シシルナ島物語
織部
第1話 シシルナ島
ノルドは、自由都市国家連合の一つである古き風の島、正式名称シシルナ・アエリア・エルダで育った。
彼の生まれた場所は定かではない。母セラと二人きりで暮らし、彼は一人っ子だった。背は低く猫背で、顔立ちはどこか歪み、不格好なうえ、不気味な印象を与える。隻眼で、残った片方の瞳は深い青色をたたえていた。
両手は動くものの、左腕は上がらず、左足もほとんど動かない、生まれつき障害を抱えていた。
母セラもまた、頭に毒薬を浴びたような痕があり、髪が薄く、顔立ちは醜かった。彼女はいつもスカーフで頭を覆い、人目を避けてひっそりと暮らしていた。
セラ親子がシシルナ島に渡ってきたのは、ノルドがわずか2歳の時だった。
彼の中で最も古い記憶は、冷たい風が吹く船のデッキで、母セラにしっかりと抱かれながら、この新たな島がゆっくりと近づいてくるのを見つめた瞬間だ。
まだ安定して歩くことができなかったノルドを、セラは心配していた。
成長が遅れているのではないかと案じていたが、不思議なことに、彼は言葉を発するのは同じ年頃の子どもたちよりも少し早かった。
セラの腕の中で、ぽつりと一言、彼がつぶやく。
「セラ、ウミ」
「ええ、そうよ。海」
その言葉を聞いた瞬間、セラの目には涙が溢れた。幼い我が子のその一言が、何よりも彼女に安堵を与えたのだった。
この子と一緒なら、どこへ行ってもきっと大丈夫――そんな確信が彼女の胸に広がり、溢れる涙となって頬を伝った。
暗く広がる海の向こうに浮かぶシシルナ島。その背後から、希望の光のように、朝日がゆっくりと昇りはじめていた。
※
シシルナ島には二つの大きな町と多くの村があり、気候は一年を通じて温暖だが、四季のうち春と秋は短く、冬には大雨が続く。
セラ親子は、初めは、転々と島の中を移動していたが、やがて、魔物の森の近くの寂れた村外れの平屋の廃屋を買い取り、屋内だけを改修し住むことにした。
腕の立つ寡黙な大工が、これならもっと良い場所に、新築を建てた方が良いと口を開いたが、セラは断った。
建物は目立たず、何より森の近くであれば、いざという時に逃げ込めるからだ。セラは森の中は既に調べ尽くしていた。
ノルドの二番目に古い記憶は、家の裏庭で小さな石を的に投げて遊んでいたときのことだった。
「上手よ、ノルド」と、振り返った先にいる母が笑顔で声をかけてくれたのが誇らしくて、ノルドは胸を張り、何度も石を投げ続けた。その笑顔は今でも心の奥に淡く浮かんでいる。
母のセラは裁縫の仕事で生計を立てていた。大陸から来る商人が布や糸を運び、セラが仕立てた服を回収していき、その代わりにわずかな金銭や食料、生活必需品を置いていった。
町や村に出かけることはほとんどなく、家での日々が続いていた。
商人が置いていく品の中には、本や筆記用具も含まれており、セラはそれらを使ってノルドに文字や言葉を教えた。
学校で学ぶべきことも先に教えていったが、ノルドは嫌がらず真剣に向き合った。
ノルドは特に読書が好きで、一度本を開くと夢中になり、時間を忘れるほどだった。
セラは「そろそろ本を閉じなさい」と声をかけても、なかなか閉じさせるのに苦労した。
昼過ぎ、「おやつを作ったから一緒に食べましょう!」とセラが声をかけると、ノルドは名残惜しそうに本を閉じて立ち上がり、母のもとへ駆け寄った。
夜、セラが「もう今日は寝る時間よ」と言いながら本を取り上げると、ノルドはしぶしぶ布団に潜り込み、「じゃあ、寝るから本読んで」とねだった。
特に牙狼族の女王の伝記や英雄譚はノルドのお気に入りで、セラは何度も繰り返し読み聞かせた。
ノルドはその声に耳を傾け、安らかな表情で眠りについた。セラはその寝顔にそっと手を伸ばし「おやすみ」と心の中でつぶやいた。
そんな日々が続いていた。
※
そして、ノルドは学校に通う年齢を迎えた。
この世界では、どの国、どの地域でも教育に力を入れている。誰でも無料で教育を受けられる。
それは、教育が大人になる時のレアリティ抽選や、大人になる速度に影響を与えると信じられているからだ。もちろん、この島でも同様の対応が取られていた。
ノルドが住む村や、近隣の子どもたちが大人になるまで学ぶ場所。それが、近くにあるひときわ立派な建物だった。
それは、ノルドにとって外の世界と初めて触れ合う大きな出来事だった。
静かな日々を母セラと過ごしてきた彼にとって、学校にはさまざまな家庭の子どもたちが集まり、その活気に少し戸惑いを覚えた。
セラに手を引かれて教室に入ると、その瞬間、教室の中の子どもたちが一斉にこちらを見た。先生はまだ来ていない。
「おいおい!片目で片足引きずってるぞ!」
「へんな服着てる!」
「黒づくめのお化け老婆がいる!」
教室のリーダー格の男の子が騒ぎ出し、取り巻きがそれに続いた。
ノルドは驚いた。
それまでセラ以外とは数人の大人としか話すことがなく、このような態度を取られたことがなかったからだ。
(何故、この人たちは他人を馬鹿にするのだろうか?)
ノルドの心は混乱した。
(自分の体の障害や服装、セラの外見が彼らに何かしたのだろうか?)
不愉快というよりも、全く意味がわからなかった。
下を向いていた顔をセラに向けて、ちらりと盗み見た。
「顔を前に向けて、挨拶をしなさい、ノルド」セラの声には、厳しさと優しさが混じっていた。
「ノ、ノ、ノルドです」彼は真っ赤な顔をして震えながら言った。それが精一杯だった。
「なんだって?」教室の中で、また騒ぎが広がる。
「言葉なのか、聞こえないよ魔女の子供!」教室内で笑い声が上がる。
そのとき、調子に乗った子分の一人がノルドに向かって木の短剣を投げた。
「ばんっ!」
木の短剣はノルドに当たりそうになったが、ものすごい勢いで天井に当たり、木っ端微塵となった。
教室は突然静まり返った。セラの手刀によるものだった。
「もし、ノルドが傷ついたらどうなるか、わかるわね?」
セラは黒いスカーフの下から冷徹に一言だけ笑いながら言った。
その時、教室に年老いた男の教師が現れた。
「セラ様、わざわざご来校ありがとうございます。ノルド君、挨拶は済んだかい?」
「はい」ノルドは、やっと落ち着いて答えた。こうして、学校生活が始まった。
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