⑥【堂前充】【働く者:佐那】【気難しい男】
【堂前充】
構内アナウンスが流れる度に人々の疲労が色濃くなっていく。
変化がないのならそんなに頻繁にアナウンスをしなくてもいいのに。
ラウンジの端席に座り、グラスに刺さったストローを咥えたダークグレーのコートを着た男は、目深にかぶった帽子の下から警戒した瞳で辺りを見回しながらそんなことを思った。
喉を通っていくのは冷たい紅茶。本当ならば温かい紅茶でも飲んで冷えた心臓を暖めたかったところだが、猫舌である彼にはその選択をする権利がなかった。
紅茶が冷めるのを待っていてはすぐに身体を動かすことができないからだ。
熱が冷める前に目標が移動でもすれば、一口も飲めぬままにこの場を立ち去らなければならなくなる。それは些か勿体ない。とはいえ紅茶の適温待ちに身体を縛られてしまえばそれこそ本末転倒。自分がこの場にいる意味そのものすら消えてしまう。
ちらちらとあちこちを見ていた彼の黒目が一点に狙いを定め細まっていく。
そうだ。今の自分には紅茶の温度に気を削がれている余裕などないのだ。
カウンターに置いたスマートフォンを手に取り、男は周りの人間に怪しまれないようにこっそりとカメラを起動させる。
ボスのアドバイス通り事前にスマートフォンから発せられるあらゆる音を消していたおかげで、彼がシャッターボタンを押したことを隣に座る婦人ですら気がつかなかった。
「──よし。えーと……ヤツは今、ラウンジでコーヒーを飲んでいます……っと」
そのまま撮ったばかりの写真を添付したメッセージを誰かに送ると、彼は一息ついたようにほっと肩の力を抜く。が、すぐに気を引き締めて素早く背筋を伸ばした。
その無駄に俊敏な動きに今度ばかりは隣の婦人が眉を顰めた。
「さぁ……次はどうする。そろそろ会いに行くか……?」
しかし彼は婦人の怪訝な眼差しになど目もくれず、ただひたすらに目標ばかりに意識を向け続ける。彼が見ているのはカーキのダウンジャケットを着た一人の男だ。
ぱっと見の顔立ちが良いわけでもなく、特にこれといった特徴もないその中年男に熱視線を向ける彼の姿は事情を知らない他の者からして見れば若干不自然だった。
客観的に捉えようとしてみれば、ようやく中堅となった社員がベテラン部長のご機嫌を窺っている。そう見えなくもないかもしれないが。
けれど実際、この二人の間には何の共通点もなく、さらに言えば直接の面識すらない。
しょうがなくアイスティーを口にする中堅の男が一方的に彼を監視しているだけなのだ。
〔了解。そのまま注意して観察してみて。見逃さへんように〕
先ほど写真を送った相手から返事が届き、咥えていたストローを口から離した彼は敬礼のスタンプを送り返す。
「今度こそは……今回こそは、ちゃんと現場を抑えてやる」
自分を鼓舞する独り言を呟き、彼は光を宿した瞳で目標をギラリと睨みつけた。
並々ならぬ覚悟を瞳に滲ませる彼の名は
いつも大事な場面で失敗ばかりする自分のイメージを払拭するためにも今回の任務は
これまで何度かボスとともに案件に参加をしてはいたものの単独での調査はこれが初めてとなる。前回までは充がどんな凡ミスをやらかそうともボスがすぐにフォローしてくれたが今度ばかりはそうもいかない。
大手コンサル企業で経験を積んだ女ボスが率いる事務所は主に探偵業を生業としている。充は未経験の自分を快く迎えてくれた彼女にどうにか良い結果を持ち帰りたいと奮起しているのだ。
とはいえ今回の調査が順調かと問われればまだ自信を持って頷くことはできない。
充はアイスティーをすべて飲み干し、すぐにでも動けるようにとスマートフォンをコートのポケットに入れた。
目線の先は常にカーキのダウンジャケット。そう。今回の目標はまさに彼だ。
時を遡れば二週間前。事務所に駆け込んできた一人の妊婦が涙声で充たちに訴えてきた。
うちの夫が不倫している。妊娠が分かってからずっと彼の様子がおかしい、のだと。
男女関係の調査依頼はもっともよくあるもので探偵見習いの初歩的な案件とも言える。そこでボスは、事務所に来てそろそろ半年が経つ充に満を持して彼の調査を命じたのだ。
話によれば、彼のスマートフォンにはこれまであまり縁のなかった北海道についての検索履歴がびっしりと連なり、仕事を理由に何度も現地へ訪ねている実績もあるとのことだった。
訊ねれば、視察のための出張が増えたために観光場所を探しているのだと返してくる。ただし妻は夫の言うことを信じようとはしない。
なによりも、北海道から帰宅する夫の雰囲気がいつもと違うことが気がかりとのことだ。ため息は増え、物思いに耽ってスマートフォンの真っ黒な画面を見つめるばかり。その切ない佇まいは心を北海道に置いてきてしまったようだと語った。
勘には自信があるという妻。もはや彼女の中で疑惑は真実となっていた。
しかし唯一分からないのが不倫相手だった。彼が現地で見つけた誰かではないか、という妻の見解から、探偵事務所のボスがここ最近彼がよく行くようになったという北海道に狙いを定めたというところだ。
そして今回、実際に北海道を訪れた彼を追いかけ充もこの場所にやって来たのだ。
北海道に来て二日。今のところ彼は不審な動きを見せることもなく、特筆できることと言えば彼が勤める企業の現地支社の仲間たちと飲み会に行ったことくらいだった。
このまま何もなく家へ帰るのか。
充が何も収穫のない旅に焦りを覚えていた時にちょうど飛行機の欠航が確定した。
すると意外なことに、目標の男がこれまでにない不審な動きを見せてきた。
常にそわそわした様子で落ち着きがなく、誰かを探しているような雰囲気を醸し出し始めたのだ。
これはきっと何かある。もしや相手はこの空港内の誰かか。
そう目星をつけた充はより一層の気合いを入れて彼の尾行を続けている。
「そろそろ本性を見せてくれよ──頼む」
心の声を余すことなく声に乗せ、充はカウンターの上でぎゅう、と拳を強く握りしめた。すると、彼の祈りに呼応するかのように目標がおもむろに立ち上がった。
「──あっ!」
ようやく動きがあるか──。そう期待を込めて勢いよく椅子を降りた充の靴先が、床に置かれていた隣の婦人の鞄に引っ掛かる。
「んぎゃっ……‼」
崩れた体勢を整える間もなくそのまま床に潰れるように倒れ込んだ充のことを隣の婦人が申し訳なさそうに見下ろしてくる。
「やだっ! ごめんなさいねぇ、ほら、怪我はない? やぁねぇ。うっかりしていたわ」
「いえっ大丈夫です、大丈夫です」
そんなことよりも目標は──⁉
焦る思いに顔を上げた充の前に立ちはだかったのは鞄の持ち主である婦人の心底困った顔だった。
「たしか絆創膏を持っていたの。ほらちょっと赤くなって血が滲んでるから手当てした方がいいでしょう。ちょっと待ってね」
「えっ⁉」
手当てなどしている暇はない。
そう言おうにも彼女の滑らかな手際に割り込む隙もなく。そしてラウンジ内の狭い通路を塞がれてしまっては動きも封じられてしまっている。
「あの、本当に大丈夫ですから、こちらの不注意なんで、本当にお気になさらず」
婦人越しに見えた空席に肝を冷やした充は慌てて彼女の親切心を断ろうと顔の前で手を振ってみせる──が。
「あ! あった。ほら絆創膏」
婦人は充の声が聞こえていないらしく道をあけてはくれない。
視界いっぱいに広がる絆創膏に描かれた可愛らしいウサギのにっこりイラストとは対照的に、充の笑顔は引きつっていった。
*
【働く者:佐那】
「
「うわぁびっくりした!」
突然後輩に肩を叩かれ、佐那は裏返った声で小さく悲鳴を上げた。
「ごめんなさい。集中されてましたかね」
警備員の後輩である彼女が眉尻を下げて気まずそうにこめかみを掻くので佐那は急いで首を横に振った。
「ううん。そういうことじゃないんだけど……なんか、妙な気配がしてさ。誰かに見られてるような……」
「妙な気配?」
佐那の神妙な言葉に後輩がきょとんと首を傾げる。
「あ、もしかしてわたしのことですかね。佐那さんのこと探してて、ずっと追いかけてましたから」
「うーん……違う気がするけど……まぁ、気のせい、かなぁ?」
濃紺の制服についたゴミを手で払い、佐那は完全には腑に落ちていない表情でそう自分に言い聞かせた。
すっきりしない自分の反応に後輩が心配そうな目でこちらを見上げてきたので、佐那は気を取り直すようにニコリと笑顔を作る。
「そうだ。私を探してくれてたんだよね。どうかした? また何かあった?」
「はい! わたしも四階と三階のトイレを巡回してきたので、その結果を報告しようと。まずは佐那さんに伝えたくて」
「ふふ。どうして? 普通にインカムで教えてくれればいいのに」
「いえ! まずは信頼できる人からと思いまして」
「はははっ、なにそれ、もしかして仲間に盗撮犯がいるかもってこと?」
「はい!」
冗談のつもりだった問いかけに後輩が悪気なく真っ直ぐな返事をしてきたのが可笑しくて、佐那は思わず肩を揺らして笑う。
「ははははっ、大丈夫だよ。警備の立場を使ってそういうことする人もいなくはないとは思うけど、うちらはそんなことないから。ほかの先輩たちのことももっと信用して大丈夫だよ」
「そうですかぁ……?」
後輩は佐那の言葉に不信感たっぷりに首を捻る。あまりの同僚たちの信用のなさに佐那はまた声を出して笑ってしまった。
「っふー、いけないいけない。制服を着てる時にこんなはしゃいじゃだめだよね」
「だめですね!」
明るく元気な後輩のダメ出しに佐那は笑い声を抑えながら自らを省みる。
「佐那さんってよく笑いますよね。そういうの笑い上戸って言うんでしたっけ? それほどおかしくないのによく笑う人」
「うん。たぶんそうだね。ごめんね緊張感のない先輩で。気が緩むとつい」
「いいえ! わたし佐那さんのこと尊敬してますからそんなことないですよ。きっと強者ゆえの余裕ってやつですね!」
「あ。確かあなたも空手やってるんだっけ?」
「はい! 今日もこの後練習の予定があって──あ、でも、それどころじゃないですよね」
後輩は運航再開を待ちわびる人で溢れたロビーを見渡してしゅん、と肩をすくめる。
確かにこのまま空港に人がひしめいたままだと何か事件が起こりかねない。我慢比べが苦手な人も多かろう。となると、それらに備えてこちら側の人員も用意しておかねばならないということだ。
困ったように表情を歪める後輩を佐那は温かな眼差しで見守った。
「そうだそうだ。トイレを見てきてくれたんだよね? どうだった? 何か気になることとかあったかな」
気まずそうな後輩の雰囲気に同情した佐那は話題を戻そうと声をワントーン明るくして尋ねる。
「あ! ええっとですね……わたしが見てきたトイレにはカメラもなく、特に荒らされた様子や不審なものもありませんでした」
「そっか。ありがとう」
「佐那さんの方はどうでしたか?」
「私の方も特に異常なし。ほんと、参っちゃうよね」
「ですねぇ」
佐那がやれやれとため息をつくと二人の耳元で同時に同じ声が響き渡る。
『お疲れ様です。皆、ちょうどいま情報が入ったんだが、運航再開時刻が伸びる見込みだそうだ。もう勤務時間が終わる者もいるとは思う。でも、でも! 申し訳ないが残れる人間はもう少しだけ残ってくれると助かります』
インカムから届いた上司の残業願いに佐那は後輩を一瞥する。案の定、彼女の顔はみるみるうちに曇っていった。
「──ね、あとは私が引き受けるから、あなたはもう上がっていいよ」
「えっ……佐那さん、それって……」
小声で囁かれた優しい声に後輩は驚いた様子で顔を上げる。
「空手の練習があるんでしょう? 私、それも仕事の質を上げる大事なことだと思うんだよね。だから行ってきて欲しいの。上司には私から説明しておくから」
「──いいんですか、佐那さん」
「もちろん。上司だって鬼じゃないよ。別にあなたのこと嫌ったりしないから」
「本当ですか──?」
「うん。ね? ほら、もっと信用してくれていいんだって」
「────わかりました。ありがとうございます! 佐那さん!」
インカムを耳から外し、後輩は身体を直角に折り曲げて佐那に頭を下げた。
「ふふ。大袈裟だなぁ」
「でも、本当にわたしのこと嫌ったりしないかなぁ……嫌味とか、言ってきそう」
顔を上げるなり後輩は斜め上を見上げてぶつぶつと独り言を呟き始める。
依然として上司や同僚たちへの不信感を拭いきれていない彼女の本音が不意に聞こえ、佐那は笑うことを必死で押し堪えた。
*
【気難しい男】
ロビーの隅から隅へと移動した男は口に含んでいたガムを丁寧に銀紙に包んで近くのゴミ箱へと捨てた。
結局のところこの空間に落ち着ける場所など存在するわけがなかった。
移動を続ける間に保安検査場の外に出ていく者たちも少しばかりはいた。
しかし母数に比べればまだ僅かなもので、そんな些細な人口の変化があったからといって騒がしさが収まるはずもない。
「はぁ…………」
男は頭を抱えて深い息を吐く。
そんな彼の気だるげな姿を近くで遊んでいた小さな男児がじっと見上げてくる。
男児と目が合った彼は額に添えていた手を下ろして大きな瞳をじっと観察し始めた。まだ社会の毒水を一滴も知らぬ無垢なその瞳は、自分を黙って見つめ返してくる彼の冷淡な眼差しに釘付けになっていた。
恐らくこのような温度のない瞳を生まれて初めて見たのだろう。これが一体何なのか、ただその正体を知りたい好奇心が幼い瞳に滲んでいる。男はその芽生えたばかりの挑戦心を尊重しようと瞬きもせずに彼の興味に答え続けた。が。
「ほらっ、なにしてるの! そんなところで遊んでたら迷惑でしょう」
母親の声に意識を遮られた男児の視線が男から剥がれ、無言の睨めっこは決着のつかぬままに終わりを迎えてしまった。
男児の母親の厳しい声に目を覚ましたのは男もまた同じだった。
「やれやれ……何をしているんだか……」
無意味な時間を省みた彼は我に返ったように歩みを再開する。喧騒に呑まれて自分らしくもないことをしてしまった。
本来であればこのような状況でもラウンジでゆっくりと時間を過ごせるはずだったのに。
脳裏に浮かぶアシスタントが送ってきた敬礼のスタンプに若干の苛立ちを覚えつつも、彼はまた端を目指して進んでいく。
とにかく静かな場所へ行って頭を休めたい。
そんな彼の願望に応えるかのごとく、しばらく歩くと周りから隔離するように設けられたプレハブ小屋のような小さな部屋が見えてくる。扉は開かれたままで中は真っ暗。今は誰も使っていないらしい。
部屋の外壁に貼ってあるステッカーを目にした男はしばらくの間それを見つめて立ち止まる。彼はこの小さな空間が何であるかをもちろん知っている。いつもであれば使うことなど検討もしないだろう。けれど今の自分にこれ以上ぴったりの場所もない。しかし、やはりおいそれと使う気にもなれないのが正直なところだった。
彼が見ているのは通称カームダウン室と呼ばれる知的・精神・発達障害、認知症、自閉症のような事情を持つ客が気分を落ち着かせるためにと用意された空間だ。
もちろん持病だけでなく、体調が悪い人も使用できるように、と空港側の計らいで設置されているものだ。
男は数秒の間ステッカーと睨み合っていたが、しばらくしてフイと顔を背けた。
本来の用途を思えばこの空間を必要として駆けつけてくる者がこの後にいるかもしれない。ならば喧騒を離れたいだけの自分が使うのは気が引ける。というより、そんなことは自分のプライドが許さない。
カームダウン室の利用を諦めた男はステッカーに背を向けてはぁ、とため息をつく。行く場所も分からぬなど今日は散々な日だ。
再びアシスタントの敬礼スタンプが瞼の裏に蘇ってきた彼はブンブンと頭を振って邪念を消し去ろうと試みる。憤りは何の解決にもならない。彼にしてみれば無駄でしかない感情なのだ。
とはいえこうも思い通りにいかないと精神のコントロールも難しくなってくる。
それ以前にロビーの端から端まで歩き尽くした彼には疲労も溜まってきている。
どうしたものかと天を仰ぎかけたその時、男の瞳にあるものが映った。
「──マッサージチェア、か」
近くに並んでいたのは有料のマッサージチェアだった。
有料というだけあり、他の椅子と比べても空いている。まず、条件をひとつクリア。それにマッサージチェアに座ってしまえば頭部にちょっとした壁があって外界から意識をシャットダウンできるかもしれない。これは好都合。
「致し方ない」
男は意を決してマッサージチェアに腰を掛ける──と。
「──なるほど。よく設計されたものだ」
身体を負荷なく包み込むマッサージチェアの曲線に感心したのか、男は少しだけ満足そうにほくそ笑んだ。
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