35 本間啓祐(4)娘
楢野婦人は、長年遺伝子研究に携わっておられた。親子は後ろ姿を見ただけでもわかるというのは、あながち過言でもないのだろう。今なおその慧眼が健在だとすれば、あの少女が娘である可能性は、かなり高いのではと思える。
まさか己の精子が選出されていたという事実は、にわかに信じ難いが、可能性としてゼロではない。
もちろん確かめようはないし、仮に何らかの巡り合わせで判明したとしても、父親だと名乗り出ることは許されていない。ドナー協力の際に、そういった規約の同意書にサインをしている。好奇心による調査や、探索も禁止。違反すれば、たしか罰則もあったハズだ。罰金のほか、接近禁止命令、悪質な場合は懲役刑もあったか。
HPプロジェクトは、生身の人間を将来の人材、嫌な言い方をすれば奴隷として育成する、国家プロジェクト。一歩間違えれば、国際社会から袋叩きに合いかねない、リスクを負った政策だ。人々の目に非人道的と映ることだけは、絶対に避けなければならない。政府がHPCの保護に神経を尖らせるも、当然のことと言える。
いや、HPプロジェクトの管理に、という方が正しいだろうか。
何にせよ、父親としてできることは何もない。あるとすれば、本人が幸せな人生を送れるよう、陰ながら見守ってあげることくらいだろう。
もちろん、父親だったらと、仮定してのことだが…。
…それにしても。
一旦妻のいる寝室へ目を向けてから、手に持つ焼酎のグラスへ視線を移す。
母親は、どんな人物だろうか。
底が見える焼酎のグラスを無意識に何度も傾けながら、ふと思った。
ドナーになった時期が同じだから、おそらく同年代。
あの子は目がパッチリして鼻筋の通った、透明感のあるキレイな顔立ちをしている。顔は間違いなく、母親似だろう。息子の太郎は父親の遺伝子が強いとよく言われるが、性別を抜きにしても、二人の顔が似通っているようには見えない。
きっと母親は、美人さんだろうな。
今どこに住んで、何をされているのか。さまざまな興味が沸く。
こんなことを考えていると妻に知られたら、きっと怒られるに違いない。
「あ…」
そう言えば…。
空になったグラスをリビングテーブルに置いた時、ふと先日破ってクズかごに捨てた、一通のダイレクトメールの件を思い出した。
グラスをキッチンシンクへ運ぶついでに、クズかごの中を覗く。幸いまだ、底の方に残ったまま。
先日はたいして中身も確認せず破って捨てたが、今日の話と何か関連があるなら、無視もできない。
クズかごから紙切れを取り出し、テーブル上で、可能な限りつなぎ合わせる。二度ほど裂いた程度だったので、文字は十分に読める。これは『ひだまり』の百合子さんが受け取ったものと同じで、間違いないだろう。
宛名には「HPファミリー・ドナーバンク協力者様」、差出人欄には「HPファミリー・ドナーバンク調査委員会」と書かれてある。シンプルだが、聞いたことのない団体名。政府機関でないのだけはたしかだが、一体何者だろうか。
アンケート用紙は、A4サイズが一枚。他に、返信用封筒が入っている。QRコードへアクセスすれば、オンラインでの回答も可能と書かれてある。
一見すると、ドナー協力者を対象とした、民間のアンケート調査。
しかしダイレクトメールによるランダムな発送や、『回答者の中から抽選で十名様に、一万円分の電子マネーを贈呈』などとある辺りが、何とも胡散臭い。おそらく抽選参加の際に、連絡先の記入が求められるのだろう。みえみえだ。
HPプロジェクト絡みの調査は、検閲が厳しいため、あえてアナログ形式を採用したと推測できる。
ザっと見たところ、ドナーになった時の年齢や場所など、政府系サイトをチェックすれば正確な数字がわかる、ごくありきたりな質問内容が並んでいる。
問題と言えるのは、この最後の質問くらいか。
(これまでに、未成年のHPCによる尊厳死に、承諾を求められた経験はあるか。ある場合、それはいつだったか。)
目にしただけで、胸糞悪い。
この団体ははたして、マスコミか、人権団体か。
スマホを手に取り、検索してみる。どうやら、同委員会の公式サイトは存在していない。
そうなると、芸能人の子の話からして、差出人はマスコミ関係者である可能性が高いように思える。
マスコミ関係者にそんな資金があるのか疑問なので、断言はできないが…。
「まったく。この世の中で、一体何が起きているんだ」
思わず口から、一言ついて出る。ほろ酔い気分も相まって、途端に腹立たしさが増す。
何にせよ、このような調査には、一切協力できない。万一連中が無責任に騒ぎ立て、いたいけなHPCの子供たちを傷つけるようなことがあれば、絶対に許さない。
再度アンケート用紙をビリビリに引き裂き、クズかごへ捨てる。
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