第29話 匂いで追えること

 本格的に話が始まるのを見て、ポレットはキッチンに下がった。

 ――メイドとしては正しい行動だけど、彼女は助手でもあるのだから遠慮せずここにいてもいいのに……。


 そう思いもするけれど、まあポレットのことだからキッチンから聞き耳を立てているかもしれないわね。


 そんなふうに思う私の前で、ヘレーネ皇后陛下は興奮気味に両手をぎゅっと握り、目を輝かせながら言った。


「凄いでしょ? 怪盗がうちの絵を盗みに来るんですって! 私、もうびっくりしちゃって!」


 びっくりしたというわりには、ずいぶん嬉しそうですけどね……。


「それで名探偵に相談ってわけなの。アメトリンとルピナスみたいに宿命のライバル対決よ!」


「……」


 言葉が出ない。


 そりゃ私だって探偵対怪盗なんてイベント、本当ならはしゃぎ倒したいくらいだわ。だって聞いただけでもワクワクするもの! やっぱり怪盗って華があるから探偵のライバル役としては適任よね。


 けど、その怪盗の正体が問題なのよ。

 怪盗はあなたの息子さんなんなのですわ、皇后陛下……。


「ところで、この『譲渡の儀』というのはなんですか?」


「『湖畔の愛』をお渡しする宴のことよ。その場で先様から代金を受け取って、正式にお引き渡しするの」


「では、狙われたのは売却が決まっている絵なのですか」


「そうよ、遠い南の国――アル=ファイラ王国の大富豪がどうしても欲しいって言ってきたの。ヴァルは渋ったんだけど、アドリックの熱意に押されてついに決断を……、あ、アドリックっていうのはディアンのお兄様のことよ」


「まあ……」


 私はディアンを見上げた。彼は「そうです」という代わりにこくんと頷く。


 意外なところで繋がっているものなのねぇ……。


 私の視線を追ってディアンを見た皇后陛下が顔を輝かせた。


「そうそう、私考えてたの! この予告状をディアンくんに嗅いでもらったらどうかって」


「……なるほど」


 頷くふりをしながら、私の心は一瞬で乱れていた。ディアンの鋭い嗅覚で、この予告状の匂いを嗅ぐ――それはなんとしてでも避けたい。

 だって、それでアステル殿下の匂いが付いてる! なんてバレたら大変なことになるもの。


 心臓が不規則に鼓動を打つ。


 私は必死に考えを巡らせた。アステル殿下の匂いを誤魔化す方法は……。

 ……そうだ!


「ところで今までにこの予告状を触った人物は誰ですか、陛下? 誰が触ったか、触っていないかが分からないと、匂いでの特定のしようがありませんわ」


「あ……んー……そうねぇ……」


 と皇后陛下は目を閉じ、何かを思い出すように腕を組んで考え込んだ。

 やがて、細い目が開かれる。


「確かに、不特定多数の人が触っちゃってるわねぇ……。いろんな人に、怪盗から予告状が来たぞ! って自慢したから。そのときに手渡しちゃったのよね」


「となると、アステル殿下にも渡されたのですか?」


「もちろんよ。驚いてたわね、アステル。でも、もっとはしゃぐかと思ったのにそうでもなかったわ」


 と、皇后陛下は残念そうに溜め息をついた。


「あの子って小さい頃は怪盗好きだったから、本物の予告状なんて宝物みたいなものじゃない? なのになんだか意外なほど冷静だったのよね。大人になったってことかしら。なんだか寂しいわねぇ……」


 予告状を見せられたアステル殿下の反応は、皇后陛下の期待とは違ったようだ。ご自分が出した予告状だから、反応に困ったのかしらね?


 でも、なんだか妙ね……。アステル殿下なら、たとえ自分の出した予告状だったとしても、人を欺くために大はしゃぎする演技くらいしそうなものなのに。


 ……とにかく。

 これで匂いからブラックスピネルの正体がバレる心配はなくなった。


 もちろん、これは私の目的に合致している。

 私の目的はブラックスピネルの正体を暴くことではなく、彼の犯行を未然に防ぐことなのだから。


「でもディアンくん、一応匂いを嗅いでもらっていいかしら。せっかくの嗅覚ですもの、こういうときに活躍してもらいたいの」


「いかがいたしましょうか、シルヴィア所長」


 ……ここで反対するのはおかしいわよね。そう思った私は冷静さを装って頷いた。


「いいんじゃない? お願いできるかしら」


「かしこまりました」


 そしてカードと封筒を受け取った彼は、鼻を近づけて、目を閉じてくんくんと匂いを嗅ぎはじめる。

 彼の女の子みたいな顔から何か読み取れるかとと思って、じっと横顔を見守る。

 ……微かな匂いのなかに何かを探し求めるかのように、彼の表情は真剣そのものだ。


 途中、彼の形のいい眉が少しだけ寄せられるのに、私は緊張した。


 心臓がドキドキと鳴り響く。――大丈夫。大丈夫よ、大丈夫。アステル殿下の匂いが付いていたとしても、それは当然なことだもの。見破られたとしても何もおかしくないのよ。


 そして、数秒の沈黙のあと。

 たっぷり匂いを嗅いだディアンは、顔を上げて口を開いた。


「沢山の人の匂いがします。そのなかでも一番ハッキリしているのは、ヘレーネ皇后陛下ですが」


「その他には? 嗅いだことのない匂いとかない?」


 皇后陛下の問いに、しかしディアンはゆっくりと首を振る。


「覚えのない人の匂いばかりで……。これだ、という特定はできません」


「うーん、そのうちのどれかが怪盗の匂いなんでしょうけどねぇ。失敗したわ、予告状の扱いはもっと慎重にするべきだった」


 皇后陛下は腕を組んで悔やんでいるが、私はようやく肩の力を抜いていた。

 アステル殿下の話題は出なかった。匂いで殿下にたどり着くことはできないんだわ。


 ディアンが冷静に皇后陛下に嗅ぎ向かってフォローする。


「……差し出がましいようですが、匂いでたどれない、という事実が判明しただけでも事態は進展したと思います。匂いではない別の手掛かりを探せばいいのですし」


「そうね……」


 その言葉に促され、私はカードをもう一度よく見ていた。

 極端に崩した文字が、絵画の盗難を予告している。

 これをアステル殿下が出したのね……。自分で自分の家の美術品を盗むだなんて、まったく何を考えてるのかしら。


 だが――。


 安堵感も束の間に、私の心に引っかかりが生じた。


 ……あれ? なんだか、ちょっと……、これ、変じゃない?


 私の様子に気づいた皇后陛下が首を傾げた。


「どうかされましたの、シルヴィアちゃん?」


「この字……」


 呟きながら、カードだけではなく封筒も見てみる。

 ――あ、やっぱりそうだわ。


「右下がりになっていますわ」


「あら、そう? ちょっと貸して下さる?」


 私からカードを受け取ると、皇后陛下はカードと封筒を並べてテーブルの上に置いた。テーブルの端とピッタリ平行になるようにだ。

 しげしげとそれを見つめてから、彼女も首を傾げた。


「確かに右下がりだわね。でも、それが何か?」


「右下がりの文字を書くのは、左利きに多い特徴なんです」


 ――そして。アステル殿下は、右利きだ。


 もちろん、全ての左利きの人が右下がりに文字を書くわけでもないし、アステル殿下に右下がりの文字を書く癖があるのかもしれないけど……。


 途端、皇后陛下は顔をパアッと輝かせる。


「じゃあブラックスピネルは左利きってことなのね? すごいわ、シルヴィアちゃん! さっすが名探偵!」


「いえ、まだ決まったわけではありません」


 まだ疑わしいっていうだけで、決定したわけではない。


 でも、予告状をヘレーネ皇后陛下から見せられたときのアステル殿下の反応、左利きの特徴が見られる文字、凝り性で派手好きなアステル殿下らしくないシンプルな作り――。


 もしかしたら。

 この予告状を出したのは、アステル殿下ではないのかもしれない。


 つまり、偽のブラックスピネルがいるということよ……!


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