鬼種百合譚~周華国戦記~

源なゆた

第1話 叛乱、凶刃、琥珀様

 深更しんこう(深夜。)の空が、焼けていた。

 大火たいかである。

 百万以上の民を抱える、六十里(約二十四キロメートル)四方の巨大な王城都市、京洛けいらくの中心部。

 轟音ごうおんを立て、高さ十丈(約十八メートル)はあろうかという内城ないじょう壁が崩れ落ち、止まぬ怒号と悲鳴をも数瞬み込んだ。

 その光景を耳目へ直接刻み込んだ、よわい十になるかならぬかという少女の華奢な手を、堂々たる体躯の黒髪の青年がそっと引いた。

「殿下、お急ぎ下さい」

 声を抑えてこそいるが、猶予がないことは明白だった。

 それもそのはず。被り物で半ば隠してこそいるが、火に照らされてもなお、育ちの良さを見て取れる豊かな緑髪りょくはつ……そこに一房だけ混じる金髪と、理知的な赤い瞳、そして額よりもやや後ろ、左右で主張する小さくも複雑な角が、少女の出自を表していた。

 即ち、今まさに叛乱の渦中にある、王族である。

「すまぬ、子祐しゆう

 急ぎ足に戻りながら言う。

「いえ、私も、玉英ぎょくえい、とお呼びするべきでした」

 内城脱出に際して、決めたことだった。今は兄と妹としよう、と。

「では兄上。万事頼みます」

「任せよ」

 焦燥しょうそうは覆い隠して、微笑み合った。



 京洛には外城がいじょう門が大きく分けて四つあり、東西南北の門をそれぞれ青龍、白虎、朱雀、玄武、と四神になぞらえて呼ぶ。

 細かく言えば、各部署が小さな門を複数管轄しているのだが、そのうちの一つ、朱雀の三、と呼ばれる門を、仮初かりそめの兄妹は訪れていた。

「おいおい、こんな夜分やぶんに往来は禁止だよ。知ってんだろ兄ちゃん」

 子祐よりも一尺(約十八センチメートル)は背の高い門番が言う。鬼族は一般に体格に優れるが、その中でも一際大きい。

 しかしその大きな身体にも口調にも、特別緊張の色は無く、内城付近での騒動は、まだ伝わっていないようだった。

「俺だって言いたかねぇけどよ、朝になってからにしようや、な?」

「そこをどうにか、曲げてくれぬか」

「どうにかっつっても、王様に言ってくれねぇと」

 本来であれば、間違いなく良い門番だ。そしてそれ故に、堂々巡りになりそうだった。

「良い、子祐」

 先程とは逆に、玉英が子祐の手を引いた。

「私は、この者の忠節を信ずることにした」

「玉英……」

「門番殿」

「ん? どうした、嬢ちゃん」

「私のめいでは、不服か」

 そう言って、玉英は被り物を外した。 

「命って、嬢ちゃん……と、それは」

 髪と、目と、角。王族の証を知らぬ兵など、京洛には居ない。

「失礼いたしやした、王家の方とは露知らず……」

ゆるす。しばし門を開けよ」

「ハッ」

 単身で管理する程度の、小さな門だ。多少の手順は必要ながら、すぐに開いた。

「どうぞ、お通り下さい、殿下」

「感謝する。門番殿、名は?」

章吾しょうごと申します」

「覚えておく。章吾殿、達者でな」

「ハッ、恐悦至極!」

 再び隠すものを隠し、章吾に見送られて門を出た。



「殿下がここまで賭博とばく好きとは、お生まれになる前からお仕えしている私でも知りませなんだ」

 十里(約四キロメートル)ばかり無言で荒野を駆けたのちの、冗談めかした第一声である。

 正体を明かしたことについてだ。

けねばなるまいよ。賭けるうちにな」

 荒い息を整えながら、玉英が言う。

 内城は遅かれ早かれ完全に制圧される。否、既にされているかもしれない。

 指揮権を完全に掌握しょうあくされてしまえば、賭ける余地すら無くなる。

 敵は、同じ王族なのだ。

「それは御尤ごもっともですが」

「忠勇の士を、あたらうしないたくもない。子祐、貴様、『いざとならばむ無し』という顔をしておったであろう」

「そんなに顔に出ていましたか?」

「私以外にはわかるまいがな」

 姉妹のように育ったのだ。たとえ装束が普段と異なろうとも、本質は変わらない。

「それは、仕方ありませんね」

 笑みがこぼれる。まだ、互いに余裕はあるようだ。

「予定通り、あと二十里(約八キロメートル)程はこのまま南へ。その後、西進、ということでよろしいですか」

「ああ。引き続き、よろしく頼む」

「今度こそ、お任せを」

「頼りにしているぞ、義姉上」

――気にするな。いつものように頼む。

 そう伝えたつもりだった。

「御意」

 目尻が、下がっていた。



 西進に入っていた。

 方角は、天尊てんそん(神の一種。)がそれぞれに住まうとされる、三つの月の組み合わせで見当が付く。

 既に、王宮から数えておよそ八十里(約三十二キロメートル)。

 体力に優れる鬼族とは言え、玉英はまだ幼い。相応に体力を消耗し、子祐にぶさっていた。

 子祐の方は、女性ながら鬼族男性の平均を僅かに上回る程の体格の持ち主。何程の事もなかった。

「子祐、兄上と共に居た女性にょしょうを、知っているか」

 ここで言う「兄上」は、子祐が扮した仮初の兄ではなく、本物の兄にして世子せいし(王や諸侯の跡継ぎ。)、玉牙ぎょくがを指す。

 内城を脱出する直前、寸刻すんこくながら現状と方針を話し合えた。共に居た、とはその時のことだ。

「いえ、存じません。玉牙様の私的な間諜かんちょう(回し者。スパイ。)か何かでは」

 子祐はあくまでも玉英のり手。玉牙とも無論面識はあるが、つかえているわけではない。

「そう、かもしれぬな」

「気になることでも」

「何か、おぞましいもののように見えた……いや、すまぬ。忘れてくれ」

――今考えることでは無かった。

 みなまで言わずとも伝わったが、気にかかった。

 玉英の勘は、昔から不思議と当たる。

「きっと、ご無事でしょう」

「……ああ、そうだな。そう願おう」

「はい」

 話を逸らした。

 不吉なものから、心だけでも離れるように。



 他者の目を忍び、主従は西を目指し続けていた。

 街道を避け、城塞まちむらも避け、自軍であったはずの者達をも警戒し、山を越え、谷を渡り、水辺へ立ち寄ることすら最小限に留めて、ただひたすらに歩いた。

 軍への所属歴もある子祐はかく、玉英にとっては未知未踏の旅だったが、良く耐え、必要な場面では甘えることをいとわなかった。

 道中、運が良ければ鹿や兎を獲って食えることもあった。そうした際には、流浪の生活を楽しんでいる風ですらあった。

――気丈なお方だ。知り尽くしているつもりではあったが、まだまだ知らぬ面がある。……否、この二月ふたつきで成長しておいでだ。

 星空を覆い隠す森の中、数日ぶりの獣肉にありつきながら、子祐が感慨に浸っていた、瞬間だった。

「殿下っ!」

 凶刃。

 辛うじて、剣で受け止めた。

「これはお強い」

 無角むかく鬼族と思しき男が、悠然ゆうぜんと口を開いた。

「角無しが、何故妹を狙う!」

 敢えて叩きつけた蔑称べっしょうも、挑発にはならなかったようだ。

「おやおや、先程『殿下』と口走っておいでだったと思うが、拙者の耳は遠くなったか」

「そのようだな」

 玉英を背に庇う。

「クックッ、まあ良い。しかし、妹、か……若君、と聞いていたのだが……実はおぬしが王子、ということはないか」

「そう見えるのならば、来い」

「ふむ。そうは見えぬが、参ろう」

 言うやいなや、殺意が刃となって襲い来た。



 強い男だった。

 一般に、無角鬼族は鬼族よりも一分いちぶ(十分の一。)ばかり体格に劣る。

 その無角鬼族にして、子祐と比する体躯に恵まれた、というだけではない。

 子祐は、【麒麟の双角】と称される、鬼族最高の武勇の持ち主だ。

 その子祐と、している。

「これ程とは、いやはや、楽しませてくれる」

 そればかりか、刃をわしながら、軽口を叩く余裕まであるのだ。

「満足、して、死んで、くれ、ても、良い、のだぞ」

「クックッ、拙者を満足させられる者は、天下広しといえども、おそらく一人しからぬ」

「私、では、不服、か」

「一夜の相手ならば、喜んで」

「戯、言、を!」

 剣閃は眩いばかりで、玉英は少しでも足を引っ張らぬようにするのが精一杯だった。

 敵手は常に玉英を狙う構えを見せており、気を抜けば、その尋常ならざる長尺刀により、即座に首が飛ぶだろう。

 しかし唐突に、その猛攻が、止んだ。

「やめだ」

「何?」

 子祐は息を整えながら立ち位置を変える。玉英を護りつつ、少しでも有利な場所へ。

 敵手は手をだらりと下げ、ただ眺めつつ、言う。

「もう良い。今日は終いだ」

怖気おじけ付いたか」

「なぁに、鬼族というものは、女性にょしょうでもここまでになるのか、と思ってな」

「お前こそ、角無しの分際で、良くぞここまで」

 無理にでも、笑みの形を作った。

「その『角無し』というのは一体何だ? 奴も言っていたが」

「奴、とは」

「若君を消せ、と拙者に命じた者のことよ」

「その正体を」

「明かせ、などとは申すまいな。刺客がそこまで喋るわけもなかろう」

「違いない」

 場違いに、双方が笑った。

「角無しというのはな、我等鬼族よりも小さく、弱く、角が無い以外はおおよそ似た形の種族のことだ」

「拙者は強いぞ」

「それは、もうわかった」

「左様か。重畳、重畳」

 クックッ、とまた笑っている敵手に、玉英が数歩前へ出て、呼びかけた。

「そなた、私に仕えてはくれぬか」

「うん?」

「それ程の腕だ。可能な限り報いよう」

 敵手に向けて、右手を差し出した。

「ふむ。心惹かれる誘いだが、拙者には拙者の都合というものがある」

 道理である。

「人たるもの、一宿一飯いっしゅくいっぱんの恩義に報いずして河岸かしを変えては、信義にもとる」

 右手は下ろしたが、代わりに疑問が口をいて出た。

「ヒト?」

「お主等ぬしらの言うところの『角無し』のことよ」

「ヒト、ヒト、ヒト……」

「良い。好きに呼べ。拙者は気にせぬ」

「ならば、名は」

「それは……そうさな。良し、決めた」

 敵手は、これまで一応手に持っていた長尺刀を、鞘へ納めつつ言う。

此度こたびを含めて三度みたび、つまりあと二度、お主を狙う」

 勝手な宣言だった。

「もしそれでもお主が生き残っておったら、その時こそ、我が名と命、お主に預ける。これでどうだ」

「どうだも何も、曲げてはくれぬのだろう」

「ほう、わかってきたではないか。我をこそあるじに、と名乗り出るだけのことはある」

 敵手はしきりに頷いていたが、また口を開いた。

「安心召されよ。次に襲うのは、お主が最低限成長したのちにして進ぜよう」

「楽しみにしておく」

 玉英は不敵に笑ってみせた。

「クックッ、拙者も、楽しみでござる」

 最後に呵呵大笑かかたいしょうしてから、「さらば」と敵手は去っていった。

「殿下、お怪我は」

「無い。子祐こそ、大丈夫か」

「支障はありません」

 かすり傷、では済まないものもあるが、身体を動かせなくなる類では無かった。

「良く戦ってくれた。感謝する」

「私がしたくてしたことですから」

 本心だった。

尚更なおさら、感謝する。いや、いつも、感謝している」

「私こそ、殿下にお仕え出来て、幸福に存じます」

 微笑み合って、しかし、目的と危機感を忘れはしなかった。

「一旦方角を違え、偽装を施してからまた西を目指す、ということで如何でしょう」

「ああ、そうしよう。水場があれば良いのだが」

 傷の手当ては、すべきだった。

「では、まずは南に向かいましょう」

 南方の、二本絡み合う大河――双龍河そうりゅうがの、一方の源流に当たる流れが、あるはずだった。



「殿下、もうしばし、ご辛抱下さい」

 幾度目いくどめか、わからぬ言葉だ。

 あの敵手と出ってから十日余りが過ぎていた。

 子祐の傷は鬼族共通の体質もあって順調に回復し、何ら問題の無い状態になっている。

 当てにした水源を利用後、西進を再開、一旦北進も挟んでからまた西進……と、極力痕跡こんせきを残さぬようにしつつ、目的地を目指してきた。

 しかし、その目的地まであと数日というところで、玉英が熱発ねっぱつしたのだ。

 可能な限りの対処はしたが、所詮は逃避行中。十分な薬草も、温かい寝床も無い。

 鬼族は基本的に病にかからないと言っても良い程の頑健さを誇るが、子供の時分にはまだ、その域には達さない。

 ましてや、二月半ふたつきはん以上の辛い旅だ。これまで保っていたのが、不思議なくらいである。

「すまぬな、子祐」

 背に負われながら、こちらも幾度となく繰り返した言葉。

「いえ、お気になさらず。どうかご自愛下さい」

「ああ」

 咳き込む玉英。

「本当に、あと少しですからね」

 眼の前の山を越えれば、辿り着く、はずなのだ。



母上ははうえぇ! 旅の方が、宿を求めておいでです!」

 邑の飼い犬の吠え声を背景に、数えで七つになったばかりの少年が、扉を壊す勢いで駆け込んできた。寒風も連れてきている。

「扉は静かに開けな、っていつも言ってるだろう!」

「ごめんなさい。でも、母上」

 少年は不安げに抗弁しつつ、開け放った扉越しにむら外れを振り返る。

 絵に描いたような山中の僻邑へきゆう――住民を端から数えても三十に満たない――へ客が来ることは、非常に珍しい。

 年に数度、決まって訪れる商賈しょうここそ居るものの、彼から伝え聞く、遥か西の【果ての国】との交易路沿い、というわけでもない。

 邑の先にあるのは、神仙が暮らすといにしえより伝えられている深山しんざんのみであり、野盗すら絶えて久しい。

 訪れる者があるとすれば、余程信心深しんじんぶかい者か、先日の叛乱の影響で流れてきた者か。前者はまだしも、後者はいずれろくな者ではないだろう。

郭玄かくげん御前ごぜんをお呼びしてきな」

 最愛の息子に言い付けて、一丈(約一・八メートル)余りの鉄棒を取り、外へ。

 郭洋かくようが邑外れへ着いてみれば、思っていた通りの、薄汚い荒くれ者共……は居らず、無論旅の汚れは否めないにせよ、やけに小綺麗な鬼族の若者が控えていた。

 腕の中に、齢十かそこらの少女をいている。眠っているらしい少女の、夜空を切り取ったかのように深い黒髪と、一房の金髪、そして小さくも輝く角が、宵闇に目立った。

「息子が言ってた旅の方ってのは、あんた達で間違いないね?」

 一度は拍子抜けしたものの、予定通り威圧しながら呼びかけ、同時に油断無く周囲へ目を走らせる。今のところ違和感は無いが、想定通りの流れ者とすれば、他に仲間が居たとしても不思議はない。

 しかし、若者は地に膝を付けたまま、頭を下げて言う。

「はい、私は戸外でも構いません。我が主だけでも、お泊め頂けないでしょうか」

 体躯は立派だが、声からすると女のようだ。それも、幼い少女を『主』とは……もし本当なら、相当な訳ありと思えた。

 しばし見定めていたところ、少女が目を開き、言った。

「そなたらの、平穏を乱したことは、謝する」

 弱ってこそいるが、芯の強さを感じさせる声。

 牡丹のように赤い目で、真っ直ぐ郭洋を見ている。

「だが、改めてう。幾日か、我等われらに宿を、恵んではくれぬか」

 口調は幾分いくぶん尊大だが、不思議と嫌な気分にはならない。幼さ故か、はたまた気品のなせるわざか。

「今すぐにでも、鹿の一頭、兎の一羽ならば対価と出来る。後々、労役も負おう。如何に」

 言われてみれば、若者の背後には血抜きされているらしい鹿と兎が転がっている。

「お嬢ちゃん、あんたの従者は『あんただけでも』と言った。それでいいなら、泊めてやらなくもない」

「そうか。ならば、この話は、無かったことに……してくれ。詫びとして、兎は置いていく。失礼した」

 若者も、少女に逆らおうとはせず、一礼して立ち上がろうとした。

「おっと、わかった、わかったよ。試してすまなかった。揃って好きなだけ泊まっていきな。ただし、元気になったら仕事はしてもらう。いいね」

 いわだが、悪意は感じない、どころか高潔に過ぎることは十分にわかった。

「感謝、する」

 主従揃って頭を下げる様子もだが、何より、先に彼らの訪問を告げた黒い犬が、いつの間にかやってきて、尻尾を左右に力強く振りながら、少女の顔を舐めている。

 賢い犬の鼻は、自身の目などよりも、余程信頼出来る。

「ただし、御前に挨拶はしてもらう。それが、この邑の掟だ」

「御前、とは」

「そりゃあ勿論、西王母様さね」



 半刻はんとき(約一時間)程経った。

 そのかん、玉英と子祐は郭洋の家で湯を使わせてもらい、着物を借りた。

 主従共に遠慮したが、郭洋の押しに屈した形だ。

「気にしなくていいんだよ、この辺りじゃ湯が湧き出てるからね。大体、西王母様にお目にかかるのに、旅の汚れを清めもせずにってのは承知しないよ!」

と言われてしまえば、反論の余地は無かった。

 その後、玉英は与えられた煎じ薬を飲んでから、休んでいる。

 子祐は当初玉英に付いていたが、呼吸が安定してきたのを見て一旦離れ、今は郭洋と共に、家の裏手で鹿と兎をさばいていた。

 揃って夜目が利いたのは幸いだった。

「せっかく綺麗にしたのに、すまないねぇ」

「いえ、当然のことですから」

 郭洋の方がいくつか年上だが、互いに幼い子供の世話をしてきた、妙齢の女性同士である。早々に打ち解けていた。

「それでもありがとうよ。……しかし、鬼族ってのは皆あんたみたいに大きいのかい?」

 うつむいて作業している子祐を、見上げながら言う。

 子祐も、郭洋を一瞥いちべつして微笑みながら言った。

「男はそうですが、女は大抵、郭洋さんと同じくらいですよ」

「はぁ~、あたしは邑じゃ一番でかい女なんだけどね、あんたらの邑へ行ったらほとんどの相手を見上げなきゃならないってことかい」

「まあ、そうなりますね」

「そりゃあ畑仕事も楽だろうねぇ」

「ええ。ただ、より広い耕地を受け持つことになっているので、結局苦労は変わらないかもしれません」

「ああ、そういうことになるのかい。確かにそりゃあそれで、大変なんだろうねぇ。あ、ならやっぱり、食べる方も?」

 郭洋が悪戯いたずらっぽく笑っているのを見て、子祐は苦笑しながら頷いた。

「おそらく、多いのではないかと」

「じゃあ、追加の鹿も必要かねぇ」

「また、獲ってきますよ」

「その時は、お願いするよ」

 雑談しながらでも、手は動かしていた。

 働き者が揃って作業すれば、さほど手間取ることでもなかった。

「よし、終わりだね」

「はい。ご苦労様でした」

「ご苦労様でした」

 互いに軽く礼をして、笑い合う。

「それじゃあ、もう一度湯浴みにしようか」

「ええ、では、お先にどうぞ」

 既に負けている舌戦を再び挑もうとは思わなかった。

「何言ってるんだよ。一緒に入ろうじゃないか」

「え、でも」

「女同士で何を気にするんだい。それともあんた、あたしに惚れちまったのかい?」

 また、悪戯っぽい笑顔だ。それが、やけに似合っている。とは言え、

「そういうわけでは……」

「うーん、あたしから言い出したんだけど、否定されると腹が立つね」

 わざとらしく頬を膨らませて見せる郭洋。

「すみません」

「冗談だよ、冗談。さ、なら、行こうか」

「はい」

 いつの間にか言い包められていて不思議ではあったが、姉が出来たようで、悪い気分ではなかった。



 更に半刻(約一時間)が過ぎた頃、郭玄が帰ってきた。

「ただいま!」

「お帰り郭玄」

「お帰りなさい」

「うわ! おばさん、そんなに綺麗だったんですね!」

「怒るべきか、喜ぶべきか……」

 悩む子祐をよそ目に、郭洋は怒った。

「こら! お姉さん、でしょ!」

「だって母上と同じくらいでしょう」

「それは……そうだけど」

 複雑な事情により、矛先が鈍った。

「あ、ところで、西王母様が、もうしばらくしたらお越しになります」

「それを先に言いなさいよ!」

「ごめんなさい」

 今度は素直に謝ったので即座に許して、迎え入れる準備を仕上げようとした矢先、鈴の音のような、澄んだ声が響いた。

「もし、お客様はこちらかえ?」

 扉の向こうから、天女のように美しい少女が現れる。

 雪よりも白い髪と肌。いくらかの模様は伴うが、頭上の獣耳と背後から除く尾も、装いまでもが白い。

 唯一ゆいいつ、口元は、陶磁器よりも滑らかな手に持った黒い扇で隠されており、うかがい知れない。

 一層際立つのは、闇夜にあって、太陽のように爛々と輝く瞳。

「琥珀様」

と郭洋が口走った。本来は琥珀色、なのかもしれない。

 年の頃は十一、十二かと思われる程に小柄だが、定命じょうみょうならざる者に、見た目の判断は通用しない、というのは天下の常識だ。

「あなたが、西王母様ですか」

 子祐は尋ねた。

「随分と礼を弁えたお客様じゃ」

 冷たくあしらわれた。

「これは、失礼致しました。私は子祐と申す者。西王母様におすがりしたきがございまして、我が主と共にまかり越しました」

「ほう、ほう。して、そちの主とは」

「あちらに……いえ、起こして参りますので、しばしお待ち頂きたく……」

「なんじゃ、寝ておるのか、良い、良い、わらわが手ずから起こして遣わす」

 勝手知ったる民の家、ということなのか、音も立てずに奥の間へ進む『琥珀様』。

 一瞬の後、慌てて追いかけた子祐達が奥の間の入り口へ辿り着いた時には、既に玉英の寝顔を横から覗き込んでいるところで。

「ほう、これは……信じられん。妾に匹敵する美しさじゃ。どれ、もっと近くで」

などと言いながら間近まぢかへ顔を寄せ、

「ん……うぅ……ハッ」

 うなされた玉英が飛び起きかけたことで、事故が発生した。

「「んむっ!?」」

「あっ」

「なっ」

「おっ」

 順に、玉英と『琥珀様』、郭洋、子祐、郭玄である。

 全員の時が止まったようになり、何刻も経ったかのような数瞬が過ぎた。

 その後、ようや一寸いっすん(約一・八センチメートル)ばかり離れ、顔を真っ赤にしたまま見つめ合う玉英と『琥珀様』を、他の全員が眺めていた。

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