第36話 北の洞窟
クマ吾郎もエリーゼもいない。
たった一人で野外を歩くのは久しぶりである。
時間はもう午後だったが、俺は一路北に向かって歩みを進めた。
夕方、日没の少し前に目的の洞窟を発見する。
森の奥深く、崩れかけた土の斜面に狭い入り口が開いている。
これは、事前に教えてもらわないと見落としてしまうだろうな。
背を屈めて入り口をくぐった。
中は真っ暗だ。カンテラをつける。
土の壁を軽く触りながら進むと、やがて石壁に変わった。
同時に洞窟の天井が高くなって、歩きやすくなる。
さらに進むと突き当りにぶつかった。
カンテラを掲げてみる。
「これは……?」
灯りに照らされているのは、複雑な浮き彫りが施された壁だった。
よくよく見れば、薄っすらと魔力が感じられる。
浮き彫りは不思議な絵と字で構成されている。
字はパルティアや他の国で使われている標準文字ではなく、俺には読めない。
だがヴァリスは「森の民としての目で見てきてくれ」と言っていた。
であれば、この文字は森の民のものか?
では記憶喪失の俺では読めないのは当然――
「いや、そうじゃないな」
壁の浮き彫りを眺めながら俺は首を振った。
俺は前世日本人の記憶を持つ転生者。
日本人の俺がどういう人物でどういうふうに暮らしていたのかは、あいまいで思い出せない。
けれど日本語や日本の文化、科学知識などは覚えている。
この世界の俺も似たような状態だ。
十五歳までどうやって暮らしていたのか、家族はいるのか、そんなことは何一つ覚えていない。
……が、森の民としての知識はいくらか残っている。
この文字は森の民のものではない。断片的な記憶がそう告げている。
俺はさらに観察を続けた。
壁は石だと思ったが、よく見ればどこか有機的な印象も受ける。
貝殻とか亀の甲羅とか、あるいは象牙のような。
ふと、壁の上部と左右にくぼみがあるのを見つける。
上部のくぼみは剣の形。
左のくぼみは丸い形。
右のくぼみは丸に尻尾が生えたような……あれは勾玉だろうか。
手を伸ばしてくぼみを触ってみる。やはり弱い魔力が感じられる。
だが、それ以上は何もない。
くぼみ以外の部分も指でなぞってみたが、何事も起こらなかった。
「これは、『何もなかった』と言うしかないかなぁ」
壁を叩いてみたが、頑丈でびくともしない。
ただ、かすかに反響音がした。
もしかしたらこの壁は扉で、先は通路が続いているのかもしれない。確かめようがないけど。
それからもしばらく眺めたり触ったりしたが、何も変わりはない。
俺は諦めて帰ることにした。
時刻はもう夜だ。野営が必要になる。
俺は少し迷ったが、外に出て休むことにした。
ここの魔力は薄いが、どこか気味が悪いんだよな。落ち着いて休めない。
外に出ると真っ暗だった。月も星も分厚い雲に隠されてしまっている。
俺は久々に手近な木に登り、仮眠を取った。
いつもはクマ吾郎とエリーゼがいるから、交代で見張りをするのにな。
『また来るといい、森の子よ』
眠りに落ちる直前。誰かの声が聞こえたような気がした。
翌朝、日が昇ると同時に俺は王都へと出発した。
おかげで昼になる前に到着する。
北門をくぐろうとしたところで衛兵に呼び止められて、王城へと向かった。
塔にあるヴァリスの執務室に入ると、彼が一人だけで待ち構えていた。
「どうだった?」
問いかけに首を振る。
「特に何も。不思議な場所だったとしか」
「……例の壁の浮き彫りに見覚えは?」
「ありません」
言ってから俺は気付いた。
あの剣の形のくぼみ。
あれは、この部屋にある国宝ヨミの剣ではないか?
あの剣の柄には宝玉が嵌っている。
くぼみも同じような形をしていた。
俺が思わず壁に掛けられた剣に視線をやると、ヴァリスは目をそばめた。
無言だが「それ以上言うな」とのプレッシャーを感じる。
「何もなければそれでいい。この件に関しては金輪際、口外を禁じる」
彼は紙を取り出した。
「魔法契約だ。口外した場合、すぐに私に伝わるようになっている」
「そこまでしますか」
「伝わるだけだ。即死や激痛を与えるわけではない」
それにしたって強制契約には違いない。
とはいえ、俺に拒否権はなかった。
しぶしぶ署名すると、契約書はまばゆく光って燃える。灰も残さずに消えてしまった。
「完了だ。ご苦労だったな」
ヴァリスは今度は小袋を執務机の上に置いた。
「報酬だ。取っておいてくれ」
中身を覗いてみると、金貨が十枚も入っている!
俺の今の全財産とほとんど同じくらいの額である。
「たったあれだけの仕事で、こんなにもらえないですよ!」
「構わん。強制契約までしてもらったからな」
そりゃあそうだけど。俺は思った以上にヤバい話に巻き込まれたのでは? 不安になるぞ。
俺の顔色を見て、ヴァリスは続けた。
「口外さえしなければ何の問題もない。できればあの場所ごと忘れてくれ」
「はあ。なるべく忘れるようにしますけど」
「ああ」
背後で扉が開いた。
振り返るとクマ吾郎とエリーゼが入ってくる。
俺は思わず駆け寄って、クマ吾郎の頭を撫でた。
「二人とも、無事か!」
「はい、もちろんです。騎士の皆さんに良くしてもらいました」
「ガウ」
彼女らの言葉に嘘はないようで、元気そうだった。
「用件は済んだ。下がってくれ」
ヴァリスが言って、俺はうなずく。
「それでは、俺たちはこれで」
「うむ」
今度は「また会おう」とは言われなかった。
騎士と一緒に部屋に出る。
扉が閉まる直前、
『肩透かしだったなぁ。残念、残念』
と、ヴァリスではない声が聞こえた、ような気がした。
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