吸血鬼は笑えない

巖嶌 のべる

第1話

 肉体が死んだら、魂はどこに行くのだろう。

 輪廻リンネする? 天国あるいは地獄に逝く? それとも魂などはなく、ただ無に帰すのみ? それとも別の世界で復活する?

 自分が考えたのは、ある意味では輪廻に近い。

 魂が肉体に宿るのならば、肉体が死んだとき、魂もまた死に、土に還って、また別の魂となり復活する。しかし、そのときには魂は肉体同様、バラバラに分解され、他者と混ざり合い、自我を保つことはできない。破片となった魂は、蜻蛉カゲロウになり、猫になり、椎茸になり、あるいはただの砂となり、また別の物になることを待つ。

 魂の絶対量は決まっており、それ以上にこの宇宙、あるいは次元に物質は誕生しない。

 記憶を保持する? 解脱ゲダツする? 少なくとも一般人である自分には無理な話だ。それに生前の記憶など持って生まれるなど御免こうむる。また、同じことを繰り返してしまうことになるからだ。

 つけっぱなしのテレビが、誰も見ていないニュースを流す。

『与党大敗により、政権交代の機運が高まってまいりましたが、街角の声では、今の野党には期待できないとの声が……』

『行列のできるパン屋さんで食中毒被害のニュースです。現在、食品衛生管理局の調査が……』

『……繰り返し行われた、凄惨な連続殺人事件が途絶えてから、はや三十年。未だに犯人は見つかっておりません。行方不明の少女は……』

 死んだら、無に還るのか。少女はどこに消えた。

 ああ、けれど。

 けれども、もし叶うならば。

 もし生まれ変わるならば。

 くだらないことで怒らないようにしたい。仕事を長く続けたい。仲間を作りたい。友達を大切にしたい。恋人といちゃつきたい。

 孤独の中で死ぬのは嫌だ。

 蝿が口の中に入った。もう、払い除ける力もない。口を閉じることも、舌さえ動かすのが億劫オックウだ。

 腐臭がした。机の上の食べ残したカップ麺が、腐っているのか。それとも自分の臭いか。もしかしたら、黴臭い布団のせいかも知れない。糞尿を垂れ流した。力が抜けていくのを感じる。思考が纏らなくなってきた。走馬灯はない。もう充分に過去は振り返ったということだろうか。

 これもまた一興だ。楽しみだ。一体何が起こるのか。

 終わらせてくれ、死に神……。


 ◆


 目が覚めた。目を開けたつもりだが、まだ暗い。

 自分は死んだはずだ。確かに死に神を見た。

 手探りで状況を確かめる。狭い。脚を広がることもできない。胸の前で優しく組まれた腕を何とか伸ばすが、それだけで終わりだ。ほとんど身体の大きさにピッタリとあった箱に入っているらしい。

 ならば、やはり死んだのだ。棺だ。どうやら自分は生き埋めにされたか。それとも地中で蘇ったか。いや、待てよ。普通は火葬するはずだ。

 思い切って腕を持ち上げてみる。意外と簡単にフタが開いたため、勢い余って大きな音が響いた。明るい光が差し込むかと目を細めたが、そこには暗闇があるのみであった。

 部屋のなかは暗闇であるが、なぜか見渡すことができた。窓はひとつもないため、夜か昼かもわからない。石造りのその部屋の真ん中に、自分の入っていた棺が置かれていた。なにかしらの儀式が行われたであろう、不気味な紋様が壁面、床、天井を埋めつくし、それらは血で描かれているようだ。

 血。

 見ただけで、それが血液だと認識できた。いったい何人分だろうか。一、二、三……、数えてみると十九人。それが判る。この血文字にはそれだけの数の人間が犠牲になっている。しかし、どうしてそんなことが判るのか、それが解らない。

 正面、入口の前に、蝋燭を持った男が一人。いや、その腕の中にはか弱く痩せた少女がいて、二人はこちらを見ていた。少女は怯えきった目で、こちらを見つめている。目を逸らしてしまいたいが、目を離すことができない。そんな表情だ。

 どうしてそんなに怯えているのか疑問に思い、自分の姿を確かめようと手のひらを見た。自分の手ではない。それどころか、人間の手とは思えぬものがそこにある。

 節榑フシクレだって異様に長い指。その先にはまるで爬虫類のような鉤爪カギヅメが黒々と伸びている。白い肌はまるで大理石だが、浮かび上がった青い血管が生物学的な奇妙さを称えている。その手を自分の顔に当てる。やはり自分の顔ではない。落窪んだ眼窩ガンカ。異様に高い鼻。鋭く剥き出しになった歯。長く伸びた犬歯が特徴的だ。髪の毛はマダラに生え、獣とも言い難い。そして、翼。背中から生えた蝙蝠コウモリのような薄い翼皮が視界の端を掠めた。

 自分の状況が受け入れられず、吠えた。

 その声も自分のものではない。やはり人のものでもない。獣の咆哮。いや、化け物か。

 唐突に空腹感が襲いかかってくる。

 少女から見ればそれは恐ろしい光景だっただろう。今、目の前には腹を空かせ、目を血走らせた怪物が立っている。逃げようにも手は後ろ手に拘束され、掴んでいる男の手はまるで鋼鉄の如く、冷たく固い。

 声を上げたいが、声を上げた瞬間、目の前の化け物は襲いかかってくる。そう、本能が告げている。

「息子よ、恐れる必要はない。ただ受け入れて、牙を突き立てるのだ。礼儀作法も気にする必要はない。本能の赴くまま、貪りたまえ」

 男がそう言うと、化け物は一歩、また一歩とこちらに近づいてきた。

 化け物はなにかを問いたげ、男を見つめた。だが、漏れてくるのは唸り声ばかりである。男が蝋燭を吹き消すと、燭台ショクダイを投げ捨てた。石室の中に激しい金属音が響く。

 暗闇となる。しかし、男と化け物には見えている。例え、完全な暗闇だろうとも、この二人にはハッキリと見ることができる。蝋燭の明かりは、少女に恐怖を与えるためだけの、演出に過ぎない。

 小さな悲鳴が上がる。

 血の匂いだ。少女の剥き出しの首に、男が鋭い爪をたてたのだ。薄くだが血が滲み、雫となって零れ落ちる。

遠慮エンリョをするな。この獲物エモノは私からのプレゼントだよ」

 化け物が少女の血の滴る肩に顔を近づけた。その香りを楽しむように、唸り声を上げる。

「そうだ。噛みつき、殺せ」

 男が言う。それは命令だ。嗜虐心シギャクシンを含んだその声。男の表情はどこかうっとりと、それを楽しむような笑みを浮かべている。

 まだ純朴ジュンボクな少年の、貞操テイソウを奪うような快楽か。それとも生娘の柔肌ヤワハダを切り裂く喜びか。

 化け物は動揺していた。少女の流す血から目が離せない。その香りに囚われて、息をするのもつらい。自分にこんな趣味趣向があったか? 血にこれほどまでの食欲を覚えたことはない。この化け物の姿になったから、そうなったのか?

 味わいたい。味わいたくない。

 噛みつきたい。噛みつきたくない。

 理性と本能が相反アイハンし、せめぎ合う。だが、勝つのは本能である。とくに生命活動に関するもので、理性が勝つのは自殺志願者のみだ。この血を飲まなければ、死ぬ。そう本能が語っていた。

 化け物の長く伸びた犬歯が、少女の白い肌にゆっくりとやさしく突き立てられる。

「ほう……、面白い」

 男が楽しげな声を上げる。

 少女は悲鳴を小さく上げたが、その後は大人しく牙を受け入れた。その表情は恍惚としており、先程までの恐怖は見受けられない。

 化け物が変化していく。

 骨格が縮み、髪の毛が生え揃い。翼は体に纏わりつき、黒い服(ほとんど布切れだが)へと変わっていく。浮き出た血管はなりを潜め、ただ美しいまでの白を称える大理石の肌が暗闇に浮かぶ。

 それは少年の姿となり、何とか顎を開いて少女から牙を引き抜いた。名残惜しそうにその血の滴る肌を見つめるが、その思いを振り払うと傷口に自らの小さな手を当てて、止血する。少女は気を失ったようだ。

「……父上。なにか止血するものがあれば頂きたいのですが」

 先程まで化け物だった少年が、まるで少年らしくない口調で要求する。父上と呼ばれた男は、楽しげにその様子を見つめていたが、声をかけられて更に口元を不気味に引き攣らせた。

 男は指を鳴らした。壁面に掛けられ松明に一斉に火が灯る。少年は癖で、一瞬目を細めるが、全く眩しくはない。どうやらこの目は暗闇にも光にも強いらしい。

「手を離したまえ。もう血は止まっているはずだ」

 少年はそう言われ、恐る恐る手を離した。確かに血は止まっている。犬歯のあとは残っているが、傷は塞がっている。

「これは……、ありがとうございます。父上」

「ふむ。私がやったのではない。まさか、初咬みで、従徒ジュウトを作ってしまうとはな。将来が楽しみだ」

従徒ジュウト……?」

「我々、不滅者イモータルに噛み付かれ、生き残った者は我らが眷属ケンゾクとなる。その眷属の命は、噛み付いた者の思うがままだ。生殺自在。お主はこの娘に生きて欲しいと思った。もう、こやつは死ぬことすらお前の許しを必要とする……」

 男はそこまで喋って、不思議そうに少年を見つめた。

「言葉は解るが、そういった知識は不足しておるのか。私のときは本能で理解しておったものだが……」

 なにか悪いことをした気がして、少年は身を縮こませた。

「申し訳ありません……」

「いや、謝ることはない。私も初めて子を作ったのだ。どういったことが正しいことなのかは、私自身も理解しておらんからな」

 子を作ったというのはどういうことなのだろうか、母は何処にいるのだろう。この棺に、壁面の血文字はなんだろう。そして、不滅者イモータルとは?

 色々と聞きたいことはあるが、体がふらつく。男が少女を拘束していた手を離したせいで、少女ごと倒れ込んでしまった。少女の細い体が哀れに思えたが、それすら支えられない自分が情けなくなった。

 父が倒れた子を覗き込む。

「……やはり、まだ食事が足らんようだな。だが、従徒の血はもう飲むことはできん。奴隷から血を集めるか」

 やれやれ手のかかることだ、と男が指を上げると、少女と少年は折り重なったまま、空中へと持ち上げられる。少年は浮かび上がったことに驚く。魔法だ。やはりこの男は魔法使いなのだ。いや、違う。この男、自分の父は、自分と同族であると匂いで判る。

 吸血鬼ヴァンパイア

 自分は吸血鬼となったのだ。

 生来の殺人者。

 生まれ変わりを決める神がいるとするならば、これはどんな罰であろう。

 なんとか最初の試練は乗り切ったのだろうか。少女は死なずに済んだ。だが、少女は吸血鬼の眷属となり、もはや自由に死を選ぶこともできぬらしい。これは殺したも同然なのではないだろうか。

 頭がスッキリとしない。

 少年と少女は運ばれるまま、男に連れられて、この巨大な石室を出た。


 ◆


 ここは大きな城らしい。石造りの廊下、部屋。ガラス張りの窓。掲げられた剣に盾、家紋を刻んだバナー。調度品は高級感よりも実用性が意識されている。

 自分が生まれた石棺は、その城、奥深くの地下にあったようだ。

 窓からは日差しが差し込んでおり、城の中は意外にも明るかった。採光のための天窓さえある。吸血鬼と言えば、日光に当たれば灰になって消えると思っていたので、父が日を避けず、自分も日に当たったときは、思わず体を震わせた。が、とくになにか変化はなく、肌が焼け爛れるようなこともなかった。

 どこからともなく現れた男の従徒が、少女を抱えてどこかに消えた。それを心配そうに見つめていると、父は「心配せずとも良い」とだけ言った。父はもう一人の女の従徒に、奴隷から血を集めてくるように命じた。従徒は何も言わず、恭しく頭を下げると下がっていく。

 広々とした部屋に連れてこられ、そこのソファに座らせられる。豪華な調度品。大きなシャが掛けられたベッド。開放的な窓に、眺めの良いバルコニーがある。おそらくは、この城の主の部屋だろう。つまりは父の部屋だ。吸血鬼の部屋と言えば、薄暗く、日光は遮られた人の寄り付かない部屋をイメージしていたが、全くそんなことはなかった。窓には曇りはなく、部屋の角にもチリ一つない。これだけの広さで掃除が行き届いているのは、多くの人が出入りして掃除をしているに違いない。

 父は執務台で備えられた大きな椅子に音もなく座る。その身のこなし一つ一つが優雅ユウガである。そのまま父は書類仕事を始めてしまったため、少年は手持ち無沙汰になってしまった。考える時間があるのはありがたいが、考えてもわからぬ事の方が多い。

 声を出すのも億劫オックウであったが、質問せずにはいられない。まずは自分の置かれた状況を確認する必要がある。

「父上は、この城の主なのですか?」

「そうだ。そう言えば、名を教えていなかったな。私はデラウ・オルアリウス伯爵ハクシャク。お前はこれから、シアリスと名乗りなさい」

「家名がオルアリウス?」

「そうだ」

 シアリス・オルアリウス。それがこの少年の名のようだ。もう一度、自分の手を見つめる。か弱い少年の手にしか見えない。先程の不気味な手とは違う。

「気になるかね。鏡ならばそこにあるぞ」

 布の掛けられた姿見スガタミが、デラウの指した先にあった。ふらつきながらもその前に立ち、少し覚悟を決めてから布をめくってみる。

 そこにはいたのは顔色の悪い少年だった。歳の頃は十が十一くらいだろうか。髪は漆黒、大理石のような白い肌に、小さな頭。大きく不気味な赤いヒトミ。唇はベニを挿したかのようにアデやかで、口を開けても牙は見えず、小さく愛らしい歯が白く輝くのみ。黒く肩口まである頭髪は、角度によっては金色コンジキに輝いて見える。

 月並みな例え方をするならば、人形のような美しさだ。

「自分の姿に見とれたかね? その姿は獲物を狩るときに役に立つだろう。大人の姿にも変化することはできるであろうが、しばらくはその姿でいなさい。しかし、服装がいかんな。私の服装を真似してみなさい」

 そう言われてもどうすれば良いのかわからない。今、自分が着ている服は、ただ体に布を巻き付けたようなものだが、脱げるようなことはない。それはそうだ。この服は自分の翼である。わずかに残った羞恥心シュウチシンが、本能のまま、翼を変化させ服にした。

 そのときのことを思い出してみた。すると服はゆっくりと形を変え、シアリスはネクタイのない着崩れたスーツ姿となった。子どもには似合わないが、それがまた可愛らしい。

「それは……、変わった作りの服だな」

 デラウの服装はタキシードのような礼服だ。どうやらこのキヌのようなハナやかな布生地も、翼を変化させて再現しているらしい。

「それと、殺さぬ者と接触するときは、髪色を明るい色にしておけ。そうだな……。銅のような赤毛にしておけ。母の髪色と同じだ」

 偽装のためだ。どうやら吸血鬼は皆、黒髪らしい。最も簡単にできる偽装ではある。赤銅色の髪色を意識すると、黒髪が毛先から明るくなってくる。瞳の色を父と同じ、澄んだ青色に変えた。

 そうこうしていると、廊下に人の気配を感じた。どうやら視覚だけでなく、嗅覚、聴覚などの感覚も研ぎ澄まされているようだ。

 扉がノックされ、デラウが入れと呼び込む。

 先程の女従徒が持ってきたものは、大きな蓋付きの瓶に赤い液体を並々と注いだものである。

 蓋はしてあるもののそれが血であることは匂いで判る。

「どうやらこの子は噛み付くことに抵抗があるらしい。しばらくは多くの血が必要となる。新しい奴隷を確保しておけ」

 また女従徒は声も上げず、ウヤウヤしくしく頭を下げた。その肩は小さく震えているようだった。父はどうやら読心術にも優れているらしい。魔法によって心が読まれたのだろうか。ただの観察眼だろうか。シアリスが牙を突き立てることに躊躇したことを見逃さなかった。

「奴隷を殺したのでしょうか」

 シアリスが問うた。女従徒は答えず、デラウが言う。

「いいや。殺してしまえば血はもう取れない。奴隷どもから少しずつ血を集めたのだ」

 少年は少し安心した。殺していたら、もう後には戻れないような気がする。しかし、空腹には勝てない。殺してしまっても良いという思考、殺したいという欲求が、頭を離れない。デラウが蓋を取る。むせ返るような鉄の香りが、食欲を刺激し、ヨダレが口の中を満たすと同時に、犬歯が肉食獣のように伸びるのを感じた。

 もう我慢はできなかった。

 瓶を手に取るとそれを一気に飲み干す。四、五リットルほどはあるだろうが、一息で飲み干した。色々な人の香りの混ざり合ったそれは、少し固まり始めており、粘りがあって喉越しは最悪で、味もなにもあったものではないが、シアリスにとってはまるで甘露カンロであった。全身に力がみなぎるのを感じる。体が暖まっていき、文字通り五臓六腑ゴゾウロップに染み渡った。しかし、先程の少女に噛み付いたときのような、満足感は得られなかった。

「ひと心地ついたかね」

 デラウがかなり待ってから訊いてくる。シアリスは半ば呆然としていたが、その問いで目を覚ました。自分の口の周りについた血を舐めとる。舌はまるで蛇のように伸び、顔全体でも舐め取れそうだ。

「ふっ……。行儀作法を教えねばならんな」

 デラウはポケットから取り出した手拭いで、シアリスの顔を拭き取った。このハンカチも翼なのかという疑問は置いておくことにする。

「さて、多くの課題ができたわけだが、まずは口裏合わせをしなければならんな。シアリス、母が恋しいかね」

 シアリスは問われ、少し考えた。デラウの居室には、デラウ自身の肖像画ショウゾウガとともに、まだ少女のような顔つきの女性の肖像画が飾ってある。それをチラリと見てから、「いいえ」と答えた。

「うむ。素晴らしい。それで良い。お前の母はお前を産んでから、しばらくして死んだ。お前が物心ついたときには、亡き者であった。だから、お前は母を知らん。もし、母が恋しいかと誰かに訊ねられたら、恋しくないと答えなさい。そうすれば母の愛を知らぬお前を憐れに思う者もいよう」

「そう言う設定ですね」

「そうだ」

 デラウは事も無げに言う。

「そして、私は愛妻家であった。私の妻を奪ったお前を憎んでいた。お前のことを養ってはいたが、ことごとく無視していた」

 シアリスは言葉を継いだ。

「それでシアリスは、この歳になるまで社交界には出ず、城に……、いえ、別の城に閉じ込められて暮らしていた、と。多少の世間知らずはそれで説明がつきますね。なぜこの度、子息と和解なされたのでしょうか?」

 デラウは少し驚く。シアリスの生まれたばかりとは思えぬ程の頭の回転に舌を巻いた。まるで他人事のように語る声、幼いが動じないその立ち姿。楽しくなってきて、口元が歪む。子育てとはこうも好ましいものなのか。

「心の変化があったのだ。先日、長年勤めていた家令の息子が死んだ。家令は嘆き悲しみ、主人である私に激怒した。子を大切にしなさい、と。あなたの愛した妻が残した、最後の希望を無碍ムゲにするな、とな。家令は礼を失したとして、自ら職を辞した」

 平民である部下が、貴族である伯爵にこのようなこと言うことは、命を懸ける結果となるが、デラウはそれを許した。しかし、家令は自分自身を許さなかった。そして、亡き妻の愛した子を、同じように愛すると誓った。と、言う設定だ。

 人間の古参コサンの家来たちは、情報統制ジョウホウトウセイにより、シアリスの存在は知ってはいたが、居らぬものとして扱っていた。その結果、今ではほとんどの家来がシアリスの存在を知らず、会ったことも見たこともないという状況である。

「設定は以上でしょうか」

「そうだ」

 その後、シアリスはいくつかの質問をした。

 魔法にしか見えない力をデラウは使った。この世界では普通のことなのか、気になったので訊ねてみる。

「魔法? いや、お前は魔術師ではない。そういった教育は受けていない。不滅者としての力を言っているのならば、お前にも使うことはできる。既に使っておる」

「我々、不滅者イモータルは、影を使う。これをそのまま『影の力』と呼んでいる」

 どうやら魔法とは少し違うようだ。知識のないシアリスにとっては、似たようなものである。つまり、理解できなかった。

 シアリスは吸血鬼ヴァンパイアという単語を、デラウの口から聞いていないことに気が付いた。吸血鬼というのは、人が付けた名前である。吸血鬼自身が、吸血鬼を名乗ることはない、ということなのだろう。

「私の正確な年齢は、いくつなのでしょうか。誕生日は?」

「お前は今、丁度、今日、十二歳となった。十二年前の太綱タイコウ1412年の十月一日が誕生日となる」

 つまりは、今日は誕生日というわけだ。太綱というのは年号だろうか。

 十二歳……、鏡に映った姿よりも年上の設定だ。食うに困っていたわけではないだろうが、親に無視され続けた結果、発育は遅くなった、ということにしておこう。

「父上の年齢と、母の素性は」

「太綱1377年一月二十七日生まれ、三十五歳。妻との結婚は二十一のとき、当時の妻は十五歳。結婚から一年後に出産。二年後に他界。妻の実家は地方の領主の家系であったが、何者かに惨殺ザンサツされる事件があり、ただ一人取り残された。そこに婿入りする形で私が来た。オルアリウスというのは妻の家系だ」

 惨殺。殺して、乗っ取った。姿を変え、時間を掛ければ、簡単なことだ。

「他にはなにかあるかね」

 デラウが質問を促した。だが、考えがマトまらない。

 もし、デラウがシアリスに生前の……、吸血鬼になる前の記憶があると知ったら、どうするだろうか。そして、吸血鬼としての本能が薄く、無用な殺しを喜ばないとしたら……。この残酷非道ザンコクヒドウな吸血鬼はどうするのだろう。

「父上の本当の年齢はおいくつなのでしょうか」

「気になるかね」

「気になります。不滅者というものが、どれだけ生きられるのか。興味を持たずにはいられません」

 デラウはふと息を吐く。

「私は大綱歴が始まる以前の生まれだ。二千七百歳ほどになる。正確な年はわからんがね」

 それほどまでに長く生きながらえたものが考えることはなんだろうか、そして、彼は私を作った。彼は私が初めての子だと言う。私は従徒たちと何が違うのだろうか。

 色々と吸血鬼としての質問が絶えないが、もし、質問をしたらどうなるか、恐ろしい結果になるかもしれない。慎重になるべきだ。

「取り敢えずは以上です。ですが差し支えなければ、図書室での読書をお許しください」

 貴族の立派な城だ。図書室の一つや二つあるだろうと当たりを付けた。

「図書室?」

 ビクリと体を震わせた。不味マズいことになったか?

「いや、そうか。言葉が喋れるのだ。ある程度、生前の記憶が死体に残されているものかもしれんな。私は生まれたときの記憶も、生まれる前の記憶もほとんどないが……。個体差があるのかも知れんな」

 何か一人で納得してくれた。胸を撫で下ろす。しかし、気になることを言わなかったか。死体に記憶が残っている? 死体とはなんのことだ?

「図書室も良いが、まずは自分の部屋の位置を覚えなさい。その後、図書室に案内をしよう」

 デラウが目配せすると、ずっと部屋のスミに控えていた従徒が扉を開けた。どうやら案内してくれるらしい。横目で見たデラウは既に机の上の書類に目を通し始めていた。貴族としての仕事があるのだろう。

 部屋を出た。廊下の窓から日が差し込んでいる。シアリスは手の肌を(服は翼皮なので裸も同然なのだが)、日光にサラしてみた。なにも変化はない。思い切って全身に太陽の光を浴びてみる。暖かい。太陽を少しだけ見てみる。眩しくはない。網膜モウマクが焼けることもない。どうやら光にも強いようだ。

 その様子を黙ってみていた従徒は、決して日光には当たろうとしなかった。案内の途中でも、日の当たらない所を選んで通っている気がする。どうしても日に当たらないといけない場所は、素早く通り過ぎるようだ。不滅者と違い、従徒は日光が苦手のようだ。

「部屋に行く前に、私の従徒に会いたいのですが。どこにいますか」

 従徒は首を横に振るだけだった。あの少女が無事なのか気になるが、女従徒は案内する気はないらしい。少女がいる場所を知らないのかもしれないし、命令以外のことはしないのかもしれない。彼女は父の従徒であって、シアリスの従徒ではないのだ。

 城は広いが、人は見かけない。この辺りにはあまり人は入ってこないようになっているのかもしれない。迷路のような廊下で迷えば、一苦労することになりそうだ。

 とりあえずは彼女の案内に従い、自分の部屋の位置とデラウの部屋の位置、図書室の位置を覚えなければいけないだろう。


 ◆


 やはり、というか、思った以上に城は大きかった。城の名は、オールアリア城と言うらしい。代々祖先から受け継いできたもので、オルアリウスの家名の由来でもあるらしい。

 デラウは伯爵という地位にあると言っていた。貴族の中では三番目に高い地位。中位の貴族である。それが、これ程立派な城を持っているのは珍しいのではないのだろうか。疑問に思えど、質問する相手はおらず、かといってあの父親を質問攻めにするのは、ボロが出そうで気が引ける。

 図書室にて疑問を解消しようと考えていたのだが、文字が頭に入ってこない。文字を読めることには安堵し、いざ読み始めてはみたものの、思った以上に精神的な疲労が蓄積チクセキしていたようで、すぐに投げ出してしまった。もともと本をゆっくり読むような趣味はないし、ここに置いてある本はどれも分厚く重い。子どもの大きさの手では、読みづらいことこの上ない。

 そういうわけでそうそうに諦めたシアリスは、自室へと引きこもった。廊下では誰ともすれ違うことなく、数多くの部屋のどれからも人の気配はない。

 この城で確認した人の種類は、七種類である。

 まずは自分たち吸血鬼である貴族。次にその支配下の従徒。人間の騎士。そして、貴族ではないが名家ではある家令、家政、常勤の兵士たち。最後に奴隷である。

 家令や家政たちは遠目でチラリと見えただけであるが、たしかに普通の人間だった。それだけで確信できてしまうのが、吸血鬼の力である。理性を失くし彼らを襲うようなことがあれば、父の逆鱗に触れる可能性がある。なるべく近寄らないが吉だろう。彼らは近隣の村や街から通っているものも入れば、泊まりで働いているものもいる。当直のような交代制かもしれない。

 貴族の居住スペースにはなるべく入ってこないようになっているようで、廊下でもすれ違うことはない。恐らくだが、この辺りの掃除などは従徒がコナしているのだろう。人間たちは、この城の主が吸血鬼だとは知らないのは明白だ。

 一つ、覚えたことがある。吸血鬼の主な食事である人種のことを、恒人メネルという。この世界で、もっとも栄えている知的種族だ。見た目は、シアリスが前にいた世界の人間に似ているが、髪色・髪質は様々である。

 この城には奴隷がいるとは言葉では聞いたものの、実際に見たわけではない。だが、あれだけの血の量を集めてきたのを見るに、それなりに多くの奴隷がいるようだ。彼らにも仕事があるのか、それとも監禁状態にあるのかはわからない。ただ、生きた血液パックとして飼われているのは、考えずとも判る。デラウは奴隷を確保しておけと従徒に命令していた。どこかで攫ってくるのか、奴隷商人から仕入れるのかはわからないが、もし、自分がこのまま何もしなければ、怪物の家畜と成り下がる人が増えることになる。

 ベッドで目を瞑って、そんなことを考えていた。良心の呵責を覚えても、自分が良ければ良いと眠り続けるのが、昔の自分だ。もう後悔はしたくない。寝ているときに、あのときにああしていればこうしていればと、無意味な想像をしたくないのだ。

 シアリスは立ち上がると、父の執務室に向かった。廊下は薄暗いが、それぞれの燭台に火が点っている。誰かが付けたのだ。重厚な扉をノックすると、中からすぐに、入れと声が聞こえた。

「シアリスか。もう、読書は良いのかね」

 デラウは優しく言った。執務はほとんど終わり。暇を持て余していたところである。

「ええ、父上。実を言うと、本の内容を理解できるほど体力に余裕がなかったようです」

 デラウは苦笑する。

「そうか、そうかもしれぬな。なにせ、お前は生まれたばかりだ。寝て食って出すだけが、生まれたばかり子の仕事だ」

 シアリスは頷いた。至極真っ当な意見と言える。生後(?)一日目から図書室で勉強し始めては、どんな頭でっかちの育つのか親としては不安になるだろう。

「出す、ですか。まだ何も出してませんが……」

「言葉のあやだ。不滅者である我々は出す必要はないからな」

「そうなのですか。安心しました。体に異常があるのかと思い始めていたところです」

 すでに日は沈んでおり、生まれてから八時間は経っている。あれだけたくさんの液体を飲んだのに、一度も排便をしなかったことを今更、思い至った。では老廃物はどこに行くのだろうと考えたが、今はその問題は隅に追いやっておく。

「実は父上にお願いがありまして参りました」

「ほぉ、さっそくおねだりとは。冥利ミョウリに尽きると言うものだ。なにが望みかね」

 父の血の気のない顔には楽しげ表情が浮かんでいる。初めての子育てを楽しんでいるのだろうか。だが、二千年以上も生きたこの吸血鬼が、子を一人も持たなかったとは信じ難い。

「狩りに出かけたいと思っております。その許しを頂けますでしょうか」

 ピクリ、とデラウの眉が動いた。

「狩り? 今すぐにか? 先程の血では足りなかったと言うことかね」

「有り体に言えば、そうです」

「ふむ……」

 嘘である。血は十分だ。飢えも感じてはいない。心の奥底にある殺人衝動は触れると熱いが、気にしなければ気付きもしない程度だ。

「先程、お前が飲んだ量で、私ならばひと月は飢えることはない。お前が若いからといって、それほど飲む量に違いがあるとは思えんな。何か別の理由があるのではないかね」

 見破られた。正直に話すべきだろうか。新しい奴隷を増やすのは嫌だ、と。心優しき吸血鬼を父は認めるかどうか。

 何千年もの間、人を殺し、家畜として扱ってきた父の顔をジッと見つめる。黒い髪は少し波打ち、青く澄んだ瞳が美しい。親子だと言われれば、確かに親子だろう。だが、血の繋がりはないはずだ。父の喋り方、伯爵という地位、誇り高そうな引き締まった顎。

 プライドだ。

「……確かに軽率な嘘でした。正直にお話します。奴隷たちの血は悪くはありませんでした。ですが、いつまでその血に甘えるわけにはいきません。自らで狩り、その生き血を啜らねば、私は不滅者として……、いえ、吸血鬼と恐れられる存在として、私が、私を許せないのです」

 デラウは自分のこともシアリスのことも、一度も吸血鬼とは呼ばなかった。おそらく『吸血鬼』とは、蔑称である。シアリスは敢えて挑発するようにその言葉を使った。デラウは目を細めた。睨みつけるような冷たい視線は、小さな体に緊張を走らせる。

 デラウが立ち上がると同時に、マントを出現させて羽織る。

「良いだろう。さすが我が子だ。狩りに出掛けようではないか」

 シアリスは少し驚いた。ついてくるつもりなのか。

「ええと、一人で狩りに行くつもりだったのですが……」

「馬鹿を言うな。生まれてまもない子を放り出す親がどこにおる。我々は虫ではないのだぞ」

 至極真っ当だ。まさか、この殺人者にここまでの情愛が存在するとは、誤算である。

 もし父がついてくるとなると、獲物を選ぶことはできないだろう。色々と実験して、罪なき人を殺さず、傷付けずに済む方法を探ろうと思っていたのだが。

 誤魔化すのは面倒だ。父は狩人としての性質なのか、その牙のように鋭い観察力を持っている。ここまで来たのだから、敢えて正直に話すか。

「わかりました、父上。ですが、獲物は私に決めさせて頂けますか」

「口を出すなというわけか。良いだろう。狩りのやり方を教えるのみに留めよう。だが、お前が危険に飛び込もうとしているときは、止めさせて貰う。それくらいは構わんだろう?」

 随分と甘い。本当にこの吸血鬼は、父親を全うしようとしているように見える。シアリスはデラウの顔色を伺っていたつもりだが、むしろデラウがシアリスの顔色を伺っているような気がしてきた。

「ええ、それでしたら……。その、……ありがとうございます」

「気にするな。では、善は急げだ。オーキアス」

 どこからともなく現れた父の従徒に少し驚く。さっきとは違う従徒だ。背の高い総髪の男だった。

「狩りに行く。後を頼む」

「承知致しました」

 オーキアスと呼ばれた従徒の体を、黒い液体のようなものが纏わりつき覆い隠す。その液体が消えると、そこにはデラウそっくりの従徒がいた。

「よろしい。さて、お前の従徒も呼び出せ。そして、変装させるのだ。誰もお前の動向を探っていないだろうし、お前の姿をよく知っている者もおらんだろうが、用心に越したことはない」

「動向を? なにか探られているのですか」

「我らは貴族だ。貴族は常に探られおる。それに吸血鬼もな。吸血鬼狩り、怪物狩り、功名をたてたい冒険者。用心せねばならん。その両方である私やお前は、更に用心するべきだ」

 デラウは指を鳴らした。部屋の明かりが一斉に消える。オーキアスも消えた。だが、寝室の扉から気配がした。寝たふりをするらしい。

「我々は夜に活動する。昼間に飛べば簡単に正体が露見しまうし、闇の中でなら獲物見つけやすい」

「そう……なのですか? 闇の中の方が見つけにくそうですが……」

「ただの狩りならな。だが、我々が狩るのは、剣を持ち、魔除けを持ち、徒党を組み、火を使う」

「なるほど。闇の中で明かりがあるところを探せば、簡単に獲物を見つけられる、と言うことですね」

「左様。さすが我が子だ。まだ、生まれて一日目とは思えんな!」

 デラウがバルコニーへの窓を開けた。

「あの……、それで私の従徒はどうやって呼び出すのでしょうか」

「なに⁉ 本当に私の息子なのか?」

 冗談めかしてデラウが言う。シアリスは肩を小さく竦めた。意外と吸血鬼は陽気なのかもしれない。

「集中しろ。居場所がわかるはずだ」

 集中しろと言われても、何をどう集中すれば良いのか。なんとなく目を閉じて、感覚に集中する。何もわからない。

 だが、何か別の感覚がある。これは影だろうか? 色んなものの影。わかる。自分の影がポツンと一つ。小さな部屋の小さなベッドに寝ている。

「これは……、凄いですね。えっと、居場所がわかりました。次はどうすれば?」

「名前を呼ぶのだ。声は空気にではなく、影に乗せろ」

「わかりました。わかりましたが、彼女の名前を知りません。教えて貰えますか」

「そんなものは私も知らん。さっき、お前が食い殺す予定だった者なのだぞ? 知るわけがなかろう。だが、簡単に名前を知る方法がある。今、付ければ良い。従徒との繋がりは見つかったのだ。頭に響いた音をそのまま名前にしろ」

 本気で言っているのかと思い、父の顔の様子を窺うが、表情でさっさとやれと言ってきている。仕方なくさっきと同じように集中し、彼女の存在を認識する。彼女の影がベッドから起き上がるのを感じた。どうやらこちらが探っているのを察知したらしい。

 シアリスという自分の名は、どういう意味があるのだろう。言葉はわかるのに、こう言った知識が不足している。今思えば、生前に覚えた言葉の音を思い出せない。どうやら言語の記憶はされてしまったようだ。だが、音の響きは思い出せないが、知識としての言葉、例えばコトワザや慣用句、動植物の名前のようなものは、こちらの世界の言語の響きに変換されて思い出すことができる。

「ファスミラ」

 ファスミディスを語源して、名付けをした。こちらの世界のナナフシに似た昆虫だ。女性につける名前としてはどうかと考えたが、やせ細った彼女の姿が脳裏から離れず、ナナフシの枝のような手足を連想させたのだ。

 シアリスの足元の影が盛り上がる。まるで床を突き破って何者かが現れるような様子だが、床は破れることはなく、そして音もない。影が少女を形作ると、徐々に色を変え、黒い簡素なドレスを着た、線の細い少女と成る。妖艶とも言えるような雰囲気を称えている。髪の色が明るい茶色だったはずだが、今はシアリスやデラウのような黒髪になっていた。

「お……お呼びですか、ご主人さま」

 ナナフシのようなやせ細った印象はなくなっていため、シアリスは驚いた。ファスミディスと言うより、烏揚羽カラスアゲハのような印象となっていた。だが、可憐な印象とは裏腹に、その体は小刻みに震え、恐怖に支配されているのが窺えた。

 父の言っている意味がようやく解り始めた。自分にも吸血鬼としての本能が備わっている。従徒は言わば、吸血鬼の手駒。彼らは吸血鬼に似た生態を持つが、その力は夜しか発揮されず、陽の光に触れると力を失う。不死者であるが、か弱い存在なのだ。

 唐突に、この出来損ないの不死者に嫌悪感が湧いてきた。この少女を虐め、殺し、生き返らせて、また殺したい。これも吸血鬼としての本能なのだろうか。その感覚を押し殺し、その原因を探る。

 他の影を感じた。その影が泡立っているように感じた。この感覚は、デラウのものだ。影は膨大で、強い圧力を備えている。本能で、彼の強大さを感じ取る。彼の興奮が伝わってきた。この華奢な少女を破壊したいという衝動は、シアリスのものではない。デラウが感じていたものだ。シアリスの思考は、デラウの影の影響を受けることを知る。これは不滅者として、当たり前のことなのかはわからない。

「私の姿を真似て、私の部屋で待機していろ」

 シアリスは端的に命令を下す。一刻も早く、この少女を父から引き離さなくては。

「わかりました」

 ファスミラはぎこちなくお辞儀すると、シアリスの形を真似た。そっくりな姿となった彼女は、影となってバルコニーから消える。従徒には、主である不滅者の姿を真似る力があると、後で聞かされた。逆に、不滅者が従徒の姿を真似ることもできるようだが、使う機会は今までほとんどなかったとのことである。

「よろしい。では、参ろうか」

 激情はまるでなかったかのような落ち着いた声で、デラウは言った。そして、マントが大きな黒い翼に戻ると、ふわりと浮き上がった。シアリスもそれに倣う。まだ翼を上手く変形させることができないが、小さい翼の形になんとか取り繕った。が、変形が甘いため、上半身は丸出し、下半身は布を巻き付けただけのような格好になる。

「少し惨めだが……、まぁ、良しとしよう。今宵は私の風に乗りなさい。風を起こし、それに乗るのはコツがいるからな」

 デラウが軽く手を上げると、シアリスの回りに風が渦巻き、小さい翼に打ち付ける。すると、シアリスの体も宙へと舞い上がった。

「これは、心地好いですね」

「そうかね。もっと羽を大きく広げ、風を受け止めるのだ。そして、影の動きを覚えれば、すぐに自在に飛べるようになる」

 確かに父の影が渦巻き、風を起こしているのがわかる。自分も操ろうとするが、同じようにはいかない。ほとんどをデラウの風が補助して、シアリスの風が邪魔するような形になる。しかし、デラウは何も言わず、シアリスとともに空高くに舞い上がった。

「時間、場所、獲物。すべてに規則性を持たせてはいかん。目撃者はすべて殺せ。臆病なくらいが丁度よい」

 誇りを気にするような男が言うようなことではないな、と考えていたら、顔に出ていたらしい。デラウは器用に仰向けで飛んで、シアリスと向かい合う。

「プライドが許さんか? だが、見つかり、追跡され、殺されることの方が、余程の恥だ」

 諭すようにシアリスに言う。シアリスも概ね同意だが、敢えて若さの反抗をしてみる。

「ですが、我々の力を持ってすれば、人間など取るに足らない存在なのではないですか?」

 デラウは口角を釣り上げてから、クルリと身を翻して、速度を上げた。

「人間を侮らぬことだ。確かに万の軍勢に襲われようが、我々ならば跳ね除けるだろう。だが、万の軍を破壊した不滅者が、たった一人の人間に殺されることもある。人はすぐに数が増え、我々の生涯は長い。その生涯の中で、もし、不滅者を蹂躙できるほどの実力者と一人とでも出会ったら? 長く生きれば生きるほど、そういった機会が増えていくのだ。敵を作らぬこと、居場所を悟られぬこと、ゆめゆめ忘れぬなかれ」

 長生きの秘訣というやつだ。

 この世界の人間の中にも、人間離れした英雄が存在するらしい。それに狩人の存在をデラウはずっと気にしている。

「我々を殺すことが可能なのでしょうか」

 不滅者が殺される。というのは、なにか不自然な言い回しだ。太陽に当たっても平気だった。銀は? ニンニクは? 心臓に杭を刺されれば? 十字架は? 気になるところである。

「わかる、わかるぞ。血を飲んだ今、力が溢れているのだろう。全能感に体を支配している。産まれたてのお前には、厳しい感覚であろうな。だが、我々も死ぬ。心臓を刺されても、首を落とされても、灼熱で灰となっても、永久凍土に封印されても、我々は生き残るだろう。だが……」

 勿体ぶった言い方だ。この話術にもしばらくは我慢しなくてはいけない。

「我々が血を飲むとき、その血から生命力も奪い取る。首から血を飲んだときと、瓶から飲んだときでは、満足感が違ったはずだ。瓶からでは摂取できる生命力はわずかだからな」

「では、その生命力が尽きれば、死ぬ」

「生命力が尽きたところで、死ぬわけではない。生命力が尽き、我らの本性が表に出たとき、初めて不死性が失われる」

「本性……とは?」

「産まれたままの姿と言うべきかな。この姿だ」

 デラウは優雅に振り返る。振り返った姿は、デラウと高貴な顔とは言えなかった。

 青白い肌、浮き出た血管、節くれだった関節、飛び出た長い牙、爪。おそらくは自分も半日前はこの姿だったのだろう。

「人の姿を保てなくなったとき、最後にはこの姿になる。このように自分で成ることもできるがな」

「どうやったら生命力が尽きるのですか」

 デラウは元の姿に戻った。いや、この場合は人の姿に変身したというべきだ。

「力尽きるまで死に続けるしかない。それ以外にない。しかし、まるで殺す側のような聞き方だな。近いうちに不滅者を殺す予定でも?」

「ええ。実は殺したい相手がいまして。その者は、先日、子どもが産まれたようです。幸せの絶頂にある者を殺すのは心が踊ります」

 デラウは一頻り笑う。シアリスもクスクスと笑った。

 月明かりのない星空を飛ぶ。二匹の巨大な蝙蝠の不気味な鳴き声が、暗闇に響いた。


 ◆


 初めての狩りは充実したものとなった。

 野営していた傭兵か、あるいは山賊だろう。四人は火を囲んでいる。どこからか攫ってきたであろう女を犯し、殺したあとだろう。死体はなかったが、臭いでわかる。精液と若い女の血の臭いだ。

 だから躊躇はしなかった。

 筋肉のある首は、皮膚を破るのに力を必要とした。手加減はしないが、噛みちぎってしまっては血を吸いづらい。現に父は見事な手際で、二人の屈強な男を打ち倒し、最後に残った者へ、その接吻を与えた。

 シアリスはと言えば、一人にすぐに噛み付いて、それで終わりだ。いきなり噛み付いてしまったら、他の者への対処ができない。

 そして、気付いたことがもう一つ。

 死んでしまわないように気をつけて飲んだはずだが、男はすぐに絶命してしまった。従徒にすることはできなかった。

 デラウ曰く、従徒となる条件は、自分も知らないらしい。なんでも吸う者と吸われる者の相性が良くなければいけない、とのことだ。吸血鬼からすれば、従徒にできる人間は、とても魅力的に映るらしい。もちろん魅力的とは「美味しそう」あるいは「美味しい」という意味である。

 だから例え、噛み付く前に従徒にできると気付いたとしても、欲望に負けて吸い尽くし殺してしまう。欲望に打ち勝ち、死んでしまう前に牙を抜いても、生き残るかは運次第ということだった。だから、従徒は増えすぎるということはない。それでも長く生きた吸血鬼のなかには、数千人の従徒を従えた猛者もいるらしい。

 今、デラウが飼っている従徒は、たったの三人。三千年近く生きたにしては、かなり少ない。

 それもそのはずである。父は巣の周りで自分の正体が知られ始めると、従徒を身代わりにして生き延びてきた。場所を移す度、従徒の一人が犠牲になるのである。定期的に従徒を補充しなければ、数は増えないのだ。

 父は慎重な性格だ。そのおかげで長く生き延びたのだろうが、不規則に巣を変えるために、従徒は減っていくことになる。ただ、この城、この土地には思い入れがあるらしく、様々な工作をして、長く居付いている。シアリスの偽の生い立ちも、その一環である。

 今や、狩人や民間人が持っている吸血鬼の知識は、吸血鬼の殺し方ではなく、「吸血鬼の従徒」の殺し方にすり変わっていた。従徒は、陽の光を浴びると弱り、知覚過敏のせいでニンニクの臭いを嫌う。心臓に杭を刺されても完全に死ぬわけではないが、そのまま再生できなければ、腐り落ちて死ぬらしい。残念ながら十字架の話は出てこなかった。この世界にはそれを象徴する宗教がないようだ。

 これはの遠大な計画らしい。吸血鬼の正しい知識を広めないことで、優位に立つとのことだ。中には吸血鬼をテーマにした小説を、冒険譚と偽って書物にしたり、吟遊詩人に歌わせたりする者もいるのだとか。

 吸血鬼たちは孤高の存在というわけではない。その存在は珍しいが、決して横の繋がりがないわけではない。何年かに一度、集まって会議を開くそうだ。(デラウの言う「何年」は、おそらく何十年、何百年という単位の気がするが)

 というわけで、各国・各地に存在する吸血鬼の伝承は、虚実の混じり合うものとなったようだ。これにより不滅者の存在は、世間に認知されていない。従徒こそが、吸血鬼として認識されていた。


 二日目の朝となった。

 どうやら吸血鬼の体は睡眠を必要としないらしい。棺桶も必要ない。

 父との初めて朝食、人間としての朝食である。

 シアリスは、貴族らしいマナーは知らないが、それなりに行儀よく食べることができたと思う。前世からの教養と、観察眼、そして、それを熟すことができる肉体のおかげだ。

 吸血鬼には人間の食事は必要ないが、食べても問題はない。だが、排泄はしないので、どこに消えるのかは謎のままだ。それでも偽装のために、定期的に手洗いには行かなければならないのが煩わしい。

 この城に住む人間たちとはじめて顔合わせすることとなる。自分はこの城に住んでおらず、どこかの別荘で軟禁状態だったことを皆が承知していた。しかし、それがただの偽装であるとは、知るものはいない。騙すのは心苦しいが、吸血鬼であること知られれば、殺さなければならないのであれば、これも彼らを守るためと納得できる。慎重なデラウなら身近な人間を簡単に殺すようなことはしないだろう。

 従徒であるファスミラも次いで紹介される。彼女はシアリスの専属の家政として雇われたことになっていた。てっきり従徒の存在は隠しておくのかと思っていたが、同じ城に暮らすのに、それは無理があるということなのだろう。

 兵士も合わせて百人ほどの城に勤めている。彼らは、美少年の跡取りと、そのお付の美少女の突如の出現に沸き立った。口々に挨拶と祝辞を述べていくため、愛想笑いで誤魔化してやり過ごす。とくに若い家政たちは、熱心にシアリスを眺めている。

(これならに困ることはないな)

 という考えを振り払い、別のことに注意を向ける。

 自分は様々な欲望から解放されたが、性欲はどうだろうか、と考えた。父が婿入りしてこの城を乗っ取るにも、それなりの期間を要しただろうことから、つまりはそういうこともできるのだろう。もっとも性欲に支配されるほどではないはずだ。思春期に入ろうとする少年の体でこうなのだから、完全にコントロールできるだろう。

 さらに言えば、人間との間に子どもはできるのか、という問題がある。

 おそらくだが、吸血鬼は人の死体から作られる。死体に何らかの魔術的な要素を追加し、蘇ったとき吸血鬼となる。

 吸血鬼の正体である姿は、とても人間とは言えないが、生物としての機能は有している。生殖機能もそのままなら、子どもを孕ませることも可能かもしれない。しかし、吸血鬼の作り方が想像通りならば、産まれてくる子どもは人間なのだろうか。それとも……。

 と、ここまでで考えるのをやめた。なるようにしかならない。

 さて、二日目は、城の探索と城周辺の地理の勉強で終わった。実に人間的な一日だった。だが、夜はデラウに吸血鬼としての戦い方を教わった。これもある意味では、とても人間的な夜だった。普通の吸血鬼は、親から技を教わったりしないらしい。

 吸血鬼にはとても効率的な肉体が備わっている。だが、それは人間の限界を超えていない。とても強靭で、膂力も尋常ではないが、人間でも可能な範囲だ。シアリスの短い手足では、勝てない人間もいるかもしれない。

 次いで、牙、爪、翼。野蛮な野生の力。出し入れが可能で、変形して完全に隠すことができる。そしてこの鋭さ、強靭さは、確実に役に立つだろう。

 そして、これがもっとも重要な、影の力だ。

 この不定形の力は、色々なことに利用できる。手足のように使ったり、プロペラのようにして風を舞い起こすことに使ったり、指先の動きを伝えて蝋燭の火をかき消したり、触覚のような感覚器としても機能する。もっとも有用なのは、自分自身を影のなかに隠せることだ。体を紙のように薄くして隠れるのだが、その状態ならば小さな隙間にも入り込める。

 しかもこれは、何時でもどこでも使える。陽の光にあたると影は濃くなるから、さらに強い力を使えるのだ。夜の方が広範囲を支配できるが、昼の方が出力は上がる、と言った感じだ。

 そして、これは従徒にはできない。せいぜい本体の吸血鬼の周りを影となる程度である。その力は陽の光に当たれば失われ、苦痛とともに、変装が解除される。吸血鬼には影ができない、鏡に映らないなどのも、この辺りから来ている。

 この従徒と不滅者の差異を利用して、偽りの弱点を広めたようだ。多くの従徒を犠牲にして。

 考えてみれば当たり前の話だが、何千年も生きられる、空を飛ぶ地表の生物が、いつも地表の半分以上を覆っているであろう陽の光によって弱るなんて、そんな脆弱なわけがない。

 陽の光に弱るのと引き換えに、夜は強くなる? そんな条件付きの強さなのに、負けることがある? 死ぬ事がある? 馬鹿みたいな話だ。

 さて、最強生物に思える父であるデラウだが、弱点もある。というか苦手なことと言うべきか。

 吸血鬼は力が強すぎるし、影の力が便利すぎて、体術について関心がない。格闘については素人に近い。確かに爪と牙の使い方には一家言ありそうだが、足運びや力の加え方は、昨日殺した傭兵の方が、心得がありそうだ。


 三日目、四日目は、読書に費やした。この世界の常識を学んでおくことは急務だ。

 この集中力であればと考え、肉体の鍛錬を始めてみた。が、ほとんど、というか全く効果は現れない。筋肉痛になることもない。どうやら筋肉は成長しないらしい。

 もともと吸血鬼の身体は完成されており、これ以上の成長は見込めない。そして、この子どもの肉体は自然とは成長することがない。

 生命力を余分に消費することで、通常よりも筋力の増強をしたり、肉体を変化させて年齢・容姿を調整することは可能だとデラウは言っていた。ただし、元の姿に戻るにも生命力が必要になるので、乱用は避けるようにとのことである。

 今の姿が気に入らないからと、度々、姿を変えていたら、周りの人間に怪しまれることは必至だ。しかし、成長期の年齢に偽装しているシアリスは、都度、人間的な変化をつけていく必要がある。その辺りの塩梅を違えないようにしなければいけないのが面倒だ。

「シアリスさま、私も狩りに、行きたい、です」

 週に一度は狩りを行い、五度目の狩りのときである。既に両手の指では足りないほどの人を狩った。父は親子での狩りに飽きたのか、既に単独で狩りに出ることを許されている。今日も一人での狩りの予定だったが、ファスミラが同行を突然申し出た。

 今まで彼女から名前で呼ばれたことはないし、従徒が要求する姿を見るのは初めてである。

 いつも留守番を強いてきたから、ファスミラは狩りに行ったことはないはずだ。それどころか血を飲んだこともあるのか不明である。

 従徒も血を飲む。不滅者と同様に生命力を必要とするならば、飢餓キガを感じているのかも知れない。シアリスはそのことについて、今まで考え至ることがなかったことを少しだけ恥じた。

「血が飲みたいのか?」

 シアリスが訊ねると、ファスミラは少し体を震わせて頷いた。我慢の限界だったのだろう。そういえば父デラウの従徒たちは、どのように血の補給を行っているのだろうか。シアリスたちの狩りに同行したことはないし、デラウの奴隷たちから血を貰っているのだろうか。

「今まで飢えをどうやって凌いできたんだ?」

 純粋な疑問だった。飢餓が限界に達すれば、忘我のうちに人を襲ってしまうかも知れない。

「家畜の血を、モビクさまに分けて頂いてました。足りないときはネズミを。地下室のネズミで……」

 モビクとはデラウの口のきけない女従徒の名だ。どうやら従徒同士、助け合っているらしい。ネズミの血で空腹を紛らわせるとは、哀れにも思える。だが、吸血鬼の従徒にされた者には、好きに食事する自由もない。

 吸血鬼は動物の血で、飢えを誤魔化すことができる。ただし、充足感・満足感はほとんど得ることができない。その違いは解らないが、どうやら人間の血でしか充分に得られない成分があるらしい。

「わかった。つれていこう」

 どうやら、デラウが着いてこないときを待っていたようだ。この機会を逃すまいと勇気を振り絞った要求なのだろう。無下にするのは心苦しい。いつもはファスミラに、シアリスの姿で留守番をさせるのだが、今回はそれができない。どうするかと考えたが、正直、警戒し過ぎだろうとは思っていたので、無視することにする。代わりにベッドには毛布を丸めて膨らませて、布団を被せておいた。子どもらしい可愛らしい偽装だろうと、前向きに考えておく。

 ちなみにファスミラたち従徒の部屋は、従徒だけの共同部屋なので、偽装する必要はない。もし、人間に見つかったとしても、ただの家政が抜け出していただけだ。他の従徒がどうにかしてくれるだろう。

 ファスミラはシアリスの影の中に潜った。この状態であれば、シアリスがどれだけ速く動こうとも、ついてくることが可能だ。もちろん、空を飛んでいるときもついて来ることができた。従徒には翼はない。影の力を使って、擬似的な滑空翼を作り出すことはできるが、風を舞い起こすほどの力はなく、空を飛べるわけではない。

 シアリスの部屋にもバルコニーがある。デラウの部屋のものほど広くはないが、飛び立つのには充分だ。

 外の風を受けると、ファスミラが影の中でクルクルと踊った。興奮しているようだ。もしかしたらシアリスも、デラウとの初めての狩りのとき、遠足前の子どものようにソワソワしていたのかも知れない。

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