った彼女の勘は、何の変哲もない賑やかな彼らの行動を”怪しい”とジャッジしたのだ。
この先には飲食店やエンタメ施設があるわけではない。ただ貸会議室や多目的ホール、ホテルがあるだけだ。もしかしたらホテルに向かうという可能性もある。だが彼らはそれにしては身軽な格好をしているうえに、その手に持ったネコ型のおもちゃを見るに、今日この場に身を留めるつもりはないと見受けられる。
彼らが持っているのは最近SNSから人気に火がついたアイドルグループのライブで使われるペンライトだ。
特段応援しているグループがあるというわけでもない佐那でもその愛らしい形をしたペンライトの存在は知っていた。それもまたSNSで話題になっていたからだ。
確か、そのグループは今夜、東京でライブを開催する予定になっている。つまり彼らはそこに参加するつもりだったはず。
彼らを見失わないよう瞬きも少なめに五人を追跡する佐那の思考は彼らが怪しいと思う根拠をくるくると組み立てていく。
つまりは彼らはホテルに用事はない。加えて今まさに多目的ホールで開催されているビジネスイベントにも用事はないはず。となると──。
彼らの行き先を佐那が導き出した時、不意に目の前で人が崩れ落ちていった。
「な──っ! 大丈夫ですか⁉」
本能的に即座に声を上げていた。
目の前で倒れていたのは老婆だった。彼女の近くには杖が倒れていて、どうやら杖が滑った拍子に転んでしまったらしい。
「大丈夫です。ははは、驚かせてしまってすみません」
「いえいえ。お怪我はないですか」
「はい。恐らく……少し足は痛みますが、たぶん大丈夫です」
「いえいえいえいえ油断はできませんよ。どなたか同行の方はいらっしゃいますか」
「いまは皆、それぞれ自由に休んでてねぇ……」
「なるほど」
老婆に寄り添い彼女の足元を一瞥した佐那は辺りを見回す。もうすでに五人組の背中は見えなくなっていた。あっ、と息を吸い込みつつも、佐那は意識を切り替えて老婆に笑いかける。
「もしかしたら内出血とかしているかもしれません。一度手当てした方がいいと思うので、少しお時間よろしいでしょうか」
「わたしは大丈夫だけれども、あなた、お仕事中でしょう。その時間をいただくのは悪いわ」
「いえ、これも仕事のうちですので!」
当然だと言わんばかりに佐那はトンッと自らの胸を叩いてみせる。
「さぁ、立てますか? もし難しそうであれば車椅子を手配しますが」
「ふふ。大丈夫、少しだけ、支えてもらえるかしら」
「はい! よろこんで」
老婆の身体を支え、佐那はゆっくりと彼女を立ち上がらせる。思ったよりもしっかりと床を踏みしめる彼女の様子に安堵しつつも佐那は落ちていた杖を拾い上げてニコリと笑う。
「さぁこちらです。急がなくて大丈夫ですから」
心の中では姿が見えなくなったあの五人組のことが気にはなっていた。
しかし目の前で困っている人がいるのに雑な応対をすることなど佐那には出来ない。
「すみませんねぇ。ありがとうございます」
「お気になさらず。今日はご出発の予定でしたか?」
「ええ。娘夫婦と旅行の予定で」
「まぁ! それは素敵なご予定ですね!」
責任感が人一倍強いというだけでなく、彼女は人とのコミュニケーション自体が好きなのだ。見知らぬ誰かとの束の間の会話が彼女にとっては楽しくて仕方がない。
彼女の職場には毎日多様な人々が訪れる。
それもまた、彼女がこの仕事を好む理由の一つでもあった。
*
【仲良し旅行:真白】
「──すみません、ありがとうございました」
何度目か分からぬ会釈をして真白はくるりと踵を返す。
翻った彼女の表情には一秒前までの爽やかな笑顔はない。
行方が分からなくなった璃沙を探してもうどれくらい時間が経っただろう。
ちらりと見た時計の針が予想以上に進んでいたことに真白は深い溜息を吐く。
璃沙を見かけた誰かがいることを期待して多くの人に声をかけたが結果はどれも同じだった。結局のところ、今は皆自分のことに精一杯で通りすがりの人間を覚えている余裕もないのだ。
「どうしたものか……」
もはや癖となった独り言を呟きながら真白はとぼとぼと連絡通路を歩く。いくら待合場を探しても彼女のピンクのコートは見当たらなかった。恐らく、もう彼女はとっくに保安検査場を戻って外の世界に出ているはずだ。
検査を受け直すのは億劫ではある。が、もはや真白に選択肢はなく、彼女もまた無限に自由が広がるターミナルビルに放たれたところだった。
しかし捜索範囲が増えるのは真白にとっては好ましくないことでもある。璃沙を探すためとはいえ、これまで以上に注意深く彼女の足跡を辿らなければいけないからだ。
捜査の基本と言えばやはり聞き込み。それはどの場所だろうと変わらず、真白は気合いを入れ直して目に入った人に声をかけていく。
「すみません。これくらいの髪の長さのピンクのコートを着た女性を見ませんでしたか」
真白が次に声をかけたのは小さな女の子を連れた母親だった。どうやら女の子はぬいぐるみが大好きなようで、シュタイフディスカバリーミュージアムに魅了され瞳を輝かせている。推測するに、女の子がその場を離れたがらず、彼女の母親はもう長い時間この場所で娘が飽きる時を待っているといったところだ。
だからなのか、時間を持て余した母親は真白の問いに親身に向き合ってくれた。
「ピンクのコートの女性ですか? あなたくらいの若い女の子でしょうか」
「はい。女の子って言っていいのか分かりませんが」
真白は参ったように苦笑しながらこくりと頷く。すると母親は瞼を持ち上げてぽんっと両手を叩く。
「それなら、ちょっと前のことですけど彼女、ここにいたかもしれません」
「えっ」
これまでとは違う、初めて巡り合った回答に真白は現実味がないまま目を丸くする。
「事情は分からなかったのですが、ちょっと切羽詰まった様子で……あそこで電話していて、そしたら別の男の子──大学生くらいの子かな、が来て、彼女を連れてあっちの方向へ向かいましたよ。あの女の子、泣いてたみたいだけど大丈夫かなって少し気になっていたの」
母親は璃沙が居たであろう場所を丁寧に指差しながら自分が見たことを説明する。
「男の子……?」
「ええ。知り合いではなかったように見えたけど、二人で違う場所へ行ってしまったみたい」
「──男の子……?」
「はい」
真白が訝し気に言葉を繰り返すと母親は間違いではないと肯定するように親切に頷いてくれた。
「なるほど……ありがとうございます。えっと、あっちの方に行ったんですよね?」
「そうです。たぶん、上の階へ行ったんじゃないでしょうか」
「ありがとうございます。助かりました!」
真白は情報をくれた彼女にしっかりとお辞儀をして彼女が指差した方角を目指す。
「……男の子ってなんだ?」
母親が教えてくれた情報から、彼女が見かけたのが璃沙であるということを真白は確信していた。泣いていた、というのがまさしく信憑性があったのだ。しかし気になるのはもう一つの情報だ。
大学生くらいの男の子が璃沙を連れて去って行った。
「誰……?」
旅先であるこの地に二人ともそのような知り合いはいない。
眉根を寄せ、真白はうーん、と考える仕草をする。
璃沙と交わした最後の会話を思い返せば真白の胸が僅かにざわつく。
約束を破る形になってしまった陽彩の反応を恐れていた璃沙。きっと泣いていたのは彼と話をしたからだろう。これまでの経験を思えばそれは容易に想像がつく。陽彩との電話の後、璃沙の精神状態は極限にまで参っていたに違いない。そんなところにどこぞの輩が慰めるふりをして甘い言葉を囁いて彼女を懐柔でもしていたら──。
「やばすぎる……」
真白の顔が一気に青ざめていった。
璃沙がそんなに簡単に言葉だけで抱き込まれることはないとは信じているが、今の彼女に普段の掟が通用するのかは定かでない。
真白の歩幅が知らず知らずに大きくなり、その速度も加速していく。
「璃沙……っ!」
その大学生くらいの男とやらがいかにもな下衆野郎だったらどうしよう。
やはり彼女を一人にしたのは間違いだったかもしれない。
ダムが決壊したかのように真白の脳内には妄想が溢れていく。
急いで上階に駆け上がり、人にぶつからないようにだけ注意しながら真白はフロアをくまなく駆け巡った。三階にもいない。となれば残るは四階。もしくは下の階に異動している可能性もある。
「璃沙ー‼」
久しく運動らしいことに触れていなかった真白は息を切らしながら友人の名前を呼び続けた──すると、飛行機のグッズ専門店の近く、喫煙所の前に見覚えのあるピンクのコートがしゃがみ込んでいるのが見えた。
「璃沙……っ‼」
ちょうど喫煙所から出てきた数人の人影に遮られピンクのコートが隠れてしまったが、確かにあれは璃沙だ。別れた時と同じ格好の彼女を見つけ、狭まった気道が微かに広がる。行く手を阻むように行き交う人々でなかなか璃沙のもとには辿り着けない。しかし隙間から見える璃沙の様子を見てみると、彼女がスマートフォンに向かって何かを話しているのが分かる。彼女が真剣な眼差しで見つける画面に映るのは彼女の恋人、陽彩のようだ。
「──うん、そう、陽彩くん、あなたの言うことも分かる。ただ、わたしの事情も分かってほしい。記念日が大切なのはわたしも同じ。だけどね、だからってこんな時にも自分の気持ちばかりを優先しないでほしいの。わたしだって約束を破るつもりはなかった。もちろんちゃんと帰りたかった。なら行くなって陽彩くんは思うよね。でも……それと同じくらい、旅行にも行きたかった。だって……わた、わたしの人生だもん。わ、わたしだって、やりたいこと、あるの。願望を持っているの」
落ち着いた声色でスマートフォンに語り掛ける璃沙の横には見知らぬ男が立っている。彼の存在に気づいた真白の足がぴたりと止まった。
事前に聞いた情報通り、自分たちよりも若々しさに溢れる彼は恐らく大学生だ。
今時の髪型にラフな格好。横顔だけの判断にはなるが、目鼻立ちはよく、骨格に恵まれていることが見てすぐに分かる。しゃがみ込む璃沙を見守る彼の瞳は真剣だ。
真白が二人を注意深く観察していると、璃沙が彼のことを見上げ、ぐっと瞳に気持ちを込めてから再びスマートフォンに向かい合う場面があった。その彼女の眼差しから、外界と璃沙を隔てるこの男が彼女に危害を加えていないことだけは把握できる。
「怒らないで。ちゃんと話を聞いて! わたしの声を、聞いてよ……‼」
璃沙の必死の声が喧騒に混ざり合う。真白は雑音の中に響く彼女の声だけに意識を集中させた。成り行きは分からないがどうやら深刻な場面であることには変わりなさそうだ。
「だめ。もうわたしだって限界。だからこそ、ちゃんと話がしたい。ねぇ、切らないで──ううん、違う。切ってもいい。きっとそれが答えだって、それがあなたの答えになるのなら、切ってもいい」
珍しく璃沙の声は震えていない。聞き慣れない彼女の凛とした語調に真白の耳がピクリと反応する。真白は売り物である飛行機の模型を見るふりをして横目で璃沙の観察を続ける。思いがけない展開に声をかけるタイミングを見失ってしまったのだ。おまけに正体不明の男もいる。一体何が何だか真白の理解は追いつかなかった。
「────切れちゃった」
真っ暗になった画面を見つめ璃沙が呟く。真白は手にしていた模型の箱をそっと棚に戻す。どこかに二人の間に割り込む隙はないものか。
じりじりと二人に距離をつめる真白に気づくこともなく、璃沙はゆっくりと立ち上がった。
「ちゃんと言えた?」
「うん。でも最後までは話せなかった」
「大丈夫?」
「うんっ。なんかすっきりしたよ。わたしの気持ちを初めてちゃんと言えた気がする」
「そっか。頑張ったね、璃沙さん」
「うん……」
親しい雰囲気の中で男と会話を続ける璃沙は彼の言葉に目を伏せる。
「こわかったけど、ちゃんと言えた。それがなんだか嬉しくて……今は、その気持ちでいっぱい。まだ信じられないくらい。もう、喉カラカラだよ」
「あとは決着をつけるだけですね」
「ふふ。そうだね。うまくできるか分からないけど」
「大丈夫。璃沙さんならなんでもできる」
「──うん」
顔を上げ、璃沙は男に向かって柔らかに微笑む。まるで憑き物が落ちたかのような朗らかな笑みだった。それから璃沙は嬉しそうにぴょんっとジャンプして男を軽く抱きしめる。
「汐音くん、ありがとうっ」
「わっ。びっくりした」
「ふふ。ごめん。でも嬉しくて」
「や、別にいいですけど────ん?」
突然の璃沙からの感謝の抱擁に男は驚きつつも笑っていた。彼らの笑顔を見た瞬間、真白の思考が白紙に戻る。目の前の二人に突如として靄がかかったように見えた。身体を支えるために引っ張っていた糸が突然切れたような感覚だった。
和やかな二人のやり取りを聞いているだけでも胸が痒くなってくる。怒りとも悲しみともどちらとも明言できないどうにもやりようのない思いが込み上げてきた。
男の黒目が動く。周りと比較して異様な雰囲気を放つ彼女の存在に気づいたようだ。男と目が合うと、真白の半開きだった口がはっきりと動き出す。
「ねぇ、一体なにごと」
若干棘のあるきびきびとした声に璃沙の顔もこちらを向く。真白を見るなり璃沙はハッと息をのみ込んだ。真白の険しい表情に璃沙の眉尻がみるみるうちに下がっていった。
「真白……これは、えっと──」
隣の男を横目で見上げ、璃沙はもごもごと言葉を濁らせる。
真白がいつからここにいたのかまでは分からずとも、直近の自分の行動を見られていたことは璃沙も察したようだ。
なんとしてでも見つけたかった彼女をようやく見つけた。
本来なら達成感と安堵に胸が休まるはずなのに、現実というのはどうにも想像通りにはならない。
待ち望んだ久しぶりの再会はなんとも気まずい空気に包まれてしまった。
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