第33話 翌朝、事務所のシルヴィアたち

 その夜、私は奇妙な夢を見た。


 黒いマントを纏いシルクハットを深く被った影――いかにもな怪盗が、あの『湖畔の愛』の前に立っている、という夢だ。

 シルクハットの陰になってよく見えなかったが、アステル殿下ではなかったと思う。


 怪盗は、舞台に立つ役者のように大げさに両手を大きく広げて絵画を仰いだ。まるで祝福するかのように微笑んだ口元で、彼は柔らかな声で囁いた。


「美しい絵は、美しい人物が持つべきだ。そうは思わないかね、シルヴィア――」


 そこでハッと眼が覚めた。


 周囲はまだ暗い。

 冷や汗が頬を伝い、手の甲でぬぐい取る。私は意識して息を整えた。

 嫌な夢を見たものだ。


 ――まさか正夢じゃないわよね? ディアンは大丈夫かしら。


 今すぐにでも皇宮へ駆けつけたい衝動に駆られるが、さすがにこんな時間に行くわけにもいかない。


「大丈夫よ。ディアンは強いんだから」


 自分にそう言い聞かせ、掛け布団を引き上げる。


 正直、寝直す気分にはなれなかったけれど、無理矢理にでも目を閉じて、少しでも眠ろうとした。


 私の仕事は、明日の『譲渡の儀』での警備だ。今夜は何があろうとディアンに任せよう。

 ディアンを信じること――それが、白鷲探偵事務所の所長である私にできることだ。


 だが心のざわめきは消えてはくれない。




「所長! おはようございます!」


 翌朝居間に行くと、すでに起きて朝食の用意をしていたポレットが元気よく挨拶してくれた。


「きのうはよく眠れましたか?」


 彼女は朝に相応しい爽やかな笑顔べ、さっそく紅茶を淹れてくれる。ポレットだけではない、朝陽が入り込む応接室が新しい一日が始まる気配に充ち満ちている。

 そのあまりの日常的な風景に、私は緊張を忘れてしまいそうだった。


「そうね、寝ることが仕事だと思って一生懸命寝たわ」


 あくびを噛み殺しながら頷くと、ポレットは軽く笑う。


「そうですよ、所長は正しいです。これもお仕事です」


 彼女は紅茶を差し出してくれたが、湯気のたつカップを見つめても、いつものように穏やかな気分にはなれなかった。

 紅茶を口に運んでみても、いつもの豊かな香りや味わいが感じられない。

 ディアンは無事なのだろうか。偽ブラックスピネルは来たの?


「私たちはディアンを信じるしかないですよ」


 ポレットは小さく囁くように言い笑顔を浮かべたが、彼女の目の奥にも僅かな緊張があった。……ポレットも無理して平静を装っているのだ。


「……どうなってるかしらね、皇宮は」


「今頃、のこのこ現れた怪盗を、ディアンがケンケンガクガクの末ふん縛ってるかもしれないですよ?」


 喧々諤々けんけんがくがくは人々が思い思いの議論を言い合ってまとまらず煩いことをいうのだけれど、まさかディアンが偽ブラックスピネルと口撃しあってディアンが競り勝つ……とでも考えているのかしら、ポレットは? それとも誤用で、単に剣で打ち合いした末に捕まえた、という意味合いで言ったのかしら。


 まあいいか、どちらでも。

 なんにせよこの紅茶を飲んだら、すぐに出発しないと。


 気持ち急いで熱い紅茶を飲み終えた私は、軽くスカートを払いながら早速立ち上がった。


「……朝食はいらないわ。すぐに皇宮に向かいましょう」


「そうですね。もう貸馬車のおっちゃんも起きてる頃でしょうし。ディアンも心配ですしね……怪盗、来てるかな」


 ポレットも心配げに同意してくれる。


 ついこの間この探偵事務所に加わったばかりのディアンが彼女にとっても大切な仲間として認識されている――そう思うと、所長としては胸に熱いものが溢れてくる。


 けれども、身支度をしていたそのとき、来客を告げるドアのベルの音が鳴り響いたのだった。


「はーい!」


 ポレットが迎えに行き、その手に二通の封筒を持って戻ってきた。


「所長、皇宮からの使者の方が手紙を届けてくれました。一通はディアンからです。それから、これはヘレーネ皇后陛下からです」


「見せて」


 ポレットから受け取った封筒を見ると、確かにディアン、ヘレーネ皇后陛下の名が記されていた。


 私は急いでディアンからの手紙を開ける。

 そこには、結局ブラックスピネルは来ず、夜警は何事もなく終わった、と記されていた。


「よかった……」


「どうだったんですか?」


「怪盗は来なかったって」


 私はディアンの手紙をポレットに渡し、再びソファーに身を沈めた。

 ゆったりしながら、心のなかに湧き上がってくる緊張をひしひしと感じる。


 夜間、偽ブラックスピネルは来なかった。

 ということは、やはり犯行は予告状通り『譲渡の儀』の間に行われるのだ。


「わ、ほんとだ。ディアンってば頑張りましたね!」


「なんにせよ、怪我がなくてよかったわ」


 言いながら、私はヘレーネ皇后陛下からの招待状を開いた。


 中には譲渡の儀への招待状と、皇后陛下からの私信が添えられていた。


『当日になって招待状を送ってごめんなさいね、なんだか慌ただしくて』との一筆だった。……まあ、完全に忘れられていなくてよかった。


 それにしても、こんな早朝に使者が手紙を届けてくれるだなんてね……。

 急を要する手紙なら、普通は翡翠鳩を飛ばすものだけど……ポレットが大の鳥嫌いだから気を遣ってくれたのだろう。


 さて。


 今日が、本番である。

 不安と期待が同時に高まっていく。運命が動き出すその瞬間は、すぐそこまで迫っていた。



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