天使の住み処
キジトラタマ
プロローグ
少年は尻もちをつきながら、目を丸め、口をポカンと開けている。唇をわなわな震わせ、宙に浮かせた右手を硬直させている。まるで、亡霊でも目にしたかのような有様。
けれど、ほんのわずかな時間だったので、もしかしたら気のせいかも知れない。
「ゴメンなさい。大丈夫ですか」
「こちらこそ、ゴメン。引っ越して来たばかりで、まだ土地勘がないから、よそ見をしていて」
急に前へ飛び出して来たので、驚いた。咄嗟に掛けたブレーキのおかげで、衝突しなかったのだけが幸いだ。
「ケガは、ないですか」
倒れた自転車を起こす。転倒の衝撃で、前カゴは少し歪んでしまっている。
「大丈夫。ぶつかってはいないから。君の方は」
「私は何とも」
自転車が倒れる直前、うまい具合に降りられたのでケガはない。
少年は立ち上がると、両手でパンパン、ズボンのお尻を叩く。見慣れない学校の制服。引っ越して来たばかりということは、転校生だろうか。
「ケガがなくて、よかったよ。君は、この辺りに住んでいるの」
「ええ。すぐ、そこだけど」
「中学生?もしかして、なぎさ中学校の生徒かな」
興奮気味に、矢継ぎ早の質問。
「いいえ。私は隣の学区の、さくら中学校よ。二年の、小園(こぞの)アイリです。この辺りはちょうど学区の境目で、そこの踏切を渡った向こう側が、なぎさ中学校区」
指で場所を示す。鉄道の線路を挟んでこちら側がさくら中学校区、向こう側がなぎさ中学校区。
「中二…そっか。僕は、楢野大稚(ならのだいち)。僕も中二で、来週からなぎさ中学校に通うんだ」
同い年。
「そう。それじゃあ、学校は違うけど、この辺りに住んでいるのならまた会うかも知れないし、よろしくね」
「よろしく」
右手を前に差し出された。軽く握ると、ギュッと握り返された。男子らしい握力。けれどそれとは裏腹に、表情は柔らかい。自然に上がった両側の口角。好感の持てる、爽やかな笑顔。
ただ、どこか憂を帯びた眼差しをしている。
これも、気のせいだろうか。
「あ、自転車、カゴが壊れてしまったね。本当にゴメン」
「大丈夫。ちょっと歪んだだけだから、気にしないで」
あと…。
「あの、小園さん。ところで…」
やけにいろいろなところを、見られている気がする。視線が全身を這うのがわかる。一応、慣れてはいるけれど。
前カゴの歪んだ部分に手を掛け、意味ありげに上目遣い。
「何…かしら」
「あの、僕の名前の大稚は、大きいの『大』に稚内の上の『稚』という字を書くんだけど。あ、稚内ってわかるかな。北海道の地名で」
「知っているわ」
「それで…、小園あいりさんの、あいりっていう名前は、どういう字を書くの」
「…何で」
不快感を示すと、ハッとした表情を浮かべ、すぐさま態度を改めた。
「いや、いいんだ。変なことを訊いてゴメン。あ、迷惑をかけてしまったお詫びに、僕が小園さんの自転車を押すよ。家、近いんだよね」
断る間もなく、ハンドルを奪う。
「いえ、いいです。ありがとう、それじゃあ、またね」
すぐに奪い返し、跨って、ペダルをこぐ。
変な人。
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