サラリーマン
サラリーマンとは、現業に従事せず、事務・サービス・販売関係業務に従事する者のことをさします。
「俸給生活者」「知識階級」「中流階級」「新中間階級」と呼ばれた彼らが「サラリーマン」として世間に広がっていくのが、大正後期でした。
欧米からビジネスの概念が入ってきたことにより、雇用関係や就業時間の考えが日本にも定着していきます。
三井、三菱といった大手企業で、9時~16時(または17時)までの就業時間が定められたのもこの頃です。
大正時代のサラリーマンは全有業人口の5~6%の少数派でした。
(昭和初期には30%に上昇)
大正9年国勢調査による職業別本業者に係る統計によると、農業が本業者全体の51.6%と圧倒的に多く、過半数を占めています。第二位は工業で19.4%、第三位は商業で11.6%となっています。
第二位が工業となっているのは、大正3年(1914年)から大正7年(1918年)まで続いた第一次世界大戦とその後の復興のために、様々な製造業が発達したためと思われます。
大正時代の背広は1着25~30円ほどだったため、サラリーマンの服装は背広よりも着物のほうが多かったようです。
(大卒のサラリーマンの初任給が50~60円、全体の平均月収が75~100円)
ただし着流しはダメで、袴を着用していました。
工場勤務は工場の作業服が支給されていたため、作業服姿で出勤する人もいました。
郊外の文化住宅から丸の内のオフィスに通うという現代のようなスタイルが確立されたのもこの頃です。
東京・大阪・名古屋など人口増加が進んだ都市では、鉄道会社を中心に沿線の宅地開発が行われました。
都市周辺にマイホーム(和洋折衷のモダン住宅)を求めるサラリーマンが急増。
さらには、サラリーマンたちを対象にした娯楽や芸能、文化産業が誕生しました。
月収を75円から100円もらっている当時のサラリーマンの家計では、遊びに使えるお金である「修養娯楽費」が月々平均7円(昭和11年統計)でした。
当時は白米10㎏が2円50銭の時代です。
修養娯楽費には、新聞代(月額90銭)やラジオ放送受信料(50銭)も含まれています。
当時のサラリーマンに人気のあった月刊雑誌『キング』(50銭)や『改造』(80銭~1円)を買ったり、新宿武蔵野館の洋画(50銭)やムーラン・ルージュ(割引時間35銭)を観にいき、喫茶店でコーヒーを1杯(15銭)飲むと、合計4円近くなります。月平均金額の7円の半分にあたります。
この頃から休日に家族揃ってデパートへ買い物に行ったり、私鉄沿線の遊園地に出かけたりするようになりました。
大正中期のサラリーマンを主役にした谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』を読むと、主人公の河合譲治は、月給150円を貰う電気会社の技師でした。
これは当時としては高給取りの部類です。
【参考資料】
総務省統計局 統計の歴史トリビア「第一回国勢調査で一番多かった職業はなに?」
( ttps://www.stat.go.jp/museum/toukei150/trivia/trivia06.html)
『日本における中産階級の生成と発展――明治から今現在まで』
( ttps://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/109628/WANGWeiting41.pdf)
次回は、尋常小学校です!
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