第35話 譲渡の儀

 ビュシェルツィオ皇城の大会場――本番の譲渡の儀は、昼だというのに灯された複数のシャンデリアが天井できらめき、夜会のように華やいだ雰囲気を漂わせていた。来賓たちもそれぞれ華々しく着飾っている。


 しかしその明るさとは裏腹に、衛兵たちの数が多い。

 全体として、会場はどこか息を潜めた緊張感を張り付かせながら、本日の主役である皇帝陛下とアル=ファイラの大富豪の登壇を待っていた。


「所長、あれ……」


 ポレットが指差すその先には、リハーサルで見たとおり、朱色の布を掛けた絵画が専用の器具に掛けられていた。一段高くなったステージで、来賓たちによく見えるようになっている。


 ちなみにポレットは黄色のドレス姿である。さすがにメイド服で式の群衆に混ざることはできないからだ。


「ええ。このまま無事に大富豪に引き渡されるといいのだけれどね……」


「どうかな?」


 私の隣でアステル殿下が肩をすくめて、その整った顔に意地悪そうな笑みを浮かべた。


「案外、もう絵は盗まれているのかもしれないよ。あの布の下には何もないんだ、僕ならそうする」


 さすが本物の怪盗皇子ブラックスピネルの言うことである、説得力がある。


「まあ、そんなことおっしゃって」


 窘めながらも、私の心に疑念がよぎる。

 もしかしたらアステル殿下のいうとおりなのかもしれない。

 まさかね……。そう思いつつも心臓が嫌な鼓動を打つ。早くあの布の下を見て安心したいところだ。


 と、そのとき。壇上に並んだ近衛騎士たちが一斉に礼をとった。


「始まるみたいです」


 ポレットの言葉通り、煌びやかな衣装を纏った皇帝陛下と皇后陛下が姿を現した。その後ろから、アル=ファイラの伝統的で豪華な衣装に身を包んだ男性が入ってくる。彼が例の、絵画を買い求めた大富豪だろう。


 大富豪のすぐ後ろには美しい女性が付き添っていた。女性は見慣れたこちらのドレスを着用していたが、顔の下半分を薄紅色のベールで覆っている。


 大会場に集まった大勢の来賓たちが静かに見守るなか、まずは皇帝陛下が挨拶し、そして大富豪も挨拶をした。

 大富豪――ナシーム・シャヒードと名乗った彼の挨拶は異国の言葉で、代理人の女性がさらさらと流れるように通訳している。


 その間、私とポレット、ディアン、それにアステル殿下は、大会場の隅々まで注意深く視線を巡らせていた。


 もしアステル殿下のいうとおり犯行がもう終わってしまっているのだとしたら、偽ブラックスピネルがここにいる必要はない。それとも、犯行の行く末を見定めるために残っているだろうか?


 そんなことを考えていたら、拍手が響いた。いつの間にかナシーム様の挨拶が終わったようだ。

 ポレットが私の腕をツンツンと突いてきた。


「ついにお披露目ですよ」


 彼女の言葉のとおり、皇帝陛下が絵画の布に手を掛けた。

 お願い、無事であって……。心の中で祈りながら、私もじっと見つめる。


 布がゆっくりと取り除かれる――あの穏やかな馬の絵が現れ、会場中が感嘆のため息に包まれるはずだった。


「っ!?」


 一瞬、会場が凍り付く。そして次の瞬間にはざわめきが波のように広がっていった。


「なんだ? どうなってるんだ」「白……?」「絵が……ない?」


 豪華な額縁の中には、あるべき馬の絵はなく、真っ白なキャンバスだけが無情に広がっていた。まるで、神秘の力で絵の具だけを消し去ったかのように――。


 アステル殿下は口元に苦笑を浮かべ、私に囁いた。


 ……やられた!


 大きく脈打つ胸のまま、私はそばにいたポレット、ディアン、アステル殿下と顔を見合わせた。


「ほらね」


 アステル殿下だけが苦笑して肩をすくめていた。


「言ったとおりだろ? ブラックスピネルを名乗るんだったらこれくらいはして当然だよな」


 その口調には余裕さえも感じられ、私は思わず殿下を睨み付ける。


 確かにそうかもしれないけど、そんな言い方ってないんじゃない? ちょっと殿下の良識を疑ってしまうわ。

 って、本物のブラックスピネルに良識を問うても仕方がないような気もするけど。


 一方壇上ではナシーム様の代理人である女性が顔を真っ青にして皇帝陛下に詰め寄っていた。


「あの馬の絵はどこです! 早く出していただけますか!」


 気色ばむ女性代理人の横で、ナシーム様が見るからにおろおろしている。


 そんな彼らとは対照的な、どこか期待に満ちたような皇后陛下の声が聞こえてきた。


「ブラックスピネルよ。ブラックスピネルが予告状通りに盗んだんだわ!」


 その言葉に、城内の人々は一斉にざわめき始めた。


「ブラックスピネル?」「それって確か、ハルツハイムの首飾りを盗んだとかいう怪盗……」「怪盗皇子ブラックスピネルが、絵を、盗んだ?」


 来賓客たちが口々にブラックスピネルの名を呟き緊張していくその向こうで、今にも倒れそうな青い顔の皇帝陛下が絵に手を伸ばすのが見える。


「嘘だろう……ここにあったはずなのだ、ここに……」


「絵に触らないで下さい!」


 ディアンだ。ディアンが止める間もなく人混みを縫って素早くステージに駆け寄っていく。


「余計な匂いがついてはいけません! 触らないで下さい!」


 ディアンが大声で制止すると、周囲のざわめきが一瞬、静まった。

 皇帝陛下も驚いたように手を止めている。その隣に立つヘレーネ皇后陛下が、皇帝陛下の腕を軽く引いて絵から離した。


「ヴァル、ディアンの言うとおりにしたほうがいいわ。彼の鼻の邪魔をしちゃだめ。これは――事件よ」


「事件……!」


 皇帝陛下が悔しそうに声を震わせる。


 その言葉に、会場中から不安げな囁きが漏れる。


「事件?」「じゃあやっぱり」「ブラックスピネルが……!」


 ざわめきのなかステージに上がったディアンは、慎重に白紙のキャンバスを嗅ぎ始めた。

 その表情はいつになく真剣で、会場全体の視線が彼に集中する。空気が張り詰め、誰もが息を呑むように彼の一挙手一投足を見守っている。


 そして、ディアンが低く鋭い声で告げた。


「ここにいる。ブラックスピネルはこの会場にいます!」


 会場は凍り付いたように静まりかえり、その一瞬あと、怒濤のようなざわめきが巻き起こった。


「ブラックスピネルがここにいるだって!?」「まさか変装しているの?」「おっ、俺じゃないぞ「私でもないわよ!」「お前、怪しいんじゃないか」「そういうあなたこそ怪しいではないですか!」「怖いー!」


 貴族たちは疑いの視線を交わしあい、そして恐怖していた。


 もうっ、ディアンったら。いくら緊急事態だからって、こんな時に言葉が強すぎるわよ。

 会場を混乱させてどうするのよ……!





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