桜舞う空に
――高校の卒業式。
新入生を待たずに桜は開花し、卒業生達を祝福するように満開で咲き誇っている。桜の花びらが風に乗って舞っていく。それは透き通った空の青へと吸い込まれていった。
すでに卒業式は終わり、各教室でクラスメイトと最後の別れを交わした。泣いている者も多々いたが、どうせLINEがあればいくらでも繋がることが出来る。そのせいか、彩音はさして悲しいとは思わなかった。
だが、問題はそんなことではない。
彩音はまだ迷っていた。
自分の気持ちを打ち明けるかどうか。寝られない夜を過ごしたにも関わらず、まだ踏ん切りが付けられないでいた。
「今さら引くかなあ」
彩音は誰にともなく呟く。
LINEのやり取りを何度も見直す。相手は伊吹だった。
「最後ぐらい会っとく?」
「なんで」
「いいじゃん。しばらく会えないかもしれないし」
「うーん」
「うーんって何だよ(怒)」
「とにかく卒業式が終わったら部室の前ね」
最後はメッセージを連投した。
伊吹から返事は無く、既読だけが付いていた。
すっぽかされても嫌なので、「ありがとう」と満面の笑顔を浮かべるウサギのスタンプを送っておいた。無言のプレッシャーだった。
やり取りを見返して、桜の舞う青空を眺める。
「そりゃあ、ずっと傍にいたんだもん。そんなことだってあるよね」
彩音は誰にともなく言い訳した。春の風しかその呟きを知らない。
ここへ伊吹を呼び出したのには理由があった。
3年間を通して薄々気付いてはいた。いや、本当はとっくに分かっていたのにようやくそれを認める気になったというところか。
彩音は密かに、伊吹へと想いを寄せていた。
当初こそ修行僧のように自分を追い込む伊吹を変態のようにしか感じなかったものの、リングの外では爽やかなイケメンで、加えて人当りも良かった。
伊吹は時々たるんだ選手をスパーリングでボコボコにするなどの「荒治療」でヤキを入れるものの、それ以外では落ち込んでいる同期や後輩を励ますなどの人徳もあり、周囲からの信頼も厚かった。
この王子様を好きになるなという方が無理のある話だ。
ボクシング部のツートップであれば新堂もいるが、彼は爽やかというよりは軽薄な印象が強く、伊吹に初年度でシメられたという印象がある。彩音との出会いが出会いだっただけに、恋愛対象からは外れたところにいた。
あれだけ恐ろしく感じた伊吹も、一度惚れると何もかもが惹き付ける要素に映った。鬼の形相でサンドバッグを叩く姿。試合で対戦選手を無表情でボコボコにする姿。リングを降りて、鬼神のように険しかった表情が一瞬で和む姿。ついにアマチュアで一度も勝てなかった内海との判定決着で敗れ、ただの一度だけ悔し涙を流した姿。
まるで走馬灯のように流れる映像の一つ一つが愛おしかった。
彩音は女子ボクサーになることこそ一瞬で諦めたものの、自分の愛したスポーツで頂点目がけて全速力で駆け上がっていく伊吹の姿には心を打たれるものがあった。
――そして、出来たら彼の走り続ける姿を、ずっと近くで見守りたいと思った。
それが恋心だと認めるのには時間がかかった。入部前に顧問の菊池と話したことはよく憶えている。
「ああ、ただ、部員と付き合う時は隠れて付き合えよ。揉めるから」
蓄音機のように脳内でリフレインする言葉。
そうだ。恋というものは選手にとって薬にもなれば毒にもなる。いや、どちらかと言えば毒になることの方が多い。
何もかもを捨てて練習に身を捧げる伊吹の姿は、文字通り修行僧そのものだ。彼の場合、自らを高める場所が寺院ではなくリングであっただけの話でしかない。
だが、そこに自分が入り込むことによって均衡が崩れるのではないか――彩音にはそういった懸念があった。
自分が伊吹を惑わしたがために彼が迷走するのは嫌だった。また、それに付随して部内で不和が起こるのも避けたかった。
のちに語られるように、彩音の見てきた世代は明らかに後年で伝説の世代となると分かっていたからだ。その伝説に自分がピリオドを打つようなことは間違ってもあってはならない。
だからこそ、彩音は自身の気持ちを隠し続けた。陰で選手達を支えて、それから伊吹が自分から「好きだ」と言ってきてくれたら最高だった。
実際にそうことは上手くいかず、伊吹は本当に修行僧よろしく性欲がどこかへと飛んで行ったような武人だった。一時は女性が恋愛対象にならない男なのかと思ったが、そんなことはないようだった。スマホの待ち受けが乃木坂になっているのを盗み見ていた。
彩音は結局受け身になるのをやめて、自分が肉食系女子になるしかないと悟った。
幸いなるかな、高校の大規模な大会は全て終わっている。仮に伊吹を動揺させるようなことがあっても、迷惑をかけることはないだろう。彩音はそう考えていた。
チャンスは一度だけ――
脳裏を嫌な言葉が流れていく。
展開によっては今までのように友人関係を続けることが難しくなるかもしれない。だが、それを差っ引いてもこの気持ちを抑え続けて生き続けるよりはマシに思えた。
「なんて言えばいいんだろう。わたし達、付き合っちゃう? みたいな?」
伊吹を待ちながら、一人でシャドウ告白を繰り返す。ボクシングだとシャドウ相手に闘うのは正当なトレーニングとみなされるのに、告白に関しては不審者になってしまうのはなぜなのだろう。
それはともかくとして、しばらく不審者ムーブを続けていた。何もしないよりは遥かに気楽だったからだ。
「何やってんだ、日崎?」
不意に背後から声をかけられて、心臓が止まりそうになる。
後ろに立っていたのは伊吹丈二その人だった。
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