61 遠ざかる背中

 素性は明かせない、病気の女性。

 HPCに高い関心を持ち、いつか会えるのを楽しみにしている。

 今回を逃せば、次の機会はないかも知れない。


 わからない。


 大稚はなぜ、その女性の望みを叶えようと、必至になっているのだろう。

 リスクも、承知のうえで。

 もちろん、重い病気に苦しむ人を、励ましたい気持ちはわかる。相手が親しい人なら、なおさらだろう。

 だけど彼の姿勢は、そういうことだけでは説明がつかない。


 中学生の男子と、大人の女性。二人は、一体どういう間柄なのだろうか。


「…申し訳ないけど、やっぱり無理だわ。リスクが大き過ぎるもの。私はまだ中学生だし、もしトラブルが起きれば、福島の元フォスターペアレンツにまで迷惑が掛かってしまう。彼らが罰を受ける事態にでもなれば、合わせる顔がなくなるわ。楢野君にとってその女性が大切なように、私にとっても、彼らは大切な人たちだから」


 心苦しくはあるが、首を横に振る。やはり事情がどうであれ、リスクは負えない。


 頭を下げると、大稚は目に見えて落胆した。大きな失望の色が、瞳を覆う。

 さすがに返す言葉もないようで、しばらくの間、呆然と立ち尽くす。


「そう…だよね」


 諦めがついたのか、ほどなくして首を垂れると、全身の力が抜けたようにソファへお尻を落とす。背中を背凭れにあずけ、上を向き、無念そうに天井を仰ぐ。


「…ゴメンなさい。お役に立てなくて」

「いや…、いいんだ。僕の方こそ、困らせてしまってゴメン。やっぱり、無茶なお願いだったよね。小園は、断って当然だよ。気にしないで」


 体勢を戻すと、リビングテーブルの上へ目を向ける。そこではまだ、電子フォトフレームが、スライドショーを展開している。


「それじゃあ、その代わりと言っては何だけど、もしよければ、この写真のデータをコピーさせてもらってもいいかな」


 身を乗り出し、写真を一枚一枚、確認するように眺める。

 わずかに口元が緩んだのは、ソフトクリームを片手に、青空の下で満面の笑みを浮かべる単独写真が、映し出された時だった。


「もちろん。ここにはたくさんのHPCが写っているから、その女性も喜んでくれるんじゃないかしら。それじゃあ後で、クラウドへのアクセス許可を送るわね」

「助かるよ」


 わずかながらの収穫を得ると、ぎこちなく微笑む。

 そのまま木製の器へ手を伸ばし、クッキーを一枚手に取って、口の中へ放り入れる。ゆっくり味わうように、口をモグモグ動かす。

 食べ終えると、器と一緒に添えられていたナプキンで、指先を拭く。


「この手作りクッキーも、美味しいね。口に入れると崩れる感じで、すごく食べやすいよ」

「これは先日、HPCコミュニティのみんなで、作ったものよ。年末のご挨拶に、地域の高齢者の方々へ配ったの」

「そっか。ごちそうさま。それじゃあ、僕はそろそろお暇するよ」


 寂しそうに言い、ソファから腰を上げる。


「…そう。それじゃあ、そこまで送るわね」


 やはりまだ、諦め切れない気持ちがあるみたいだ。

 動作や声のトーンから、それがひしひし伝わって来る。


 顔に出さないよう努めているのは、周囲に関心を向ける余裕がないところからも、明らかだろう。

 リビングを出た後、大稚は室内の光景が一瞬で消え去る瞬間を、確認しようとしなかった。そんなHPC以外の友人は、初めてである。ドア枠のセンサーを超えた瞬間出現した、玄関の観葉植物などにも、関心を示してない。


 ハイテクに慣れたのか、もうどうでもいいのか、重い足取りで、真っ直ぐ靴の場所へ向かう。


「お邪魔しました」


 再び姿を現した母からコートを受け取ると、軽く頭を下げる。


「また、遊びにいらしてね」


 にっこり微笑むHPにも、もはや関心はないよう。ヒューマノイドであることすら、忘れているかも知れない。


 二人で一緒に玄関を出て、階段を下りる。


「寒いし、もうここまででいいよ。ありがとう。それじゃあ、また来年。よいお年を」

「楢野君も、よいお年を」


 階段下まで降りたところで、別れる。


 雨からまた雪に変わった空の下、大稚はフードも被らず、とぼとぼ歩き始める。丸まった背中に一つ、また一つと雪がつき、そして消える。紺色のダッフルコートが、徐々に湿り気を帯びて行く。


 遠ざかる、背中。


 ひょっとすると大稚が今日ここへ来た目的は、HPファミリーの自宅や生活環境を、目で見て確かめることだったのではないだろうか。

 背中を見ていると、ふとそう思えた。

 年明けに札幌で会う予定となっている、病気の知人女性へ報告するために。


 たぶん母親がお礼をしたいというのは、思いつきで言ったのだろう。急遽手土産を買わないといけなくなり、到着が遅れたのはそのため。


 だとすると…。

〈会いたい〉

 あのメッセージの意味は…。


「楢野君」


 呼び止めたのはちょうど、角を曲がる直前だった。

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