五 - 4 牛鬼
「いやあそれにしてもお前さんよ。俺達と同行できて安心だろうが、そうだろう」
早くも赤ら顔の王禿がにやにや言った。松鉄も頷き唸る。
「確かにその通りだ!」隣で要一が煩そうに身を逸らす。「まだ何も起きちゃあいないが、二人共いるだけで頼りになる! いやあ、流石護衛を買って出るだけのことはある。俺が上人様なら報酬は倍、いや三倍は出すだろうな!」
ぐいのみを高く突き上げた拍子に体勢が少しばかり崩れ、松鉄に寄りかかった。そっと受け止める松鉄に、すまんすまん、と頭を下げる。
「そうだろう、そうだろうとも」
王禿は大きく何度も頷いた。俺が酒を一息に呷るのを大きな目玉で見ている。
「何も起きちゃいないって言うけどよ。そりゃ俺達がいるから襲ってこれねえってのもあるんだぜ。近頃この辺りで行方知れずになる旅人の話は聞いただろう。船頭の話によりゃ、持ち物まで綺麗さっぱり消えちまうらしくてな。――俺が思うにだが、ありゃどうも火葬どもの仕業じゃなさそうだぜ」
王禿が松鉄の肩に跳びつき、俺の耳元に囁く。
「どういうことだ」
「わっかんねえかなあ。人攫いだ、人攫い。骨喰じゃあ人間、特に餓鬼は良い値で売れるからなあ。だが安心してくれ。俺と松鉄さえいれば人攫いだろうが盗賊だろうが近付こうとも思わねえだろう」
王禿がゲラゲラ笑いながら床に転がり落ちる。俺はどうにか苦笑いを返した。
鼻っ面をぶん殴られたような気分だった。疑いの渦中にいる王禿自身が人攫いなんて言葉を口にしたことへの驚きもあった。だがそんなことなど気にならなくなるくらい、不意打ちのようにやってきた記憶の断片が俺の頭の中をめためたにしていった。
「はあい、おまちどう」女が野草と木の実を乗せた小皿と、拳骨ほどの肉の塊を持ってくる。「四人ならそれで十分よね。もう少し食べたくなったらまた言ってくれるかい」
肉をごろりとござに転がし、女はまたしても驚くほど安い値段を口にする。王禿も松鉄ももはやそれを聞いてすらいない。仕方なく、また俺が銭を払う。
肉は燻されたもののようだが、処理が足りないのか断面が粘っこい赤色にてらついていた。その生々しさがかえって食欲を増す。思わず喉がごくりと鳴った。なるほど。肉を悪くしてしまうとはこのことか。
「これは何の肉だい。よくこんな美味そうな肉を仕入れてこれたなあ」
「ああ、それかい、あのね、
女は少し慌てた様子で答えた。
「これが大貉だって? 嘘だね嘘嘘。奴の肉はもっともっと筋張ってるだろうがよ」
女は何も言わず、ただにこりと微笑むだけだった。
肉を指差し食うかと尋ねると、要一はそっと首を振った。野草を少しと水を少しずつ口に含んではもぐもぐやっている。よほど気にしているのか、まだほっかむりをしたままだ。
「まあまあいいか、細けえこたあよ。とっとと食っちまおうや」
上機嫌な王禿が肉を手づかみにしようとする。意地汚くも全てを自分のものにしようと考えたんだろう。しかし、それと同時に松鉄が素早く身を乗り出した。
それまで鈍重さが嘘のような早業だった。あっ、と声を上げる間もなく、松鉄はござに転がる肉塊を即座に掴み取り、剥き出しの歯の奥に押し込んだ。
「おい松鉄、テメエよ。そりゃあんまりにもふざけてんじゃあねえのか、おい」
王禿は頭を下げ震えていたかと思うと髪を振るい上げ、ドスの利いた声を出した。赤ら顔から笑みは消え、牙を剥き出しにしている。腕に刺すような痺れが走った。
「まあまあ、もう良いじゃないか! まだ肉はあるって言っていただろう」
震える声でなだめにかかる。
骨喰を目前に、こんな下らない諍いに巻き込まれたんじゃ堪らない。
針のように細い瞳孔が俺を睨む。腕が更に強く痛んだ。
「――だってよお!」王禿が叫ぶ。「だって俺の肉が、俺の肉がよお!」
張り上げられた声は湿っていた。大きな瞳が見る間に潤み、大粒の涙がぽたりと零れた。
「こいつ俺の肉をよお!」
王禿が駄々をこねるように床を転がり始める。松鉄は焦った様子を微塵も見せず肉を噛みしめている。唖然とする俺と目が合うと大きく頷いた。
どうやら酒を飲むといつもこんな調子らしい。
思わぬ肩透かしを食らい、息が漏れる。
怪しい奴らだと思っていたが、どうも不思議だ。俺達を嵌めようとしているにしては、自分たちも酒をじゃぶじゃぶ飲むし、あまりに不用意な言葉が多い。
考えすぎだったのか? こうしてみると随分と人間らしい奴らでもある。多少偏っちゃいるが、俺からすればそこがむしろ好ましくもある。
少し警戒しすぎたか。
やれやれと息をついたところで、まだ目玉達のまばたきが収まらないことに気づいた。もう大丈夫だとなだめようとしても目玉は言うことを聞かない。
首筋がすっと冷たくなった。
辺りに目を走らせるのだが、王禿はまだ床を転がっているし、松鉄も無言で肉を噛み締めているだけだ。後はかまどのそばでこちらを心配そうに見る女と衝立の向こうの客しかいない。それでも目玉は気でも違ったようにまばたきを続ける。
このどこかに敵意を持った野郎がいるとすれば、それは恐らく――。
「注意しろ」
小声で警告し、衝立を指差す。
だが、王禿も松鉄も、要領を得ない様子で俺を見るだけだった。
苛立ち、もう一度口を開きかけたところで、衝立の向こうからくぐもった声がした。
喉に詰まった異物を無理やり吐き出そうとしているような声だった。何やらべたべたと床を叩くような音もする。
「ああん、どうしたどうした。飲み過ぎたのか」
王禿がぽんと衝立の上に飛びつき覗き込もうとする。しかし、酔って加減を誤ったのか、勢い余って衝立ごと倒れ込んだ。
ぶわりと煙幕のように舞う砂埃。着地にしくじり転がる王禿。まだ肉を噛む松鉄が、むほほ、と笑った。弛緩しきった空気の中、俺だけが目を見張っている。
やがて砂埃の奥から、喉元を押さえ、のたくる商人と護衛が姿を見せた。
二人とも目玉を白黒させている。口からは赤黒い泡が吹き出ていた。
「おいおい様子がおかしくねえか。こいつら病気でも持ってんじゃねえだろうな」
ぐるりと商人の目玉が裏返った。体を大きく痙攣させたかと思うと、震える手足で四つん這いになる。一拍置いて護衛の体も同じように震え出し、やはり四つん這いになった。
そして二人同時に頭をもたげ、むうう、と唸り声を上げた。
唖然と見つめる俺達の前で、四肢の肉が筍の皮でも剥くように剥がれ落ちた。中からは獣じみた黒い毛に覆われた足が出てくる。その先端には太い鉤爪が一本生えている。脇腹を突き破って更にもう一対の足が勢いよく飛び出してきて、座敷の上でカチカチと爪音を立てた。背中の筋肉が膨れ上がって衣服を引き裂き、顕になった尻が蜘蛛の腹のように膨らんだかと思うと、その先端から筆状の尾が伸びた。目玉は赤く充血し、長い牙が裂けた口を押し広げ伸びてくる。
憤怒に狂ったような形相は既に人のものではなかった。それを示すかのように湾曲した角がこめかみから生える。二体の内の一方の背には小さな羽が生えており、もう一方は背面一杯に太く長い棘が生えていた。いびつに膨張し続ける体が互いを押し合い、棘の生えた方が土間によろめき下りる。
「クソッタレ!
あまりの光景に中空を彷徨っていた意識が王禿の大声で体に戻る。
牛鬼――。
確かに目の前の化け物は噂に聞いた通りの姿をしていた。
「この世にはなあ、目に見えない牛鬼の魂ってやつが彷徨っててよ。そいつをうっかり飲み込んじまったもんは、その体を牛鬼に乗っ取られちまうんだよ」
いつか誰かが得意げに語っていたのを思い出す。
そんなのはただの与太話だと思っていたが、実際に変化するところを見たんだから信じないわけにはいかない。
しかし、死ぬまで見かけることもないような化け物と、それも二体も同時に遭遇する羽目になるとは。
王禿が頭を低くして喉を鳴らし始めた。松鉄もざらりとだんびらを抜くと土間に下り立つ。今や座敷の奥一杯に膨れ上がった一体と、土間を這う棘の生えた一体。どちらも二人を標的に選んだらしい。前足で床を掻いて雄叫びを上げた。
膨張した牛鬼の腹から音の塊が吐き出される。爆発するような空気の波に石材までもが振動して、隙間から灰の雨を降らせた。
「あんたがた、邪魔にならねえよう下がってな」
耳の千切れ飛びそうな咆哮の中、王禿が叫んだ。
俺達は両耳を押さえつけ、言われるがままに竈のそばまで退避した。女は片手に包丁を持ち、もう一方の手を祈るように胸元にやりながら、牛鬼と対峙する二人を見つめている。要一は女の大きな尻の後ろに隠れ、俺は更にその後ろに隠れた。
「息の根を止めたら口と鼻閉じて離れろよ。牛鬼の魂がどっかよそへ行くのを待つんだ」
王禿の言葉に松鉄が唸る。たったそれしきのことで助かるのかは疑問だが、その時が来たら俺もそれに倣うつもりでいた。
牛鬼の前足が禍々しく膨れ上がる。筋繊維の表面で血管が脈打っている。
張り詰めた空気の中、王禿と松鉄はそれぞれ座敷と土間とで牛鬼と対峙する。
冷たい石造りの室内を、いつしか完全な静寂が支配していた。
ふいに、ちり、と鈴の音が沈黙を破った。
それを合図とするかの如く二体の牛鬼が襲いかかった。
王禿は素早く跳躍し牛鬼の突進をかわすと壁を蹴りその背に飛びかかった。熊のような腕を振るうその刹那、牛鬼は外見からは想像もつかない素早さで跳び退ると、身を起こし鉤爪を振り下ろした。王禿は宙で身を翻し、鉤爪の一撃を紙一重でかわす。
松鉄は力強くだんびらを振るった。身のこなしは鈍重だが、振り下ろす一撃には頭蓋を叩き割りそうな重みがあった。しかし、牛鬼の湾曲した角がそれをあしらい致命打を避ける。背面を覆う太い棘にも刃は通らず、背中を狙うわけにもいかない様子だった。
頭目掛けて突き下ろされる鉤爪をすり抜け、王禿が牛鬼の体の下に滑り込んだ。体躯に見合わぬ大爪を突き立て肉を引き裂く。
鼓膜を破らんばかりの絶叫と共に牛鬼が身をもたげた。胸元から腹部まで走る三本の傷口から勢いよく血が吹き出す。牛鬼はぐったりと体を倒し、座敷が黒く染まっていく。
「よしよしまずは一丁上がりだな」
余裕の笑みを浮かべる王禿。
――だが、その笑みが徐々に引きつっていく。
勢いよく吹き出していた血がぴたりと止まった。何事も無かったかのように再び鉤爪を振り上げる牛鬼の腹の傷は、不自然な肉の盛り上がりで塞がっている。
「畜生! 半端な傷じゃすぐに回復しやがるぞ! 頭を落とさねえと駄目だ」
転がり叫ぶ王禿。その動作のキレが目に見えて悪くなっていく。
息が切れているわけでもないのに、足の運びがおぼつかなくなり、見当違いの方向へ飛び上がる。赤く充血した目は焦点が合っていない。明らかに、たぎる血潮で急激に酔いが回っている。
角にだんびらを弾かれた松鉄が体勢を崩し、たたらを踏む。猛進する牛鬼の角を危ういところで掴んだが、そのせいで真正面からの力比べを余儀なくされている。
死闘の傍ら、行商の女は竈の際、戦う二人の様子を不安げに見ている。旗色が悪いのは分かっているのだが、非力な俺は女と同様、見守っていることしか出来ない。身を持て余しているせいか、それがいやに歯がゆく感じる。
俺はそっと壁沿いを進み、踏ん張る松鉄の背後をすり抜け木戸へと向かった。
どちらかがやられたらすぐに全員殺されちまう。そうなる前に逃げ道だけでも確保しておいたほうがいい。
だが月光の下、岩山の麓に見える家々の隙間には、既に何十もの青白い炎が揺らめいていた。気づかれる前に慌てて戸を閉める。とてもじゃないが逃げられそうにない。
「――やれ! そのまま落としちまえ!」
振り返ると、牛鬼の首に松鉄のだんびらが食い込んでいた。上手い具合に体位を入れ替えたらしく、脇から覆いかぶさるような態勢で頭を押さえ込んでいる。片手を刃の背に添え、魚の頭を切断するように体重を乗せる。牛鬼も堪らぬようで滅茶苦茶に暴れようとするのだが、松鉄は組み付いて離れない。
一方の王禿は苦戦を強いられていた。顔も頭髪も既に血まみれだった。鉤爪をどうにか掻い潜るのがやっとといった様子で、時折振るう爪にも力が感じられない。
「まだか! 早くやっちまえ!」
牛鬼の首筋から血潮が吹き出し松鉄の体を黒く染めた。苦悶の叫びが石壁に反響する。松鉄は顔中から黒を滴らせながら更に力を込め、首を落としにかかった。出鱈目に床を掻く鉤爪から徐々に力が抜けていく。骨を断つのは時間の問題だろうと思われた。
――が。まさに始末が着こうというその時、松鉄が何故かだんびらから手を放した。
牛鬼が全身の筋肉を躍動させ、鉄槌の如く頭を振るった。
松鉄が跳ね飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「何やってんだ馬鹿野郎! おい次が来るぞ! 早く立て!」
王禿の叫び声が響く中、跪いた松鉄が、むうう、と野太く間延びした唸り声を上げた。
地面についた腕が引き裂け、黒い剛毛の生えた足が現れた。すると同じく鉤爪の付いた足が脇腹を突き破りもう一対生えてくる。松かさのような体は見る間に筋肉で膨れ上がる。長い牙とこめかみから伸びる角。息を呑む間もなく松鉄が牛鬼へと変じていく。
松鉄と争っていた牛鬼は途端に興味を失ったかのように王禿に体を向けた。しばらく苦しそうにしていた松鉄も、ふっと頭を上げると王禿に向かっていく。王禿は堪らず飛び上がり鉤爪で壁の高い位置にへばりついた。
「松鉄、おい松鉄!」松鉄は身を起こし、王禿めがけて鉤爪を振り上げる。「俺だ、目を覚ませ!」
王禿のがなり声が鉤爪に抉られる。思わず顔を背けた。
これだけの危機を前にしても、俺にはどうすることもできない。割って入ったところで瞬時に捻り潰されて終わりだ。体を動かしもしないのに荒く息が漏れる。両の目がただただ床を眺め回している。頭の中では繰り返し、同じ疑問が渦を巻いていた。
なぜ松鉄まで牛鬼になったのか。
手助けできない言い訳でもするみたいに、そのことだけを考えている。
松鉄は牛鬼にとどめを刺す前に変化を始めた。てことは、あの二体とはまた別の魂に乗ったられたってことになる。牛鬼の魂ってのはそんなに沢山がひと塊で彷徨っているもんなのか?
いいや、それならもっと多くの目撃談があっていいはずだ。
それなのに、これだけの人数が、一夜の内に、しかも殆ど同時に、牛鬼に変化している。
どう考えても不自然だ。そもそも、牛鬼の魂なんてものは本当に――。
「松鉄! 畜生、松鉄!」
王禿の体が徐々にずり下がっていく。鉤爪が王禿の頭を突き刺し引っ掻いた。若草色の頭が黒く染まっても王禿は呼びかけるのを止めようとしない。
「馬鹿野郎! お前、骨喰で一緒に金持ちになるって約束しただろうがよお!」
もう王禿も限界が近い。早く逃げ道を考えなければ。ここさえ出てしまえば牛鬼は入口を抜けるのに苦労するはずだ。だが――。
それまでじっとしていた要一までもが、俺の袖を何度も引っ張り出口を指差す。
「んなこたぁ分かってんだ馬鹿野郎! 外は化け物まみれで逃げ場がねえ! 死にたくなけりゃあ、ちっとはてめえでものを見て、てめえで考えて行動しやがれ!」
焦りに任せて怒鳴り散らし、袖から要一を引き剥がす。
「あんたももう逃げないと。ここいらにどこか隠れるところを知らないか」
「――ええっ、と。急に言われてもねえ。どこかあったかねえ」
女は返事をよこす。だが、逃げ道を思い出しているようには見えなかった。
考えているような素振りをしてはいるが、目はじっと王禿と牛鬼を注視している。
そう。もう一つひっかかるのはこの女だ。
王禿がやられりゃ次は俺達だってのに少しも慌てた様子がない。思い返せば商人達が牛鬼に変じた時もそうだ。客が突然化け物になっても悲鳴一つ上げやしなかった。
それに目玉が感じたあの殺気。ずっと牛鬼が発したものだと思っていたが、あの時はまだどちらも変身し始めてすらいなかった。ということは、牛鬼でも、まして酔っぱらった王禿でもない誰かが発していたことになる。
店主の胸元ではまだ鈴が握られている。この女はさっきから、ただじっとこれを握っているだけだ。要一でも慌てるこの状況下で、逃げようとするわけでも呆然としているわけでもなく、ただ鈴を持って戦いを見ている。
思い返せば、戦いの最中、何度か鈴の音を聞かなかったか。
店を訪れた時には確かに綿が詰められていたはずの鈴の音を――。
「……なあ、あのよ。俺、いい事思いついたんだけどよ」
鬱陶しそうに女が振り返る。俺はなんでもない風を装い近寄ると、包丁を握るその腕に跳びつき力一杯噛み付いた。店中に絶叫が響き渡る。包丁が石畳で派手な音を立てた。
「ちょ、ちょっと! いきなり何すんだい! 放しなさいよ!」
女はもう一方の手で俺の髪を掴んで引き剥がしにかかった。その胸元では自由になった鈴が踊る。素早く指を伸ばした瞬間、鳩尾に焼けるような痛みが走った。
「いい加減にしな!」
体が軽く宙を飛び、背中から土間に叩きつけられた。
内臓が引き裂かれるような激痛に悶える。息を吸うことすらままならない。蹄が土を踏む音がして、あれで蹴り上げられたのだと知った。
体を丸め、そっと握りしめた手を開くと、何の変哲もなさそうな鈴が転がり出た。
ありふれた骨製の鈴のように思えた。何の骨かはわからないが、血で濡れたような赤黒い色をしていた。よく見ると薄っすらと炎のような意匠が彫られている。転がすと、からから音を立てた。
すると、まるでそれに応じるかのように三体の牛鬼が動きを止めた。
振り上げた鉤爪を下ろし、擦り付けるように頭を下げると、ぴくりとも動かなくなった。
女が慌てた様子で俺を見る。
「――あ、あ、あんた、返しなさいよそれ」
迫る女から飛び退き距離を取る。要一も店主のそばを離れ、滑り降りてきた王禿の元へ駆け寄っていく。
包丁を拾い上げ、こちらに近づく女に対し、試しにもう一度鈴を鳴らす。
三体の牛鬼が向きを変え、女を睨みあげた。
「おいおいおいどういうことだこいつはよ。俺にも分かるように説明してくれよ」
「俺にもよく分かんねえよ。間違いねえのは、牛鬼を操っていたのはこの女だったってことだ。三人が牛鬼になっちまった事とも無関係じゃないだろうよ」
三体の牛鬼と王禿に睨まれた女はあっさりと全てを白状した。
曰く、牛鬼に変ずる為の条件は魂なんかじゃなくて、牛鬼の肉を食べることらしい。
この女は旅人に肉を食べさせ牛鬼に変えては路銀を奪っていたそうだ。用が済んだ牛鬼は鈴で大人しくさせておいて捌き殺し、また別の旅人に食わせる。牛鬼の肉は切って落とすと断面に膜が張り、何日かは新鮮なままで保存も利くのだという。正体がばれるまえにあちらこちらへと旅をして、ずっとこんなことをやってきたらしい。
「この鈴はどこで手に入れたんだ」
「昔同じことをやってたっていう男から奪ったんだよお。酒を山程飲ませたら、牛鬼の精神に感応する鈴だってべらべら喋り始めたんだ。金に困ったらいつでも商売ができるように最後の肉だけは塩漬けにしてあるなんて言うからさあ。殺して全部奪ったんだよお。頼むから許しておくれよお。後生だから――」
「てめえがやったことは棚に上げて命乞いしやがんのか。おいそれじゃあよ。こいつらを元に戻せるなら命だけは助けてやるよ」
「――か、勘弁しとくれよお。あ、あたしが悪かったから、あたしが悪かったからどうか命だけは取らないどくれよお。まだ死にたかないよお」
女は六つの足を折り、袖で目元を拭いながら後生だからと繰り返すばかりだった。
王禿の瞳に憂いの影が落ちた。しかし、それもまばたきする間に、ゾッとするような憎悪と怒りに呑まれて消えた。
その後――初めてこいつらを目にした時に感じた、嫌な臭いの正体を思い知らされることとなった。女の断末魔の叫びは耳の奥にこびりつき、顔皮を無残に食いちぎられたあの顔は死ぬまで忘れることはできないだろう。俺達はすっかりおとなしくなった牛鬼の陰で横になり、店主の最後の給仕が終わるのをただひたすら待ち続けた。
ようやく迎えた朝。旅支度を終えた俺達に、王禿は少しだけここに残りたいと告げた。
「先に行っててくれるかい。骨喰に着く頃にはきっと追いつくからよ。こいつがこんなになって、出らんなくなっちまったんだから仕方ないさ。独りで残しとく訳にはいかねえからな。心配しなくっても壁をぶち壊せばすぐだからよ」
石造りの家の中、狭い戸口のそばで牛鬼達が悲しげに鳴いた。
牛鬼達は鈴で命令されなければ特に危険はなさそうだった。もしかしたらまだ人の心が残っているのかもしれない。王禿の呼びかけに反応する松鉄を見ていると、あながち外れていないようにも思える。
「ところで気になっていたんだがよ、どうしてああも機敏に動けたんだい。あんなに濃い猿酒をしこたま飲んで、あれほど酔っていたはずなのによ。鈴を奪い取る動きの素早さときたら、ありゃ本職さながらだったぜ」
「……実はな、初めから酔っちゃいなかったんだ」
口を開けて奥歯に引っ掛けた糸を手繰り、喉の奥に隠していた皮袋を引っ張り上げた。
「飲んだ酒はこの中だ。黙っていてすまん」
咄嗟に仕込んでおいた
しばらくぽかんとしていた王禿だったが、すぐにげらげら笑い始めた。
「いやいやさすがだぜ、さすがさすが。その用心深さはこの先きっと役に立つだろうな」
顔の全てを口にして大声で笑う王禿に釣られ、一緒に笑った。スリの技については黙ったままでいることにした。なぜだか少しだけ後ろめたく感じたからだ。
「今度はそいつ抜きで飲もうや」
「ああ、そうだな」
互いに手を上げ一旦の別れを告げる。毛だらけの王禿の腕にはあの鈴が結わえられている。早くも灰にまみれ始めた女の死体に手を合わせる要一に声をかけ、再び塵芥の荒野へと踏み出した。
「全くよお。もう少しってところで心配かけやがって。一緒に金持ちになるんだろ」
王禿の声と松鉄の鳴き声を背中に聞く。
なぜだか少しだけ、あの家での一夜を名残惜しく感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます