②【似てない兄妹】【仲良し旅行:真白】


【似てない兄妹】


 搭乗待合室の椅子に深く座り込んだ若い男はカウンターに並ぶ果てしない列を一瞥して苦笑する。


「ある意味ラッキーだったな」


 両手を後頭部に回してふんぞり返る兄を横目で見やり、妹の香凜かりんが控えめに頷く。

 先日美容院で流行の髪型に整えたばかりの兄とは違い、妹の髪は長く、しばらくの間切っていないことが窺える。


「うん。私たちの飛行機はまだ遅延予定で済んで良かったね」


 香凜の消え入りそうな賛同の声に兄の汐音しおんは眉根を寄せる。


「違う。俺たちの到着が遅れることで母さんたちの時間が取れるからラッキーだって言ってんだよ。まだ欠航の可能性だってある。遅延がラッキーとは思わないだろ」

「あ──……そっち、か」


 汐音の呆れた表情を黒目だけで見上げ、香凜は肩をすぼめた。


「当たり前だろ、油断すんな。ったく、お前はほんとどんくさいなぁ」

「──ごめん」


 落ち込む香凜を尻目で見やり、汐音ははぁ、と額に手を当てて息を吐く。


「いちいち落胆すんなって。ま、せっかくの自由時間だし、焦らずのんびりしてようぜ。最悪、旅行は母さんたちだけで楽しんでもらってもいいし」

「……うん」

「"でも……"だろ? なんだ。何か気になることでもあるのか」


 まだ何か言いたそうな余韻が残る妹の眼差しに汐音は前のめりになって首を捻る。生まれてから十四年間一緒にいる兄に誤魔化しは通じない。香凜は兄と数秒目を合わせた後で覚悟を決めたように口を開く。


「お母さん、今回の旅行を楽しみにしてたから。もう家族旅行なんてしばらくいけないだろうからって」


 ぼそぼそとした香凜の言葉は近くを通りがかった団体客の話し声に紛れて聞こえなくなる。だが隣に座る兄は蚊の鳴くような妹の声をしっかりと聞き取っていた。


「母さんらしいな。父さんと違って先を悲観しすぎる。お前も母さんに似たんじゃね?」

「でもお兄ちゃんはもうすぐイタリアに行っちゃうし……お母さんの気持ちも分からなくはないよ。お母さん、家族旅行が大好きだっていつも言ってた。だから私たちが別の便に乗るって決めた時も少し悲しそうだったよ」

「留学するからって帰ってこないわけじゃない。最後なんて勝手に決めんなっての」


 香凜の主張を鼻で笑い、汐音は脚を組み替える。


「うん……ごめん」


 兄が自分との会話に飽きていることを察し、香凜は自分の手元に視線を向けた。沈黙の中でつい数時間前の出来事を思い出せば、母の寂しそうな顔が脳裏に蘇ってくる。

 当初は家族四人、同じ便に乗って目的地である羽田空港に向かうはずだった。しかし飛行機のオーバーブッキングにより別便への変更協力募集がかかり、汐音が迷わず手を挙げたのだ。

 募集人数は二人。汐音の呼びかけにより香凜も同じくフレックストラベラー制に名乗りを上げることとなり両親と兄妹は別々の飛行機に乗ることが決まった。


「たまには父さんと母さんを二人きりにしてあげようぜ」


 表向きではそう言ってはいたものの、実のところ彼が謝礼金目当てで手を挙げたことを香凜も知っていた。留学資金は多い方がいいという兄の下心も納得できなくはない。

 兄の汐音は大学一年生。大学のプログラムの一環で留学が決まっており、毎年恒例だった家族旅行もしばらくは彼抜きで行くことになる見込みだ。

 引っ込み思案で弱気、かつ勉強も苦手な自分とは違い、少し強気なところもあれどずっと優等生だった優秀な兄のことを母はいつも誇らしげに語っていた。そんな自慢の息子が遠く離れた場所に生活拠点を置くことを母は家族の中で誰よりも寂しがっている。背中を押しつつも、まだまだ子離れは難しいようだ。

 留学の日程が決まった日に汐音が母に言っていた言葉を思い出し、香凜の頭が更に垂れ下がっていく。


 ──俺がいなくても香凜がいるから寂しくないだろ


 そんなことはないと香凜は自覚していた。

 汐音の励ましを聞いた時の母の顔が忘れられない。不安で一杯だった彼女の顔を。

 兄と違って自分は出来損ないで手がかかることにはとっくに気づいている。陰鬱としてじめじめした自分のことを母も大して期待していないのだろうと。

 それでもほんの一年半前まで、母も親指の第一関節分くらいは自分に期待してくれていたのかもしれないが。

 隣でスマートフォンをいじりだした兄をちらりと見やり、香凜はぎゅっと両手の指を組んだ。兄がいない家の中を想像すれば不安感に襲われる。たまにうるさいこともあるが、兄を上回る有能な緩衝材など存在しない。


「お兄ちゃん、どうしてわざわざイタリアに行くの」


 妹の素朴な疑問に汐音はスマートフォンから目を離さずさらりと答える。


「前も言っただろ。デザイン工学を学びたいんだよ。俺の尊敬する人間工学者の青柳あおやなぎさんの著書にもあった。外国で学ぶのは知識だけでは吸収できない人間の真意を知る良い機会だって。デザインと人間は切り離せない。だから俺は、生の異文化を吸収したいんだ。俺の目標の一つ、自分のブランドを持つためにも必要な第一歩ってとこ」

「お兄ちゃん、ちゃんと将来のこと考えてるんだね」

「驚くことか? 普通だろ」

「ふつう……」


 香凜がぽつりと言葉を繰り返すと汐音はスマートフォンをポケットに入れて立ち上がる。


「あーぁ。ずっと座ってるから疲れたな。まだ運行状況に動きもないだろうしちょっと歩いてくるわ。お前も自由にしてろ」

「わかった──あ、お兄ちゃん、お母さんたちに連絡は……」

「まだいいだろ。後でしとく」


 香凜に背を向けたままひらひらと手を振り、汐音は両手をポケットに入れてその場を離れていった。


「後でって……」


 一人残された香凜は人の波に消えていった汐音の残像を見つめたまま呟く。空港内の混乱はまだ完全には収まっていない。途方に暮れる人たちの顔をちらちらと見やり、香凜は困ったように眉尻を下げた。すると一瞬視線を下げた隙に、さっきまで汐音が座っていた椅子にドサッと大きな荷物が置かれる。


「あー! 疲れたっ。ほら、みんなこっちこっち‼」


 驚いて顔を上げると、荷物を置いた中年の女が大声で仲間を呼び寄せている。

 突然の賑やかなざわめきに香凜の身体に緊張が走った。どきんどきんと鼓動が早くなり、呼吸までもが苦しくなっていく。仲間の声に誘われてやってくる五人の大人たちの姿が視界に入り、香凜は思わず席を立った。


「あっ……あの、こちらも、どうぞ、使ってください……っ」

「あら? いいのお嬢ちゃん、別に気にせず──」

「いいえっ! どうぞっ!」


 荷物を置いた彼女の人の良さそうな笑顔をまともに見ることもできず香凜はその場から逃げるように駆け出した。自分でも何をしているのか分からない。待合室に集う人の流れに逆らうように、香凜は行く先もなく歩調を速めた。



【仲良し旅行:真白】


 売店で買ったクッキーの袋を早速開け、真白は比較的人の少ない場所を選んで壁に寄りかかった。

 声にならないため息を吐き出しつつ、クッキーを頬張りスマートフォンで今回の旅を写真で振り返ってみる。

 出だしは良かった。というよりも、この帰りの天候不順さえなければすべてが完璧な旅だった。

 旧友との久しぶりの旅行に長らく忘れていた童心が返ってきたようで何もかもが楽しかった。

 けれど今はともに旅をした友は怒ってどこかに行ってしまうし、空港内は人でごった返して気が落ち着かないし、お腹は減って頭もまともに働かない。

 唯一の救いと言えるのは、ぎりぎりのところで今日中に出発する別の便に振替することができたことくらいだ。だがそれも璃沙にしてみれば納得のいかない結果で、結局カウンターを離れてから彼女は一度も口を利いてくれていない。


 モヤモヤした気持ちのまま無言でクッキーを食べ続けても、ストレスのせいかあまり味もしない。とんでもない旅の締めくくりだ。せめて空腹感だけでも満たし続けていたい。そう思った真白が空になったクッキーの袋に手を突っ込んだ時、ポケットのスマートフォンがブルブルと振動した。

 買ったばかりだというのに既に一枚も残っていないクッキーの袋を睨みつけ、真白はぶっきらぼうにスマートフォンを操作する。


『ハロハロー、北海道はどうだった?』


 ビデオ通話に応答すれば、画面いっぱいに爽やかな笑顔を湛えた青年の姿が映し出される。


「どうだか。楽しかったけど今は最低最悪」


 つい先ほど友から言われた記憶のある言葉を口に出し、真白は感情のない声で彼の質問に答えた。


『おっと。どうも機嫌が悪そうだ。なんだよ。余ってる有休使って盛り沢山の日程で美味しいものたくさん食べるんだーって言って楽しみにしてたくせに』

「さっきまでは楽しかったよ。でも今は……そうは思えないってだけ。で? そっちこそどうしたの。今まだ朝だよね? いつの間にそんな早起きになったの」

『早起きって程でもない。もう七時近いし』

「ふーん。こっちにいるときは朝九時でも早くて無理って言ってたくせにね。立派になっちゃって」


 空になった袋をぐしゃりと片手で丸め込み、真白は壁に背を預けたまま身体をずるずると下げて座り込む。本来なら椅子に座りたいところだが、あいにく近くに空席は見当たらない。


『そっちはそろそろ夕方くらい?』

「そう。こっちで沈んだ太陽が今はそっちに向かいましたか──知らんけど」


 分厚い雲に覆われた曇天の空を見やり、真白は頬杖をついて息を吐く。


『どうした? ってかそこどこ?』

「空港だよ。飛行機が動かなくて大変なの」

『わぁ……そりゃ大変だ。璃沙ちゃん怒ってない? 確か──今日記念日?』


 近くに掲示しているであろうカレンダーを一瞥した彼はカメラに視線を戻して苦々しく笑う。


「うん。六時までに帰れないことが確定して璃沙はご立腹だよ。どっか行っちゃうし……はぁ、また探しに行かないと」

『そんな心配しなくても、璃沙ちゃんだってしっかり者だから大丈夫だって』

「普段はそうだけど……今は璃沙も動転してるから。心配なの」


 真白の表情が若干砕ける。強張っていた彼女の顔に少しの綻びが見えたところで彼は安堵したようにクスリと笑った。


「雄大はどう? ロンドンは楽しいですか」


 不意に話題を振られ、雄大は面を食らったように瞬きをしてからすぐに陽気な表情を浮かべる。


『ああ、楽しいよ。海外支店に異動ってなった時はちょっと焦ったけど、今はだいぶ慣れて仕事も順調。みんないい人ばっかりだし。でもたまに馴染みの顔が見たくなるからこうやって電話しちゃうわけだけど』

「いいんじゃない? 別に。私もロンドンの話聞くの楽しいし。今日もこれから仕事?」

『いや今日は休み。聞いてくれ、ついに俺もデートに誘われたんだ。紳士的に振舞えるかな』

「大丈夫大丈夫。普通にしてれば雄大は問題ないって。ただ……張り切り過ぎて空回りしないようにね」

『了解です! 先生』


 ビシッと敬礼してみせる雄大の仕草が可笑しくて真白は思わず吹き出してしまった。思えばこうやって彼と電話をするのも久しぶりだった。雄大は真白の高校からの友人で、多くを語らずとも互いのことを熟知している。中学からの付き合いである璃沙には敵わないが、そんな彼女ともぎくしゃくしている今、彼の存在に真白は改めて感謝したくなった。

 彼とは大学も就職した会社もすべて違う道を進むことにはなったが、古くから見知った顔と画面越しでも対面すると心が休まるものだ。特に今みたいな緊急事態では。


『でも俺のデートよりもそっちの方が大問題だな。璃沙ちゃんもだけど、真白も大丈夫か?』


 雄大の表情がわざとらしい決め顔から真剣なものへと移ろう。飛行機が動かず帰れない真白たちのことを気にかけてくれているようだ。


『最高の旅になるって真白も張り切ってたのにな』

「私の方こそ空回っちゃったのかも。とにかく、璃沙を探して話さなきゃ。私たちの旅はまだ終わってない。話し足りないこともあるし」

『うん。頑張れよ、俺はいつだって味方だからな。覚えとけよ』

「はははっ、ありがとう。とおーくにいるけど、気持ちは伝わる」

『待て待て、その場にいなくても俺はちゃんと真白のこと見守ってるぞ?』


 雄大は咳払いをした後で自分の家の窓の外を見やった。真白が「は?」と首を傾げたので雄大はニコリと笑ってみせる。


『心配すんな。俺の代わりに月が見守ってるから』

「ちょっと、それじゃ死んだみたいだから変だよ」

『変じゃないって。月を照らすのは太陽だろ? 今、真白たちが見てる月の向こうには太陽がいる。つまり俺がそこにいるってこと』

「やけにドラマチックな発言だけど、残念ながら、今、空は荒れてるんだよなぁ。飛行機は雪のせいで止まってんの」

『マジ?』


 真白のまさかの一言に雄大は目を丸めて驚愕の表情をしてみせた。


『カッコ悪。決まったと思ったのに』

「デートの時じゃなくてよかったね。この調子じゃ今夜は月は無理かも。でも気持ちは嬉しい。雄大もデート頑張ってね。私は璃沙を探しに行く」

『ああ。気負い過ぎんなよ』

「はーい」


 手を振り合いスマートフォンの画面を消した真白は握り潰した空袋を近くのゴミ箱に捨てた。辺りを見回せば、同じ境遇の人たちがあちこちで休憩をしている。眠る人、宿を探す人、スマートフォンでゲームをする集団──だがその中に璃沙の姿は見えない。

 どこか違うゲート付近にまで行ってしまったのだろうか。

 真白の意識が遠くの景色にまで飛んだところで、彼女の左肩が勢いよく後ろへと押された。


「ご……っ、ごめんなさいっ‼」


 真白の肩にぶつかったのは背の低い女の子だった。どうやら前を見ていなかったらしい。女の子は慌てて真白に頭を下げ、必死の声色で謝罪を告げる。彼女の長い髪が頭を下げたと同時に背中から流れていく。


「大丈夫、あなたは──?」

「大丈夫ですっ! ごめんなさい。ごめんなさい……っ」

「あ……ちょっと──」


 真白の問いかけにもまともに返事をせず、リュックを背負った女の子は急いでその場を去って行ってしまった。

「──大丈夫かな」


 真白が心配そうに顔を歪めたその時、先ほど視界に入ってきたゲーム集団からどよめきが起こる。あまり陽気とは言えない彼らの雰囲気に若干興味をそそられた。が、今は璃沙を探すことが第一優先だ。

 椅子に固まって座る推定大学生くらいの集団の脇を通り、真白はピンクのコートを目指して歩みを進める。


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