第37話 女代理人を追い詰める(アステル視点)
豪華な大会場から離れた廊下は、まるで別世界のように静寂に包まれていた。
アステルにとっては馴染みの通路である。この城は幼い頃から歩き回ってきた生活の場であり、どの廊下がどこに繋がるのかをすべてを把握している。
――悪いね、ネズミの逃げ道は把握済みってわけだ。
アステルは目を瞑り、廊下の角に背をつけて耳を澄ましていた。
表のどよめきがかすかに聞こえるなか、たったったったっ、という軽い足音が聞こえる。それはまさに、逃げるネズミの足音のようで――。
(まだ、まだ、まだ、もうちょっと)
逃げ道を塞がれてとって返すほどの距離ではなく、そのまま逃げ去ることもできないちょうどいい間合いを測り、タイミングを見計らって――。
(今だ!)
アステルはその角からひょいと長躯を踊り出させ、ほとんどぶつかりそうな距離で、女性の前に立ちはだかる。
「――アステル殿下!?」
黒髪に紅色のドレス、顔の下半分を薄紅色のベールで隠した女性が、アステルの肩の下で、驚いたように紫色の瞳を目一杯見開いていた。
その目を見たとき、アステルは確信する。
どんなに瞳の色を変えようと、目の形がルミナだった。
「やぁ、代理人さん。ごきげんよう」
アステルはにっこりと笑った。
「フローレンス……だったっけ」
彼女は挨拶でフローレンス・ラヴィエールと名乗っていたはずである。
「それともルミナのほうがいいかな?」
「なにをおっしゃていますの?」
彼女の紫色の瞳がきょとんとした。その無垢な瞳は、アステルでさえ一瞬「勘違いかもしれない」と錯覚させるほどだった。演技としては完璧である。
「どなたかと勘違いなさっているようですけど、私はフローレンス・ラヴィエール、ナシーム様の代理人ですわ」
「じゃあ逆に聞くけど、代理人の君がなんで雇い主を置いて逃げてるんだい?」
「……それは」
彼女の紫の瞳に焦りが浮かぶが、すぐに怯えたように身を縮こませる。
「ブラックスピネルが現れたからですわ。私、怖くて怖くて……」
「君がブラックスピネルを怖がるなんてなんだか滑稽だな。悪党度合いでいったら君だってなかなかのものだろ」
すると、代理人フローレンスはいかにも寝耳に水というようにぽかんとしてアステルを見上げたのだった。
「なにをおっしゃっていますの? 私が悪党? 滅相もないですわ」
やはり見事なものだ。事情を知らなければ彼女の言葉をなんの疑いもなく信じてしまうだろう。
「へぇ」
アステルは一歩踏み込み、フローレンスとの間合いをさらに詰める。
「さすがに演技がうまいね。正直、僕でも見とれてしまうくらいだ。前々から思ってたんだけどさ、君プロだよね?」
「なにをおっしゃって……」
「しかし残念だったね、狙っていた『湖畔の愛』がブラックスピネルに横からかっ攫われてしまうなんてさ。計画は失敗だ」
「……それは確かに残念でしたわ。私どもは『湖畔の愛』を手に入れるために長らく交渉していたわけですし、それがなくなってしまったとあっては……」
「そうだね、絵がない以上ここにいるのは危険だ。いつ身から出た錆に溺れて息が出来なくなるか分からないもんな」
「私どもの身から出るのはお金だけですわ、アステル様。もちろん、きちんと合意した、絵画の代金です」
彼女はあくまで微笑みシラを切るが、アステルは軽く鼻で笑ってみせた。
「へえ、そう言い切れるとは大したものだね。でもさ、時間を掛けすぎるとアル=ファイラの大富豪に直接確認を取る人が出てくるかもしれないよ?」
「……」
そこで始めてフローレンスは黙り込んだ。無垢を装っていた紫色の瞳が揺れ、まるで蛇に睨まれるネズミのような怯えた色を帯びる。
戸惑いながら開かれた彼女の口から、震えた声が囁かれた。
「本国に、連絡をとったのですか……?」
「まぁね。さっきその報告が来たんだ――確かにアル=ファイラにはナシーム・シャヒードっていう大富豪は実在した。だけど彼は今もアル=ファイラにいる。じゃあビュシェルツィオにいる『ナシーム』は誰なんだろうな……?」
わざとらしく顎に手を当てて考え込む素振りをしたアステルは、怯えたようにアステルを見上げるフローレンスの、その神秘的なベールの向こうの口の形を読み取ろうとした。
「いくら遠国とはいえ実在の大富豪の名を騙るなんて甘いんじゃないかなぁ。バレるに決まってるよ」
「……はぁ」
ルミナは肩を落とすと、諦めたように首を振った。顔の下半分を隠すベールがふわりと揺れる。
一瞬で雰囲気が変わった――いつだったか垣間見た、ルミナの正体そのままだ。
「あたしだって、話を聞いたときはちょっとヤバいんじゃないかなって思ったさ。でも仕方ないだろ、もう決まってた計画なんだから……」
言葉遣いも別人のようになっている。
「……ところで、なんであんたはあたしのこと知ってるんだ? ルミナの姿で帝国の皇子様になんか会ったことないはずだけど」
「そんなこと教えると思うかい? いったらそれを対策されるだろ」
「違いない」
彼女はベールに手を掛け、外した。
口元は、以前見たルミナとは明らかに違っていた。ぽってりしていたあの夜のルミナの唇とは違い、かなり薄くなっている。化粧の力だろう。
ルミナは疲れたように、はぁ、と溜め息をついた。
「あんた、なかなか目端の利くみたいだね。皇子様にしとくのはもったいないよ」
「皇子というのは目端が利かないとやっていけない職業なんでね。――ところでさ、君の口ぶりだと、今回のことは君が単独で立てた計画じゃないみたいだね?」
偽ナシームを立てることを、ルミナは危惧していたようである。なのに、それをせざるを得なかった――つまり、誰かから命令されたのだ。
「さて、どうだか。で? あたしがルミナだとして、あんたになんの関係があるっていうんだ。ルース殿下にでも突き出すつもりかい?」
「それもいいな、でもその前に聞いておきたいことがある。今回の計画と、君の正体についてさ。今回の計画は大がかりすぎる。なにを考えてるんだい、君の後ろにいる連中は?」
ルミナは呆れたような眼差しでアステルを睨みつけると、それから肩をすくめて薄く笑った。
「まぁ、失敗したから言っちゃうけどさ。あの絵はなにがなんでも取り戻して大事にとっておいたほうがいいよ」
「ほう、それはどうして?」
「あの絵を描いた画家が最近死んだだろ? だから出回ってる絵を買い占めて、市場価値をつり上げようとしてるのがいるんだよ。あの画家は馬が好きで『駿馬』シリーズっていうのを描いたそうでね……。ウチ以外がそれを成功させるのは癪だ」
「『ウチ』ね。やっぱり君はどこかの組織に所属してるってことか」
「さて、なんの話やら……」
視線を逸らしてはぐらかし続けるルミナに、アステルはにっこりと笑いかける。
「絵を買い占めるって、けっこうな財力がないと無理だよ。悪いけど、君はそこまでのお金持ちには見えないんだよな」
「
「おっと、これは失礼した」
アステルは、片足を下げて胸に手をやる
「ルミナ嬢、これから君を
アステルは礼を解くとルミナの細腕を笑顔で掴んだ。彼女の腕は華奢でたおやかだったが、容赦なくその手に力を込める。
そういえば、こうやって彼女の腕をとるのはこれで二回目だ。一回目は、衛兵に化けてルースの命令でルミナを捕らえたときだったか。
ルミナは抵抗するでもなく、紫の瞳をキラリと輝かせた。
「……それよりいいこと教えてやるよ。あの会場にはルースがいる」
その言葉に、アステルはハッとして動きを止めた。
アステルの黄金の目が見開かれる。
「……何?」
本当に? ルースがここにいる?
――まさか。ハルツハイムには『譲渡の儀』の招待状は送っていないはず……。
「気づいてなかったのか。ふん、あんたこそ甘いね。甘々の甘ちゃん皇子様だ」
ルミナは腕を取られたまま、勝ち誇ったように口元を歪ませる。
「あいつ、シルヴィアのこと随分怒ってたからねぇ……。あんたも噂に聞いたことくらいはあるだろ? ハルツハイムの婚約破棄騒動」
聞いたことがあるもなにも、アステルは衛兵に化けてあの場にいたのだ。
だから知っている。ルースがどれだけシルヴィアをぞんざいに扱っていたかを、どれだけ逆恨みしているかを。というか、その逆恨みの原因を作ったのは自分だという自覚がアステルにはあるのだが……。
何せ怪盗として、彼からピンクダイヤモンドの首飾りとシルヴィアを取り戻したわけだし。
動きを止めたアステルに、ルミナは目を細めて追撃してくる。
「あいつ、なにをしでかすか分からないねぇ。あの騒動以降、シルヴィアを取り戻すんだ! って息巻いてるって話だし」
「……君が言っているだけじゃ信じられないな。僕の気を逸らすつもりなんだろ?」
「嘘じゃないってば。会場で見かけたとき、ルースの目は血走ってた。この混乱に乗じてなにかやらかすかもしれない、早く行ってやったほうがいいよ」
ドクン、と心臓が不穏に脈打った。
背中にひやりとした汗がにじみ出るのを感じる。
(本当に……ルース君が……?)
腕を掴む力がわずかに緩む。その隙を突いてルミナが素早く腕を振りほどいた。
だがそれも気に掛けず、アステルは、廊下の向こう――大会場のほうに視線を向けた。
シルヴィア……!
「じゃあね、甘ちゃん皇子様!」
完全に気のそれたアステルの前でルミナはドレスの裾をたくし上げると、アステルの背後に――大会場とは反対の方向へと一目散に走り出した。まさに罠から勢いよく逃げ出すネズミのように遠ざかっていく。
しかし、アステルの心はすでにルミナから離れていた。
大会場に、ルースがいる……。
そんな場所に、自分は彼女を一人で残してきてしまった。
(どうして気づかなかったんだ。シルヴィア……!)
駆け去ったルミナとは反対方向――大会場に向かって、アステルは走り出した。
一刻も早く、シルヴィアのもとへ。
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