第2話 婚約者、やめさせられました
「はぁ? そんなもん、破棄に決まってるだろう」
え? 破棄って、婚約破棄?
「当たり前じゃないか。父君の遺産の多くを受け継ぐとはいえ、爵位を返上し、商会や隣国との貿易交渉権は親族に任せ、不動産に至っては伯爵家の領地の殆どを王領地として献上するだと? 君は馬鹿なのか?」
たたみかけるように怒鳴りつける我が婚約者。
バスティアンは、私たちがそれぞれ12歳と11歳の時に、当時の当主であった祖父同士が互いに付き合いがあり、母が亡くなったことで私の将来を心配し、ひとり娘だった私のために決めた婚約者だった。
「だって、私は領地運用や商会経営を学んでないわ。今副会長の小父様なら任せられると思うし、私が今から学ぶには時間が足りないと思うのよ。その間に、領地や商会が傾いてしまうかもしれないでしょう?」
今から詰め込んで、毎日統治と会社経営の猛勉強なんて、無理だわ。経験値を積んで、いい領主・いい商会長になるのに何年かかるのだろう。手本となるお祖父さまや父はいないのだ。こんなことなら、もっと早く習っておくべきだった。
でも、先月、父は事故で亡くなってしまった。
私は学び始めたばかりで、何もわからない子供も同然だった。
まず、商会のことは、本当に何も解らなかった。
順売上? 雇用保険? 組合? 法人税? 関税? 商人ギルド?
単語は知っていても、それが何なのか、真に理解はしていなかったのだ。
早々に、副会長をなさっている小父様にお任せすることになってしまった。
領地管理については、生徒会長や市長みたいなものかと思っていたけど、とんでもなく複雑で、なんとか数人の執事達と頭を悩ませてみたけれど、基礎知識がないので、まるで子供のように知恵熱で倒れてしまった。
父から
失敗したら修正の利かない大惨事、伯爵令嬢としても私個人としても、鉱山に関わる人の生活もその全てが終わりだと思ったので。
陛下は快く、宮廷内でも信用のおける実績ある計理士と、鉱石や貴金属の原石に詳しい専門家、外交貿易に詳しい高官と補佐官、私のスケジュールを調整してくださるマネージャー的な敏腕執事を派遣してくださり、更には、定期的に直接話を聞いてくださるようになった。
バスティアンとの時間も殆どとれず、陛下や官僚、執事達とばかり会っていたのが不満だったのかもしれない。
事情を知っているのだから、解ってくれると思ったのは、私の思い上がりだったのね。
それに『嫉妬の魔女』と揶揄される私との婚約に、元々乗り気ではなかったのだろう。
これまで婚約者としての交流はあまりなかったし、
学内で会ったり食事を共にすることもなかったし、社交界の練習でもある学生
私をパートナーにして入場するのは恥ずかしいからと。
あれは、思春期特有の照れの『恥ずかしい』ではなく、私なんかが婚約者だと知られるのが恥だと思っての、文字通りの『恥ずかしい』だったのね。
「婚約を破棄って、
「お祖父さまにはまだ話していないし会ってもいないが、父は反対しないだろう。君が伯爵令嬢で、伯爵家の次代だったから、婚約を続けていただけで、資産も利権も手放す君に、なんの価値がある?」
そういえばそうか。貴族なんだから、政略的な意味がなくなれば、用なしになるのは当然か。
現代のような、愛し愛される結婚など、貴族社会にはごく少数派なのだろう。
「わかったわ。これまで大してお役に立てず申し訳ありませんでした。どうぞ、お元気で」
「役に立たない挨拶など不要。さっさと帰ってくれ」
食い下がっても無意味だと逆らうこともなく受け入れたけれど、こんな冷たい声が出せる人だったのね。
子供の頃は、私の赤い髪を、宝石を絹糸にしたみたいで綺麗だと言ってくれたのに。私の髪を誉めてくれたのは、両親と侍女達以外で唯一の存在だったのに。
あれは、伯爵家の次代への忖度したおべっかだったのか。子供ながら、ちゃんと貴族社会の一員だったののねぇ。
地味に傷ついた。
観劇や美術鑑賞、スイーツ巡りや買い物などの交流も殆どなかったし、誕生日も贈り物を届けるだけ。
王家主催の同じ歳生まれの子女を集めた舞踏会での社交デビューも父のエスコートだった。
でも、確かに、貴族でなくなった平民の私と結婚するメリットは、バスティアンには一切無いと言われればそれまでなのは、私にも解る。
「お嬢様⋯⋯」
アルベリータが気遣わしげに私の顔を覗き込む。
邸宅までの帰路の馬車の中は、陰鬱なムードが漂っている。私の向かい側に座っているカロリーネは、さすがベテラン、私の顔色を見るでなく何かを言うでなく、静かに座っていて、時折外の景色を眺めていた。
「この景色を見るのも、これが最後ね」
バスティアンの伯爵家は、王都に近い田園地帯に領地があるので、王都から領地へ帰る通り道として、陛下に爵位を返上して隣国へお祖父さまに会いに行くことを告げて、しばらく会えない事への報告と挨拶のために立ち寄ったのだけれど。
「そのままお別れの挨拶になるなんてね」
でも、ある程度は予想していた。
伯爵家を離れる私には、婚姻を結ぶメリットがなくなるから、フラれるのではないのかと。
子供の頃の、はにかんだような紅潮した頰と優しい言葉を信じて、結婚できると何年もずっと思い込んでいた私が馬鹿だったのだ。
「むしろよかったのではありませんか? あの方は、お嬢様をずっと蔑ろにしてきたではありませんか」
「そうだったかしら?」
「そうでございますよ。夜会には伴わない、誕生日や特別な日には贈り物はするものの、会いに来ることなくメッセージだけ。顔を見ることも年に数回ではありませんか」
「それは、わたくしがお父様について領地のことを学ぶのに忙しかったからで、例え会いに来てくださっても、さほど時間はとれませんでしたわ」
「それでも会いに来るのが、頑張るお嬢様を優しく労うのが、婚約者の役目ではありませんか。あの方は、お嬢様の相続される不動産や商会、伯爵家の人脈と財産とが目当てだっただけなんですわ。それらを整理すると言った途端、婚約破棄だなんて⋯⋯‼」
「でも、それが、貴族の結婚と言うものでしょう?」
そんなことくらい、一介の小市民、高校生だった私にもわかる。
私には、このキュクロス王国のマグニフィス伯爵家のひとり娘として育った17年の記憶のほかに、平成生まれの女子高生としての人生の記憶の一部と少しの知識がある。
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