笑顔になれないから

第1話 さっきスベってたやつか

 そういうのはAVだけで充分だ。


 実際に痴漢を見たときの第一感想はそれだった。


 少し大きめの劇場のお笑いの舞台に出演したときだった。


 智介ともすけは得意技の独り言を言いながら、歩いていた。もちろん周囲には聞こえない声の大きさである。


「あー、今日もそんなにウケへんかったなぁ。最近スベり続けてるからなぁ……爆笑させたいなぁ。次はウケたいなぁ……」智介ともすけはそこで手を叩いて、「そや。そういえばこの劇場の支配人が『大きな舞台に立ちたければ私のところに来なさい』って言っとったな。これもなにかの縁かもしれへんし……ちょっとお願いしてみよか」


 やはり大きな舞台を手に入れるためには、自分から行動しなければならない。


 智介ともすけは足早に支配人室に向かった。


 その途中、芸人仲間の雑談の声が聞こえてきた。


「あの地下アイドルの子、メッチャかわいかったなぁ……あれは間違いなく有名になる」


 お笑いとアイドルの融合、というのが今回の舞台のコンセプトだった。というわけでアイドルの人たちも出演していたわけだ。


 ハッキリ言ってコンセプトの意味はわからないが、売れないお笑い芸人である智介ともすけに発言権などない。


「そうだなぁ……かわいいし優しいし礼儀正しいし。ああ、あんな彼女ができたらいいなぁ……」


 たしかにあの子は美人だったと思う。だが智介ともすけは年下は守備範囲外である。同い年から年上にしか興味はない。


 そもそも智介ともすけには彼女がいるのだ。他の女性に目移りする権利などない。浮気など論外だ。


 ともあれ智介ともすけは理事長室の扉をノックして、


「すいません。井内いうちです。井内いうち智介ともすけです。ちょっとお時間よろしいですか?」


 返事はなかった。室内にいないのかと思っていると、


「……?」


 部屋の中から物音がした。なにか作業中なのかと思ったが、そんな感じでもない。


 ……


 少し耳を澄ませてみる。盗み聞きは趣味が悪いと思ったが、なにか緊急事態のように思えた。


「――! ――」


 女性の声に聞こえた。それも悲鳴に近い声。怯えと恐怖が入り混じった声が室内から聞こえた気がした。


 智介ともすけはほとんど無意識のうちに扉を開けて、支配人室に入った。


 そして室内に叫ぶ。


「おい! なにしとんねん!」


 その現場は痴漢……いや、もはや性加害寸前の状況だった。


 支配人がアイドルの女の子を押し倒していた。彼女の衣服は乱れていて、口は支配人の手で塞がれていた。


 ……


 なんでこんなことを、鍵を開けたまま始めようとするのだろう……せめて閉めろよ、となんとなく思った。


 支配人は突然現れた智介ともすけに、


「な、なんだお前は……!」

「お前なんかに名乗る名前はない……!」

「さっき名乗ってただろ……!」そういえばノックしたときに名乗ったな……「井内いうち智介ともすけ……ああ、さっきスベってたやつか」


 ……やっぱスベってたかぁ……


「今それは関係ないやろ……」智介ともすけにショックを与える言葉ではあるが。「その子を離せ」

 

 智介ともすけが支配人に近づいていくと、支配人は余裕の表情で、


「やめておけ。私に手を出せば、お前を舞台に上がらせないようにすることもできるんだぞ? 逆に見逃せば……さらにお前を大きな舞台に上げてやろう」


 ……


 ハッキリ言って魅力的な提案だ。このまま室内を出るだけで、さらなるステップアップが望めるのだから。


 だが……


「目の前で泣いてる女の子を笑顔にできんやつが、お客さんを笑わせられるわけないやろ」

「……正義の味方気取りが。後悔するぞ? 私に逆らったことを、すぐに後悔させてやる!」

「やってみろや。ワシは人生に後悔なんてせぇへん」


 だからお笑い芸人の道を選んだのだ。後悔する選択肢など選びたくない。


 ここで彼女を見捨てて逃げれば、智介ともすけは一生後悔するだろう。それだけは嫌だった。


「ガキが……!」


 支配人は血走った目で、智介ともすけに殴りかかる。


 智介ともすけはその拳をかわして背後に回り込む。そして足払いをかけて転ばせて、


「警察呼ぶで」上着を脱いで、その上着の袖で支配人の腕を縛り上げた。「後悔するんは、そっちや」


 腕を縛ってから、今度は靴下で支配人の足も縛る。お気に入りの上着と靴下だったが、背に腹は代えられない。


 さて支配人を縛り上げて、俺はアイドルの女の子に駆け寄った。


「ケガはない? 怖かったやろうけど、もう大丈夫――」


 その瞬間、右の頬に強い衝撃が走った。


 眼の前の女の子に殴られたのだと、一瞬して理解した。


 ……


 ……


 なんでワシが殴られんの……? なにこれ? 陣◯のコント?

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