第8話 旅立ち

 結衣菜はディクライット城下町で唯一海を臨める場所に来ていた。

 遠くに見える鮮やかな青い海と同じく爽やかに晴れ渡る空にはなにも心配することはないとでも言うかのように黄色い太陽が輝いている。

 ディクライットの冬の大祭が始まってからもう四日も経っていることもあり、結衣菜の頭のなかにはディクライット城下町の道はもうほとんど入っていた。中でもこの大きな木が一本だけ生えているこの高台は彼女のお気に入りの場所になりかけている。

 冬の冷たい風が優しく頬を撫で、被ったマントの羽毛がふわふわと揺れる。


「これからどうしよう……」


 独り言ちた自分にハッと気付いた少女は誰もいないというのに、手で口を隠す。

 いつまで自分はこうしているつもりなのだろうかという気持ちが、口の隙をついて出てしまったのだ。

 この四日間、城下町を散策してはチッタと一緒にエルムとヴィルの芸を見に行って魔法を教えてもらったり、騎士団の人たちと話したりしているだけだった。

 チッタは今日やっとお家が決まると言って出て行ったが、結衣菜の状況は何一つ変わっていない。


 トラブルを避けるため、ほとんどの人間にはディクライットのはずれの街で暮らしていたという説明をしていたが、チッタと親しいティリスや、騎士団のエインとは会話をすることも多く、異世界に帰る方法を探しているということを話していた。

 その会話の中でエインが言っていたことを思い出す。

 ――「東の山脈を超えた砂漠に位置するテーラと言う国に異世界から来た人の噂がありました。何年か前のことなので、本当かどうかはわかりませんが……」

 東のテーラ。そこに行って異世界から来た人と話をすることができれば、帰る方法が見つかるかもしれない。とりあえず、チッタに相談しよう。

 足元の雪が少女の歩みに応えるかのように快い音を鳴らしていた。歩を進める彼女の後ろで木に積もった雪が地面に落ちる音が鳴っていた。


***


 事前に聞いていた通り、チッタは宿屋から街門の方へ十五軒ほど歩いたところにある小さな一軒家にいた。

 引越し……といっても前のジェダンの家から持ち出せたものは写真のみらしく、結衣菜がついた頃には大方落ち着いていた様子で、むしろエリルには色々ものを買い足さなきゃだめねとぼやかれたほどだ。


「ティリスがさ、結構いいとこ見つけてくれたんだよ! ちょっと狭いけどな!」

「しばらくはまだ慣れないだろうけれど、本当にティリスちゃんには感謝だわ」


 嬉しそうにはしゃぎまわるチッタとは反対に、掃除をしていたのか腕まくりをして少しくたびれたように見えるエリルが微笑んだ。


「で、どうしたのユイナ? まただいどーげー見に行く?」


 チッタは目を輝かせている。けれど、結衣菜の表情は少し曇っていた。


「ちょっと相談したいことがあって……」

「そーだん?」


 首を傾げながら再び質問を投げかけた彼のぴょこんと立った髪の毛がかわいらしく揺れた。


「うん、相談。あたしね、東の方にあるテーラって言う国に行きたいの。あたしみたいに異世界から来た人の噂があるんだって。もしかしたらそこに行けば帰る方法が見つかるかもしれないの。だから、どうしたらそこに行けるかなって」

「テーラとなると、かなり遠いわね。ディクライット城の後ろにそびえる大きなペペ山脈、分かるかしら? テーラはその山脈の向こう、ペペ砂漠を進んだところに突然現れるペテル緑地と言うところにある国なのよ。山越えは危ないから迂回をしないと……。だからユイナちゃんのような女の子が一人で行くには……」


 難しいだろうという彼女の言葉を遮るようにチッタが叫んだ。


「俺も行く!」


 結衣菜とエリルの驚きの声が重なる。二人の反応などお構いなしに彼は続ける。


「俺も行くよ! だってそうすれば、ユイナは一人じゃないだろ?」

「そ、そりゃそうだけど……でもチッタ……」


 突然のことに返答に詰まる結衣菜の手を、チッタの暖かい手が包み込んだ。見つめる瞳は、太陽でも入っているかのようにキラキラと輝いている。


「あのね、俺いつか世界で一番強いトレジャーハンターになりたいんだ。だから、その練習! な? いいだろー?」


 どうしても行きたいと言わんばかりの少年に、エリルは少し悩んだ後に大きなため息をついて、こう提案した。


「チッタ。どうしても、と言うなら二つだけ、約束して」

「やくそく?」

「ええ。いい? 一つはね、必ず無事に戻ってくること。二つ目はなにがあってもあなたがユイナちゃんを守ること。約束できる?」

「できる!」


 即答だった。エリルは微笑む。


「ユイナちゃん、チッタを連れて行ってくれないかしら?」


 頷く他にない選択肢を選びながら、結衣菜ははその微笑みが寂しそうな色を帯びていたのを見つめていた。


***


 次の日、結衣菜とチッタは騎士団のティリスを尋ねるため、ディクライット城へと向かっていた。

 街はまた雪が降り始めていて祭りの飾り付けが発する香しい匂いはまだ続き、その賑わいも最高潮に達しているようだった。二人が城門につき、門番の騎士にティリスの所在を尋ねようかどうか迷っているとちょうどティリスが門から出てきたところだった。彼女は二人を目に止めるとすぐ駆け寄ってくる。

「チッタ! ユイナちゃん! よかった、まだ出ていなかったのね! ちょうどあなたたちの所に行こうと思っていたの! ……あ、城に用かしら?」

「ちがうよー! 俺たちもティリスに用があって来たんだーっ!」

「あたしたち、テーラに行こうと思ってるんですけど、旅をするのなんて始めてで、なにを準備すればいいのかなって。ティリスさんなら知ってそうだなぁって思って」

「……そう、そのことなら話が早いわ」

 彼女の宝石のような瞳が少し揺れたように見えた。

「私もあなた達と一緒に行く。陛下から直々に東方調査の命を受けたの、その関係でテーラにも行かなきゃならなくて。それに昨日、エリルさんからあなた達を頼みたいって……やっぱり心配なのね」

 彼女はそう言うと心配性なエリルのことを考えたのか、ふふっと微笑んだ。さりげなく見せるその笑みは少し子供っぽかった。結衣菜は自分と二、三ほどしか違わないという彼女の幼さが見えて、今までの大人っぽい彼女よりもなんだか少し親しみやすいように感じた。

「じゃあティリスも一緒に行くのー? やったー!」

「よし、じゃあ決まりね。旅の準備をしましょうか。ある程度は昨日のうちに済ませておいたけれど……旅着は本人がいなければね」

「おう! いこうぜ! 俺なんかわくわくして来た!」

「ちょっと! 待ってよチッタ!」

 走り出した彼を二人で追いかけながら結衣菜は考えていた。

 誰も知らないような不思議な世界、自分がここに来たのには何か理由があるのかもしれない。けれど悩んでいたって仕方が無いじゃない。何かをやってみるべきなんだ。


――狼に変身できる少年と頼もしい女騎士、二人との旅が始まる。


 ディクライットの街は未だその賑わいが収まることはなく、チラチラと降る雪がまるで何かが始まるような、そんな不思議でワクワクする予感を感じさせていた。

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