天使の住み処ー私、奴隷ですが、幸せですー

キジトラタマ

一 出会い

プロローグ

 少年は尻もちをつきながら、目を丸め、口をポカンと開けている。唇をわなわな震わせ、所在なげに浮かせた右手を、硬直させている。

 その姿はまるで、亡霊でも目にしているかのようである。


 ―――何だろう?


  けれど、ほんのわずかな時間だったので、もしかしたら気のせいかも知れない。


「ゴメンなさい。大丈夫ですか?」

「こちらこそ、ゴメン。引っ越して来たばかりで、まだ土地勘とちかんがないから、よそ見をしていて……」


 急に前へ飛び出して来たので、驚いた。咄嗟とっさに掛けたブレーキのおかげで衝突はしなかったけど、彼は尻もちをついてしまっている。


「ケガは、ないですか?」


 声を掛けながら、倒れた自分の自転車を起こす。転倒の衝撃で、前カゴが少しゆがんでしまっている。


「僕は平気だよ。自転車には、ぶつかっていないからね。君の方は?」

「私も、何とも」


 自転車が倒れる直前、うまい具合に降りられたので、ケガはない。


 少年は立ち上がると、両手でパンパンと、ズボンのお尻を叩く。

 この辺りでは見かけない、学校の制服。引っ越して来たばかりということは、転校生だろうか。


「君にケガがなくて、よかったよ。突然飛び出してしまって、ゴメン。……君は…、この辺りに住んでいるのかな」

「え…ええ。すぐ、そこだけど」

「中学生? もしかして、なぎさ中学校の生徒?」


 少年は乱れた制服を整えると、興奮気味に、矢継ぎ早やの質問を繰り出した。


「……いいえ。私は隣の学区の、さくら中学校よ。2年の、小園こぞのアイリです。この辺りはちょうど学区の境目で、そこの踏切を渡った向こう側が、なぎさ中学校区」


 指で、場所を示す。

 鉄道の線路を挟んでこちら側がさくら中学校区、向こう側がなぎさ中学校区だ。


「中2……。そっか。僕は、楢野大稚ならのだいち。僕も君と同じ中2で、来週からなぎさ中学校へ通うんだ」


 ……へえ。

 同い年――、か。


「そう。それじゃあ、学校は違うけど、この辺りに住んでいるのならまた会うかも知れないし、よろしくね。楢野ならの君」

「うん。よろしく。小園こぞのさん」


 大稚だいちは無邪気に白い歯を見せると、右手を前へ差し出した。出された手を無視するわけには行かないので、その手を軽く握る。

 すると、ギュッと強く握り返された。男の子らしい握力。



 ――――けど……、その握力とは裏腹に、表情は柔らかい。自然に上がった両側の口角に、好感の持てる、爽やかな笑顔。

 誠実そうな、振る舞い。

 身長も、高い。……は、あまり関係ないけど。


 ちょっと、カッコいい……かも…、なんて。


 つい見惚みとれてしまうも、すぐに頭を振る。



 ――――ただ……。


 どこかういを帯びた眼差しをしているのだけが、少し気に掛かった。



「あ、自転車のカゴが、壊れてしまったね。本当にゴメン」

「問題ないわ。ちょっとゆがんだだけだから、気にしないで」


 ――――それに……。


「あの、小園さん。ところで…」


 気のせいか、やけにいろいろなところを、見られている気がする。別にいやらしい感じではないけども、彼の視線が全身をうのがわかる。


 珍しい生き物でも、観察するような……。

 何だろうか。

 まさか、女の子が珍しいわけでは、ないよねえ?


 頭の中に、疑問が湧いた。


 ある意味、見られるのは一応…、慣れてはいるけども……。



 大稚は前カゴの歪んだ部分に手を掛けると、今度はどこか意味ありげに、上目づかいでこちらを見た。


 キリリとした眼差しに、一瞬胸がドキッとする。


「あの……、小園さん」

「何…かしら」

「僕の名前の大稚だいちっていうのは、大きいの『大』に、稚内わっかないの上の『稚』という字を書くんだけど。――あ、稚内わっかないってわかるかな。北海道の地名で」

「知っているわ」

「…それで……、小園あいりさんの、あいりっていう名前は、どういう字を…書くのかな……て」

「……なんで?」


 その質問が耳に入った瞬間、背筋に緊張が走る。


「……あ、……いや…」


 不快感を示すと、大稚はハッとした表情を浮かべ、すぐさま態度を改めた。


「いや、いいんだ。変なことを訊いてしまって、ゴメン。不躾ぶしつけだったね。深い意味は、なかったんだ。――あ、迷惑をかけてしまったお詫びに、僕が小園さんの自転車を押すよ。家、近いんだよね」


 そう言うと、大稚は断る間もなくハンドルを奪う。


「い…いえ、いいです。どうもありがとう」


 すぐに奪い返し、自転車にまたがる。


「それじゃあ、またね」

「あ……」


 顔も見ずに挨拶してから、急いでペダルをこいだ。



 ……一体、何だったんだろう。




 ―――……変な人。



 角を曲がるまでずっと、楢野大稚ならのだいちの視線が背中に感じられた。

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