第4話 初夜のない新婚初日
式が無事終わり、イヴォンヌはギルバートの邸宅へ移ることとなった。これから新しい住居に住むことになるが、どんなものになるのか全く見当がつかない。「白い結婚」とは言われているが、普段の生活はどう振る舞えばいいのだろう。安心しろと言われても不安の種は尽きなかった。
二人を乗せた馬車がサッカレー邸に到着した。王都の中心部から少し郊外の、静かで落ち着いた雰囲気の場所だ。庭を含めた敷地面積は広いので、単身には持て余し気味なのではないか。
門をくぐると、背の低い木がうっそうと茂り、屋敷に近づくにつれ花木に移り変わり、彩りが出てきた。広い面積にも関わらず、庭はきちんと手入れされており、遠くには温室らしき影も見える。
いよいよ屋敷が姿を表すと、玄関のところに使用人が玄関に控えていた。新しい女主人を迎える時の慣習である。これだけの規模を維持するには、もっと多い人数が必要そうだが、そこにいたのはほんの数人だった。本当にこの小人数で屋敷を回せるものなのかとイヴォンヌは不思議に思った。
「ようこそ、サッカレー邸へ。使用人一同お待ち申し上げておりました」
最初に挨拶したのは執事のファーガソンだ。白髪交じりの紳士で口髭をたくわえ、片眼鏡をしている。折目正しい佇まいはいかにも執事然としていた。歳のころはギルバートと同年代だろうか。
家政婦長はその妻のファーガソン夫人。慎ましやかで知的な女性で、義母のクロエと同年代なのに違う種類の人間に見える。
他にもコックや庭師などがいるが、全員集めても十人にも満たない。ギルバートが隠居同然の生活をしているのがここでも分かる。イヴォンヌがお付きのメイドを一人連れてきたので使用人の数は一人増えることになるが、それでもまだ少ない方だ。
「ファーガソンは軍隊時代の仲間なんだ。忠実な部下で除隊後もこうして助けてもらっている」
「ギルバート様には命を救ってもらった恩があり、今でもこうしてお仕えしている次第でございます」
やはりこの折目正しさは軍隊仕込みだった。今まで会ったことがない類の人なので、ついまじまじと見てしまう。一瞬の会話だけでもギルバートとの絆の深さが見て取れる。
「これ以上は年寄りの昔話になってしまうから、これから家の中を案内しよう。と、その前に断っておきたいことがあるのだが」
ギルバートはふと立ち止まり、長い指を口に当て少し改まった口調で言った。
「一つ許してもらいたいことがある。屋敷の至る所にクララの、亡き妻の肖像画が飾ってある。これは撤去せずにそのままにさせてはくれないだろうか。それ以外では不自由をさせないから――」
「もちろんです。全然気にしないのでご安心ください。それより、みなさん知っているのですか、私たちのこと――」
イヴォンヌが口ごもったのを見て、ギルバートは何のことか察したようだ。
「『白い結婚』のことなら彼らにも伝えてある。一緒に住む者なら私と君との特別な関係を知ってもらう必要があるからね。今屋敷に残っているのは、ずっと長い間うちに仕え、家族も同然の仲間だ。安心して」
それを聞いてイヴォンヌは安堵した。身近にいる人、しかも、身の回りの世話をする人に秘密にしておくのはストレスがかかる。その心配をしなくて済むのならそれに越したことはない。
自分の部屋に通されたイヴォンヌはやっと緊張から解放された。長かった一日がやっと終わる。
本来ならばこの後初夜を迎えるのだが、白い結婚である以上それはない。変に身構える必要がなくてよかったと思うと同時に、世の中の女性は好きでもない相手と一緒に寝るなんてことができるのだろうかと想いを馳せた。
(今の分なら彼を信じても大丈夫かしら。私は恵まれ過ぎているのかもしれない。本当にこのまま終わってくれる?)
そんなことを考えながら、疲れ切ったイヴォンヌはいつの間にかベッドの上で眠っていた。
**********
翌朝、イヴォンヌは、太陽が大分高くなってから目を覚ました。昨日は結婚式でくたくたに疲れた。普通の夫婦は疲れた後に初夜を迎えるわけだから、ご苦労様としか言いようがない。何の気兼ねもなくのびのびと朝を迎えられる環境に改めて感謝して、陽の光を浴びながらうーんと背伸びをする。
「あの……イヴォンヌ様……」
気づくと、実家から唯一連れてきたお付きのメイド、ルーシーが戸惑った表情を浮かべて目の前に立っていた。自分が起きたのを察して来てくれたのだろうが、「どうしてここにいらっしゃるのですか?」と言いたげな顔をしている。そこで初めて、このメイドには白い結婚のことを説明していないことを思い出した。
「あなたにはまだ言ってなかったわね。頼むから誰にも内緒にしておいてね」
そう前おきしてギルバートとの密約のことを説明した。実家のカスバート家には両親が存命していた頃からの使用人が残っている。彼らはイヴォンヌの境遇に同情的だった。
その中でも、姉妹でイヴォンヌに仕えていたルーシーは、彼女の事情を一番よく知る位置にいた。だから今回も、一人だけ使用人が同行することを許可された時に姉の彼女を指名した。本当なら姉妹まとめて来て欲しかったのだが、イヴォンヌのために二人も抜けられるのは許せなかったのだろう。
「何と……そんなことがあったのですね。ギルバート様はすごい方ですね」
ルーシーは驚きのあまりすっかり言葉を失い、しばらくしてからそれだけ言った。20代後半の彼女は落ち着いた性格で、普段は何事にも動じない性格なのだが、白い結婚というのはさすがに想像ができなかったらしい。とにかく、日頃から口が固い性格なので、打ち明けても大丈夫だろうと判断した。
身だしなみを整えたイヴォンヌは、階下へ降りていった。彼女の姿を認めたファーガソン夫人はそれを見て急いで朝食の準備を指示する。正確には昼食に近い時間帯になっていたのだが、文句を言う人はいない。
これが実家ならクロエに叱責されて「そんな怠け者に食わせる食事はない」と言われたことだろう。それを見かねた使用人が後でこっそり差し入れするまでがお約束である。
しかし、誰にも気兼ねせず食事ができるというのは、何て心地いいものだろう! 自分の前に置かれた湯気を立てるオムレツを見た時、言葉にならない感動がじわじわとこみあげた。もう気まずい雰囲気の中、砂を噛むように食事をする苦行をせずに済むのだ。解放感で胸がいっぱいになる。
「あの、奥様。オムレツはお気に召しませんでしたか?」
イヴォンヌがいつまでも手をつけないので、ファガーソン夫人が恐る恐る声をかける。勘違いされたことに気づいたイヴォンヌは、慌ててナイフとフォークを手に取った。
ふわふわ。とろとろ。あったかい。バターのまろやかさと塩気が程よくて、口の中でふんわりとほどけ、ひとたび幸せな気分に包まれる。単においしいだけではない。安心した環境で食事ができることがこんなにも尊いものだとイヴォンヌは初めて知った。太陽の光が降り注ぐ食堂室で、誰の目も気にすることなく温かい食事が摂れる。このような場を提供してくれたギルバートにお礼を言いたくなった。
(でも、お礼を言ったら今までの私の生活状況がバレてしまう。それだけは避けたいわ)
イヴォンヌは気位の高い娘だ。義母にいじめられても惨めなところは絶対に見られたくないという矜持を持っていた。だから義妹のドレスを盗んでまでパーティーに参加したし、誰にも自分の窮状を相談したことはなかった。いじめる側としてはさぞかしやりにくかっただろう。
イヴォンヌが敗北感に打ちのめされるのを見たくてクロエのいじめはエスカレートする一方、それでも彼女のプライドをへし折ることはとうとうできなかった。お陰で、周囲はイヴォンヌの苦境を知ることなく、「カスバートの長女はワガママだ」というクロエが流す噂を鵜呑みにする結果となった。
不遇だった実情を打ち明けるのは嫌だが、彼には謝意を伝えたい。そう思ったが、肝心のギルバートの姿が見当たらない。もっと早く起床したのだろうが、屋敷はすっかり静まり返っており、使用人が働く以外に人気がなかった。ファガーソン夫人に尋ねたところ、こんな答えが返ってきた。
「天気のいい日中は温室にいらっしゃることが多いです。昼食もそこにお運びしています」
昨日馬車の中からちらりと温室が見えたことを思い出す。彼はそこで何をしているのだろう。お腹いっぱいになったイヴォンヌは好奇心が刺激された。
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