第2話 仮面舞踏会の思い出
イヴォンヌは、目を大きく見開いてギルバート・サッカレーなる人物をまじまじと見た。白い結婚? 聞き慣れない言葉に頭の中がクエスチョンマークだらけになる。一体どういう意味?
「びっくりさせてすまない。その、白い結婚とは実質的な夫婦生活がない婚姻という意味だ。と言うのも、友人から提案されてね、カスバート大佐の忘れ形見が辛い境遇にいるから助けてやってくれとまあ、こういうわけなんだ。それなら養女でもいいんだが、お義母さんが了承しやすい形の方がいいだろう? そんなわけで色々と誤解を生みそうですまないが、やましいところはないと理解してほしい」
イヴォンヌを安心させようと、ギルバートはわざわざ膝を折って彼女の元にひざまずき、目線を合わせて説明してくれたが、一通り理解できた後も開いた口が塞がらずボーッとしたままだった。もしかして、とてつもない不快感を与えてしまったのかと危惧したのか、彼は早口で付け加える。
「もしかして、すでに思い人がいるのなら今のは忘れてくれ。若い恋人の仲を裂くつもりは毛頭ない」
「いえ、そうではないんです! ただ、余りに突然でびっくりして……」
確かに突拍子もない提案ではある。びっくりするのも当然だ。しかし、一見うまい話には必ず裏があるはずだ。何も考えず飛びつくわけにはいかない。
「つまり、あなたは私を引き取って援助もしてくださるということですか? お返しに私は何をすればいいんでしょう?」
「その気遣いは無用だ。何らかの見返りを期待しているわけではない。これはいわば慈善事業というか――尊敬する上司の菩提を弔うようなものだから、あなたは何も気にしなくていい。もし、途中で他の男性を好きになったらいつでも離婚していいから。その際も資金援助はしよう」
それでも、男性が若い女に求めるものと言えば一つしかない。さっき「白い結婚」と言っていたが、イヴォンヌはどうしても納得しかねた。その気持ちを読み取ったかのように、ギルバートが説明を続ける。
「どうして私がこの役に選ばれたかは、きちんとした理由があるんだ。私なら間違いを起こす心配はないと、そう判断されたんだと思う。と言うのも、5年前に最愛の妻を亡くしてからずっと彼女のことが忘れられなくてね。今も昔も私の妻は彼女一人だけだ。妻を裏切るような行為は絶対にしたくない」
そう言った時のギルバートは、神の前で誓いを立てるような厳粛さがあった。
ついさっきまで、監視の目をくぐり抜けて家出することしか考えてなかったのに、ここに来て決意が揺らいできた。家出はどう考えても成功率が低い。お金も十分にないし、社会経験の乏しいイヴォンヌにとっては未知の恐怖でいっぱいだ。
ギルバートの提案はこれ以上ない好条件だが、どこかに罠が仕掛けられているかもしれない。しかし、ギルバートは嘘をつくような人間だろうか? 妻の話も本当に見える。父の部下だった人なら嘘はつかないかもしれない。
よし、この人を信じてみよう。イヴォンヌは意を決して顔を上げ、ギルバートを正面から見据えた。
「分かりました。結婚をお受けします。こちらこそよろしくお願いします」
そう言って、深々とお辞儀をしたのだった。
**********
そうと決まってから、結婚式の準備は急ピッチで進んだ。クロエは、双方の気が変わらないうちに後戻りができない状態にしたかったのだろう。あの跳ねっ返りの娘が途中で気を変えたら、貰ったお金を返さなくてはならないからだ。
「よかったわねえ。サッカレーさんならあなたのこと可愛がってくれるわよ。若い子が嫌いな男性はいないもの」
この下卑た笑いがどうしても癪に触る。結婚すればもう彼らと会わなくて済むことだけを考えて、イヴォンヌは日々を過ごした。
実際に会ったギルバート・サッカレーは誠実そうな紳士だった。でも、クロエやオーガスタに悪意を込めて囃し立てられると、どうしても不安になってしまう。そんな時、つい先日の仮面舞踏会での出来事を思い出すのだった。
イヴォンヌ・カスバートと言えば、性格のきつい娘として社交界では知られている。これは半分当たって半分間違っている。確かに生来から負けん気の強い性格で、日々意地悪な家族と闘っているのも相まってそう見られがちだが、もう半分は、クロエとオーガスタが吹聴した根拠のない噂に過ぎない。
とは言え、周囲はそんな内情を知る由がないので、婚活市場でのイヴォンヌは評判が悪かった。だが仮面舞踏会ならチャンスがあるかもしれない。彼女は、クロエの目を盗んで自分相手の招待状を見つけ、義妹のドレスを借りてまで参加した。
とりあえず目についたオレンジのドレスを着たが、似合っているか自信はない。黒髪と緑の目をした自分に不釣り合いではないかと不安だったが、悠長に選ぶ暇はなかった。
ろうそくの明かりの中、ほの暗いパーティー会場は、参加者の顔もろくに見えなかった。おまけに仮面を被っているので簡単に特定されにくい。これなら警戒心を持たれずに男性に近づけるだろう。
しかし、そう簡単にことは進まなかった。喜び勇んで参加したはいいものの、社交慣れしていないイヴォンヌは、どう振る舞えばいいのか分からなかった。
普通は他人を介して紹介してもらうのがマナーだが、家族から冷遇されているだけでなく、あいにく知人も少ない。それでも女学校時代の知り合いがいないか探し回っていると、ドスンと誰かにぶつかってしまった。
「すいません! ええと……」
「おや、走り回っていた野ウサギがぶつかってきたのかな?」
相手はいかにも遊び慣れた風の若い青年だった。すでに酔いが回っており酒臭い息をまき散らしている。何が野ウサギよ、いけすかない奴。イヴォンヌは軽くいなしてその場から去ろうとした。しかし、突然ぐいっと手首を掴まれて行く手を阻まれる。
「狩人に捕まった野ウサギは一曲相手しないと逃げられないの知ってる? そうしないと食べられちゃうよ?」
青年はそう言うと、ベロっと舌を出して見せた。一緒にいた仲間から一斉に笑い声が上がる。おいおい、その辺にしてやれよなどと聞こえるが、誰も本気にしていない。
イヴォンヌは、社交界に出たての小娘だとみくびられたことに対して一瞬かっとなり、適当にあしらってこの場から逃げようと思った。いくら結婚したいとは言えこんな相手はお断りだわ。
しかし、場数を踏んでいないので、気の利いた言葉が出てこない。どうしようと焦り出した時、知らない人物が助け舟を出してくれた。
「若いお嬢さんをからかうもんじゃない。君たちの評判が下がってしまうよ」
低く落ち着いた声が浮ついた空気を一気に冷ます。はっとして声のした方を向くと、背の高い紳士が立っていた。目元は仮面に隠れているが、見えている部分からすると中年の男性だろうか。すらっとした体型で姿勢もぴんとしているので、口元のほうれい線と白いものが混じったアッシュグレイの頭髪だけが加齢を伺わせる要素となっている。
青年たちは、年長者に睨まれたら後々面倒くさいと思ったのか、お互い気まずそうに顔を見合わせ、そのまま何も言わずそそくさと立ち去った。
「ありがとうございます。助かりました……」
イヴォンヌがほっとしてお礼を言うと、紳士は微かに笑いながら手で制した。
「お礼を言われるほどのことではありません。若い人はパーティーを楽しみに来ているのに、嫌な思い出を作りたくないでしょう。ついでなので、同行者の方のところまでお送り致しましょう、私でよければお供します」
イヴォンヌは紳士が差し出した腕を見て、戸惑いの表情を浮かべた。どうしよう、何とかごまかさないと。
「実は同行者は……先に帰ってしまったんです。その、具合が悪いとかで」
イヴォンヌは咄嗟に嘘をついた。パーティーには誰かに付き添われて出席するのが正しいマナーである。一人で来たと正直に言ったら常識外れの娘だと軽蔑されるに違いない。ぱっと思い浮かんだことを口走ってしまったが、その場限りなら隠し通せるだろう。
「なので今は一人なんです……。こういう場は不慣れで心細かったんですが、あなたのお陰で助かりました」
「そうですか。それはそれは」
紳士の声色はイヴォンヌへの労わりに満ちていた。どうやら信じてくれたらしい。ほっとしたイヴォンヌは、この時間を手放したくないと思うようになった。
彼と話しているとどこか安心する。低い声が心地いいだけでなく、心の波長が合うような気がするのだ。そこでつい気が大きくなって大胆な提案を口にしてしまった。
「あ、あの……一人だと心細いので、しばらく付き合ってくださいませんか?」
「え? この老人とですか?」
「老人だなんて。十分若いじゃないですか?」
「いえいえ、今年で50になる老体ですよ」
何ですって? イヴォンヌは目を見張った。顔が見えないので見えるところから判断するしかないが、服の上からも分かる引き締まった体躯、きびきびした動作からは加齢を伺わせる要素は見当たらない。確かに落ち着き払った物腰は人生経験の豊かさを思い起こさせるが、世間の50歳とは一線を画していた。
「顔が見えないのでもっとお若い方だと思ってました。もしかして軍人だったとか?」
「すごい。その通りです。よくお分かりになりましたね?」
「うちの父も軍人だったんです。しばらく前に亡くなりましたが、同じ空気を感じました」
「何と。もしかしたら知っている方かもしれません。所属は……いやいや、今日は仮面舞踏会だった。相手の素性を尋ねるのはルール違反でしたね。失礼」
そうだ。ここではお互い名乗ってはいけないルールだったのだ。だが、このままでは何の足跡も残さないままこの紳士と離れ離れになってしまう。イヴォンヌは、自分でもびっくりするようなことを口走っていた。
「もし、できれば、私と踊ってくださいませんか? 今日の思い出として!」
口にした後で、何てことを言ってしまったんだと愕然とする。女性から男性を誘うなんてはしたない! どうしようとあたふたしているところへ、紳士は苦笑しながら言った。
「私でよければ喜んで。でもしばらくダンスはしてないので踊り方を忘れてしまいました。うまくリードできないかもしれませんが、その辺はご容赦ください」
紳士はかすかに微笑みながら片手を差し出す。どうしよう、受け入れてもらえた。イヴォンヌはごくりと唾を飲んでから、おずおずとその手を取った。そして、二人でダンスフロアに向かい曲の開始と共に動き出した。
なかなかどうして、踊り方を忘れたどころか、彼はイヴォンヌを優雅にリードした。彼の動きに身を委ねるだけで蝶のように舞っている心地がする。ダンスがこんなに楽しいものだなんて今まで思ったことがなかった。背中に羽が生えたようだ。できれば永遠に音楽が続いてほしい。
踊り終えた頃には息がはずんでいた。疲れからではない、興奮と嬉しさで胸が躍っていたのだ。仮面の隙間から覗く目がキラキラと輝いているのが自分でも分かる。それは紳士も同様だったらしく、ふと目が合うとにこっと笑ってきた。最高の気分だ。こうして、イヴォンヌは夢のようなひと時を過ごしたのだった。
「イヴォンヌ様、どちらにいらっしゃいますか? ただいま、ウェディングドレスの採寸で仕立て屋が来ているのですが?」
使用人の声で一気に現実に引き戻される。イヴォンヌは、はっとして我に返った。
(そうだわ、これはただの現実逃避。でも、あの仮面の紳士が結婚相手だったら……いいえ、まさかそんな虫のいい話があるわけがない)
イヴォンヌは、あまりに馬鹿馬鹿しい考えに一人笑うと、仕立て屋のところへ向かった。
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