六 - 1 骨喰
赤茶けた草原の中、朝日で黒く輝く一帯がある。なんとなく褐色の柔肌と陰毛を連想させる、枯れ草と溜まり水の黒。ようやく黒池に到着だ。
塵芥の荒野を抜け、ここに至るまで四日。王禿達はまだ追いついて来なかったが、さほどの問題もなく旅を続けられている。途中二度塚が鳴いたのと、こちらの渡し場でも水と食料代をぼられた程度のことだ。
黒池は懐かしくなるほど黒かった。浅瀬ですら底が見えず、まるで墨汁を溜めたみたいに、ただただどんよりと黒かった。
要一が池の畔に屈み込み、水を掬い取ろうとする。その肩を掴んで首を振った。
「やめとけ。飲めるわけがないだろ」
池の水からは腐った生ゴミと糞便を混ぜたような臭気がぷんと立ち上っている。慣れた俺ですら、胃がひくひくするような臭いなのだが、要一は眉一つ動かさなかった。
池をぐるりと回り込む。溜まりへ流れ込む、川とも呼べないほどの水の流れに沿って歩く。土手には膝下くらいの枯れ草が延々と生い茂っている。その外側には枯れ木の林。どれも痩せて捻じくれていて、材木にすらなりそうにない。
真っ直ぐ池へ流れる漆黒の流れ。灰色の空と赤褐色の原、それを両断する黒。
これらが交わる一点に、やがて全てを吸い込む黒い染みが現れる。
「見ろ。あれが
要一はただ指差す先を見つめるだけだった。いつもと変わらない無表情には、何の感慨も感じられなかった。骨喰はただの通過点だと思っているからなのか、それとも感動が顔に出ていないだけなのか。俺には読み取ることができなかった。
川上の黒い染みが大きくなってくるにつれ、白瓜への思いも大きく膨らんでいった。
互いをよく知る女と話がしたいという欲求は、いつからか共に身を横たえ心身の疲れを溶かし合いたいという渇望に達していた。土手の下から立ち上る下水の臭いがうんと強くなった頃には、ようやく重荷を下ろせるという気持ちよりも白瓜の顔の方が大きく膨らんでいた。
「ここには骨喰で垂れ流した汚水が混じってる。これが臭ってくると少し懐かしい気持ちになるんだ」川から少し距離を置いて要一に話かける。「お前もじきに分かるようになる」
何の反応もないまま歩き続ける要一に、俺は少し恥ずかしくなった。頭を埋め尽くす白瓜への欲望を見透かされたような気持ちがした。それを誤魔化そうと、思いつく限りの骨喰の話をし続けた。
「骨喰ってのは円形をした町でな。いや、町ったって建物の古さや汚さ、今にもぶっ壊れそうな度合いでいやあ、他の村とさほどの差はねえ。ちょっとばかしでけえがな。
町の周りは出鱈目に積み上げられた廃材の山が守っててよ。出入りが出来るのはただ二つの門だけだ。そいつを通り抜けて一歩中に踏み入ったら、まず出迎えるのはつんと鼻を突く酒とゲロの臭いだ。後を追って飯屋から、獣や化け物の肉を煮たり焼いたりした香りがおっかぶさってくる。それからほんの微かに女の匂いもな。
わかるか。骨喰は唯一、店らしい店が並ぶ町なんだ。少なくとも、俺の見聞きした範囲じゃあ、ここ以外にそんな場所はねえ。
狒々の目を盗んで集められてきた猿酒やら、なんだかわかんねえ化け物の肉やら、他にも骨銭一枚にでもなりそうなもんならとにかくなんだって、まるで吸い寄せられてくるみたいに骨喰に集まるんだ。もちろん、人もな。
他所のくたばりかけた宿場とは賑わい具合が全然違う。そうだな、例えば往来を行き交うのは――勢いよく転がる車輪入道。捕らえた化け物の皮や油を売り歩く
頭に浮かぶ懐かしい情景をそのまま話して聞かせる。
骨喰には、外側、中程、内側に、同心円を描く三本の環状通りがあり、その両脇には様々な店が所狭しと並んでいる。どれも今にも倒壊しそうなぼろ小屋ばっかりだが、街の中心に近いほど昔から続く店が暖簾を出していて、反対に外側には安くていい加減な店がボロ小屋やら空き地に
「例えば一番有名なのは
向かい合う門から門までは目抜き通りが走っている。その真ん中、つまり町の中央には
元々骨喰とは、気の遠くなるほど昔、この赤舌という化け物を馬鹿みたいな犠牲を払って封じたことから始まったらしい。
切断した首は深く深く掘った穴へと落とされた。肉と内臓は一欠片も残すことなく食らい、皮は衣服に。骨は加工され、建材や武器、そして骨銭になった。
赤舌を征伐したときの生き残りが赤舌の復活を恐れ、見張りを絶やさぬようにと穴の周りに住み始めた。それが月日を経て町になった。
「もうそんな化け物のことなんか誰も知らねえけどな。いまだに崇めてる間抜けもいる。
要一は黙って頷くだけだったが、なんとなく喜んでいるような気がして、更にあれこれと話をしてやった。
土手には俺の声だけが響いている。隣で紺のほっかむりがとぼとぼ揺れている。
少しずつ川岸に、全裸に近い格好をした人間がぽつりぽつりと佇むようになった。そのそばには小屋とも呼べない歪んだ木切れの山がある。歪んだ木々で建てた骸人の家だ。
やがて骨喰を囲う廃材の山が大きく迫り、それらを濡れ髪のように覆う有毒植物が目立つようになると、歪んだ小屋は数を増していく。
川は骨喰の手前で緩やかに曲がり、歪んだ家の集まり――ドブ街を抜けて骨喰の下水溝へと通じる。俺達は川べりを離れ、門へと向かった。
骨喰の外壁を更に囲うように骸人の歪な家は並ぶ。骨組みだけのような格好をしているが、実際に暮らしているのはその下の穴蔵の中だ。
まだ日があるということもあってか、ドブ街では腹ばかり出た痩せぎすの骸人たちが湯気みたいに立っていた。どいつも体のどこか一部を真っ赤な皮布で覆っている。どういうわけだか、こいつらは〈変異〉を人に見られるのを嫌うらしい。
ふと、そのうちの一人、赤い頭巾を被った者がふらふらと寄ってきて、要一に何か差し出した。開いた手のひらには、焼かれた肉のかけらのようなものがある。
「もらっとけ」こころなしか俺に身を寄せてくる要一に小声で伝える。「見た目ほどおっかねえ連中じゃねえからよ」
要一がそれを受け取ると、骸人は満足したのかゆっくりと何処かへ歩いていく。
「弱い者を助けてやるのが好きなお人好しどもだ。ほとんど害はねえよ」
――骨銭が関わらなければの話だがな。
襤褸の外から懐の銭袋をそっと抱き寄せる。
骸人はどういうわけか異常なまでに骨銭に執着する。
驚くほどの安値でも重労働をすると聞くが、その分、支払いには厳しいらしい。約束した金を払わなかったせいでなぶり殺しにされた商人を見たことだってあるし、似たような話もたまに聞く。
酒を飲むでも女を買うでもないのに、何にそんなに銭が必要なのかと思っていたら、噂によれば奴らもっととんでもないものを買おうとしていたらしい。さすがにそれを聞いたときには腹が千切れるほど笑っちまった。
思い出そうとするだけで頬がひくつくのを我慢できない。骸人を刺激しないよう、できるだけそれを思い出さないよう努力しつつ、門だけをみて歩き続ける。
ふいに、骸人にまぎれ、目の前を横切ろうとする男が目に留まった。片方目玉の潰れたその顔が記憶のものとぴたり符合する。途端に動悸が早くなる。忘れようのない顔だった。
男の方は俺に気づく様子もなく、うつろな目で木切れを拾っては小脇にまとめている。鼠によく似た髭面も、背の皮肉が変容した大きな袋も、昔のままだった。
奴隷商人の
焼け付くような首の痛みに手をやると、荒縄のこすれる感触があった。太い腕が縄の一端を握り、ぐん、と引っ張り上げる。小さな体では抗うことすらできず、引きずられ――
一歩踏み出し我に返った。
腕も荒縄も消えていた。じっと見上げる要一と目が合った。
知らず知らずのうちに息が荒くなっていた。手が喉元を這い、ありもしない痛みを探す。
垢袋が足を止めてこちらを見ていた。俺は出来る限り自然に首から手を離し、何事も無かったふりをして歩き始めた。
よく見ろ。あれだけ大きく感じた体も、今見りゃむしろ小さなもんじゃねえか。その上、背骨は曲がってるし、腕もすっかり痩せ衰えてる。大丈夫だ。何も怖くない――
そう自分に言い聞かせるが、呼吸は全く落ち着かない。
黙って見つめ返す垢袋の瞳の奥に、記憶の光が収束していくのを見た気がして、思わず目をそらした。頼みもしないのに十年以上も昔の記憶が次々と蘇り始め、顔中から脂汗が垂れてくる。
垢袋の脇を足早に通り抜け、振り切るように門へと向かった。幸いなことに、門に着く頃には、動悸も脂汗も治まってきていた。
見上げるほどの瓦礫の山に挟まれる格好で門はあった。門といっても扉があるわけではない。巨大な四角い岩が入り口を塞いでいるだけだ。その前には、以前と変わらず鉄杖を握った
九条は相当に背の高い男だった。あの熊雪と比べたってずっとでかい。上背のある分痩せて見えるが、近くに立てば皮膚が裂けそうなほど張り詰めた筋肉に気づく。
閉ざした
「おうい、久しぶりだなあ」
足元から見上げて声をかける。顔を殆ど真上に向けなければならなかった。
九条がかがみ込む。それでもまだ、見上げなければならないほどだった。夕日のように朱い肌。風もないのに翻った長髪が炎のように舞った。
「よう。元気そうだな」
九条がくしゃりと笑った。
「まあ、悪かねえな。お前も随分元気そうじゃねえか。それ、また大きくなったろう。前より随分男前になったじゃねえか」
俺が自分の額を人差し指で叩くと、九条は崩れた顔貌をさらに崩して大きく笑った。
九条の左の額からは上に湾曲した太い角が生えている。角は顔面の肉を引っ張りながら伸びていくらしく、目も鼻も唇もそれに引き摺られて釣り上がっている。
「仕方がないさ。大太羅様が叫ぶんだからな。角から力が貰える分、どうしたってこうなっちまう。よく見えるようになる代わりに気色悪い目ン玉が増えちまうのとおんなじだ」
「よく見えるようにはなりゃしねえけどな」
「ああ、そうだったな」
毎度のやり取りにまた九条が笑う。俺もつられて少し笑った。
「それより、六鶴とかいう偉い坊さんが荒くれどもを集めてるだろ。それがどこだか知らないか」
「なんだ、また悪巧みか?」
「いいや、今度のは真剣さ」
九条は首を傾げて見下ろしていたかと思うと、何やら訳知ったような顔で笑った。
「あの偉そうな坊主のことなら、多分広場だろうな。ここ何日かで相当な人数の無頼どもが集まってたらしいぞ。なんだかよく知らんが、金の払いがいいんだろ?」
「らしいな。とりあえず向かってみることにするよ」
「そりゃいいが、いまどうなってるかまではわからんぞ」九条が首を鳴らす。「この間のあれで集まってた連中の半分くらいが崩れた建物の下敷きになっちまったそうでな……」
「ん。あれってのはなんのことだ」
「知らなかったのか。もうしばらく経つんだがな。いつだったかの叫び声の時、赤舌が穴の底でえらく暴れてな。そりゃ激しいもんだった。地べたを揺するくらいのな。そのせいで、多くの建物が倒壊した。骨喰はもうめためただ。中心部は特にな」
一瞬にして顔から血の気が失せていく。
「おい、待てよ。それじゃ、あいつは――」
「落ち着け。白瓜なら大丈夫だ」九条がでかい手のひらを俺に向ける。「俺はこの通り動けんが、噂には何度か聞いている。きちんと生きているはずだ」
そうか、と安堵の息を吐き漏らし視線が落ちる寸前、九条の瞳が泳いだ気がした。
「それで、その坊主がどうしたんだ。まさか傭兵に鞍替えするつもりじゃないよな」
「まさか。その傭兵たちが守るってのがこのチビなんだよ」
「へえ。いや、でも、それは……」九条は要一を見下ろして、少し首をかしげた。それから、合点がいったように俺の目を見て何度か頷く。「――そうかそうか。そいつはおもしろい。一体どこで拾ってきたんだ」
「また今度聞かせてやるよ。話せば長くなるからな」
気が急いていた。なるたけ早く白瓜の安否を確認したかった。
俺が入れてくれと頼むと九条は少し名残惜しそうな顔をした。また今度という約束を俺が一度も果たしたことがないからだろう。それでも、引き止めようとはしなかった。
見上げるような岩の足元まで歩むと、九条は石の根を鉄杖で払うようにして叩いた。
一拍置いて、巨人が腹を下すような音が轟いた。続いてがりがりと岩がこすれ合う音がしたかと思うと、眼の前の巨大な岩がゆっくりと持ち上がった。岩の両端、下部からは岩でできた二本の柱が突き立ち、伸びていく。
そうして俺たちが通るのに十分な隙間が空くと、岩は動きを止めた。
「門の代わりをしている化け物だ。皆は
要一に説明しながらその間を通り抜ける時、牛鬼を連れた王禿という男が来たら通してやってくれと九条に伝えた。牛鬼と聞いて、九条は本気なのか冗談なのか判断がつかない様子だったが、もう一度念を押すと分かったと鉄杖を持ち上げ応えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます