第21話 釦(ボタン)
昼の食事中、レイヴィスが声をかけてきた。
「――リリアーナ、何か困っていることはないか?」
「いいえ、ありません。お気遣いありがとうございます」
リリアーナは笑顔で答え、話を終わらせた。
――嘘である。
実家への援助問題がまだ一切解決していない。だがそれで困っているということをレイヴィスにだけは知られるわけにはいかない。
上から落ちてきた植木鉢も、拭き残しのワックスの件も、気にはなるが黙っていたら穏便に終わる。もしレイヴィスに伝えたら大騒ぎになるかもしれない。軽く流される可能性の方が高そうだが。
どちらにせよ、騒ぎにはしたくない。
使用人たちを威圧するようなことになったら、悪妻度が上がってしまう。
リリアーナは慎重に判断して、黙っておくことにした。
「…………」
レイヴィスは何か言いたげにリリアーナを無言で見つめている。
リリアーナは笑顔を浮かべて、「何もない」ことを無言で伝えた。
「――欲しいものとかはないのか?」
「ありません」
「……執事に、欲しいものがあると言っていたんだろう?」
「それは……」
あるとは言ったが、具体的には言っていない。
現金が欲しいだなんて言えるはずがないのだから。
そしてもちろんレイヴィスにも言えるはずがない。
「本当に何でもいいんだ。俺ならこの世界のあらゆるものを手に入れられる。天空の花でも竜の瞳でも」
「いえ、本当に……大丈夫ですから」
そんな大仰そうなもの、貰っても困る。扱いようがない。
「そうか……」
レイヴィスは明らかにがっかりしていた。
(もしかして、レイヴィス様が欲しかったのかしら……?)
それで、リリアーナが欲しがったことを口実にして手に入れるとか。
なら、それが欲しいと言ってもいいのだが。
(――いえ、ダメよ。高価なものをおねだりする悪妻になってしまうわ!)
だから何も望まない。
そもそも、この家で生活する分には何一つ不自由がない。
宝石にもドレスにも興味がない。そもそも自分が着るものでも、それの所有者は自分ではない。すべてエルスディーン家のものだ。
欲しいのは刺繍道具や糸ぐらいだが、それも揃っている。
「……リリアーナ、あとで書斎に来てもらっていいか?」
「はい」
まだ何か話があるのだろうかと思いながら、リリアーナは素直に承諾した。
リリアーナが書斎に足を踏み入れると、普段よりもさらに静かな雰囲気に包み込まれる。
ここは政務室とは異なり、当主のための空間だ
レイヴィスは執務机の引き出しから取り出した袋が、机の上で控えめな音を立てる。
「自由に使ってくれていい」
袋の中には金貨がずっしりと詰まっていた。
(ま――眩しい……っ)
金色の輝きはまさに金貨。まさに現金。
リリアーナが欲しかったものそのものだ。
「ど、どうして――」
「こちらに言いにくい使い方もあるだろう。足りなければ言ってくれ」
レイヴィスは何でもないことのように言う。
これだけの大金をぽんっと渡してくるなんて、さすが侯爵家。だが、本当にいいのだろうか。
「い、いいのですか? こんなに……受け取る理由が……」
レイヴィスはふっと笑った。
「君はあまりに物を欲しがらなさすぎる。だが、資金が必要な時もあるだろう」
言いながら、金貨の入った袋を一瞥する。
「何かの時のために置いてくれていてもいいし、どんな使い方をしてくれてもいい。これで足りない時は追加するが、その時は理由を相談してほしい」
「…………」
「どんなことでもいい。言いたくなかったら、言いたくないと言ってくれていい。俺はたぶん断らない。口を出すことはあるかもしれないが――」
金色の瞳がリリアーナをまっすぐに見つめた。
「俺は君に何不自由なく過ごしてほしいんだ」
その瞳は、その声は優しくて。
リリアーナを心配してくれていることが伝わってくる。
「あ、ありがとうございます……大切に使わせていただきます」
金額的にはかなりのものだ。
これがまさにリリアーナが欲しかったもので、破滅を防ぐための重要なピースだ。
実家の要求は底がないため、求める金額には到底足りないが――一度送ればいったんは引いていくだろう。
これで、ひとまず助かる。
――なのに、どうしてだろう。
胸の奥が、締め付けられるように苦しい。
素直に喜べない。レイヴィスからの気遣いが実家に貪られてしまうことが、ひどく申し訳なかった。
――それでも、リリアーナには他に選択肢がない。
レイヴィスを裏切っているような気持ちになりながらも、実家への送金を心に決めた。
「話はそれだけだ。戻ってくれていい。これは後で君の部屋に運ばせる」
「はい……でも、これだけの金貨……部屋に置いておくのは……」
「エルスディーン家の資産に手を出す愚か者はこの家にはいない」
ぐさりと刺さる。
いまのリリアーナはそんなつもりは一切ないが、小説でのリリアーナはエルスディーン家の資産を無断で実家に送金していた。
レイヴィスは金貨を一瞥する。
「それに――軽いセキュリティもかけてある」
なんだろう。盗もうとすると燃えたりするのだろうか。
やや不安になりながらも、リリアーナは頭を下げた。
「ありがとうございます。それでは……失礼します」
リリアーナは、まだ胸の奥に広がる虚しさを抱えながら書斎を出ようとした。
その時、くじいていた足がズキリと痛んで思わずバランスを崩す。
「リリアーナ?!」
どこかにつかまろうとしても何もなく、そのまま床に倒れた――が――
痛くない。
気づけば、床の上でレイヴィスに覆いかぶさっている格好になっていた。
――おそらく、倒れかけたところでレイヴィスに支えられたが、そのまま一緒に倒れてしまったのだろう。
「すまない、触れてしまった――」
「い、いえ。ありがとうございま――」
慌てて離れようとした瞬間、ふと何かが引っかかる感覚がした。
「…………?」
髪がどこかに絡まって、引っ張られるため動けない。
よく見れば、レイヴィスのシャツの釦(ボタン)にリリアーナの髪が絡みついていた。
「あ……」
気まずさと恥ずかしさに声が零れる。
レイヴィスも驚いたようだったが、すぐに落ち付いたようだった。
「動かないでくれ。俺が取る」
「はい……」
とはいえ、レイヴィスの膝の上に乗っている状況というのは、ひどく落ち着かない。
レイヴィスの身体にできるだけ触れないように、少し身体を浮かそうとするが――
「……頼むから、動かないでくれ……」
「はい……」
レイヴィスに声を抑えつつ懇願され、リリアーナは元の位置に戻り大人しくした。
その姿勢のままレイヴィスが釦に絡まった髪を外すのを待つが、どうにも悪戦苦闘している雰囲気が伝わってくる。ひどく絡まってしまったのだろうか。
申し訳なく思うのに、同時にレイヴィスから伝わってくる息遣いや、体温や香りに、だんだんと緊張してくる。
なんだかやけに心音も大きい――……
刹那、リリアーナは気づいた。上の方から聞こえる心音は、胸の内から響く自分のそれとは違う。
(もしかして、レイヴィス様から……?)
その激しい心音は、レイヴィスの胸から響いているようで――……
リリアーナは驚きのあまり、息を詰まらせた。
「――すまない。切る。下から二番目の引き出しのナイフを取ってくれないか」
「あ、はい――」
近くの机の引き出しを開けて、中の小さなナイフを取る。おそらく手紙の開封用のものだろう。
それをレイヴィスに渡す。
髪を切る雰囲気を感じ、リリアーナは身体をぎゅっと固めた。間違ってレイヴィスの指や服を切らせないように、じっと動かないようにする。
「――よし、取れた」
ほっとした束の間、貝でできた釦がコロコロと床に転がった。
釦を縫い付けてある糸まで切ってしまったのだろうか。
リリアーナはすぐさまレイヴィスの上から降りて、床に落ちている釦を拾う。まだ、糸が少しついていた。
レイヴィスに視線を向けると、彼は笑顔を浮かべた。
「ああ、大丈夫だ。君の髪は一本も切っていない」
「え?」
――てっきり、髪の方を切られると思っていたのに。
「切るわけないだろう。こんなに綺麗なのに」
何気なく言われた言葉に、リリアーナの胸が高鳴った。
この髪をそんな風に言ってもらったのは初めてだ。
「…………」
リリアーナは少し戸惑いながらも、貝釦をぎゅっと握りしめた。
「レイヴィス様、私が釦を付け直してもいいですか?」
「君が――?」
「はい。お裁縫は得意なんです。着たままですぐにできますから、少し待っていてください」
リリアーナは足を少し庇いながら自室に戻り、裁縫箱を取ってくる。書斎に戻ると、レイヴィスは椅子に座って待っていた。
「じっとしていてくださいね。すぐ終わりますから」
裁縫箱を机の上に置いてレイヴィスの横に行き、胸元にそっと手を伸ばした。
「失礼します」
リリアーナはレイヴィスのシャツの釦を外して、胸元を広げた。
レイヴィスが一瞬緊張した気がしたが、特に何も言わず無言で窓の外に目を向けていた。
リリアーナは布地を手に取りながら、取れた釦が付いていた位置を確認する。
その時、開いたシャツの間からわずかに見える鎖骨と胸の筋肉に、一瞬目を奪われる、
――自分と違う、男性の身体。わずかに伝わる体温と香りから、彼が生きてそこにいる実感を得る。
リリアーナは裁縫箱から針と糸を出して、シャツと質感の似ている白い糸を針に通す。釦に糸を通して、シャツに縫い付けるためレイヴィスに身を寄せる。
――緊張するが、それを伝えるわけにはいかない。
リリアーナの手には針がある、変に動くと危ない。
レイヴィスは黙ったまま微動だにせず、ずっと窓の外を眺めている。彼の手は、ただ膝の上に置かれているだけだが、どこか力が籠っているような気がした。
彼も、緊張しているのかもしれない。
(……早く終わらせないと!)
意を決して、しかし慎重に釦を付けていく。
その時、レイヴィスがわずかに喉の奥で呻いた。
「す、すみません」
細心の注意を払っていたが、針で傷つけてしまっただろうか――
焦るリリアーナに、レイヴィスは軽く首を横に振った。
「何でもない……君の指が動くたびに……少し気になるだけだ……」
「すぐに終わらせます」
糸が解けないように、きつくなりすぎないように、綺麗に仕上がるように気をつけながら、集中して一気に終わらせる。
最後に鋏で糸を切り、状態を確認する。
――完璧だ。
「はい、これで大丈夫です」
レイヴィスに微笑みかけると、彼もようやく緊張が解けたようにわずかに表情を緩めた。
その表情は柔らかかったが、少し消耗しているような気もした。
(緊張させてしまったかしら……)
余計なことをしたかもしれないと思いながら、シャツの釦を止めていく。
「リリアーナ、ありがとう。君の手は本当に器用だな」
「いえ……」
レイヴィスはリリアーナが縫い付けた釦にそっと触れる。
その表情がとても優しかったので、リリアーナは思わず見とれてしまっていた。
「……ところで、足の方は大丈夫なのか?」
「え?」
「庇って歩いていただろう?」
――気づかれていたなんて。
「だ、大丈夫です。躓いて少し痛めてしまって……あまり痛くないですし、きっとすぐに治ります」
「……もし、痛みが強くなるようだったら言ってくれ。腕のいい医者を集める」
足を軽くひねっただけなのに。放っておいたらそのうち治るものなのに。
しかも何人呼ぶつもりなのだろう。
「あと、君が躓いた場所はすぐに修繕しよう。いや、屋敷中の段差を解消させた方がいいか――」
「何もないところで躓いただけですから」
リリアーナは言いながら、階段の踊り場にワックスが残っていて滑ったなんて言わなくてよかったと思った。
(それにしても心配性というか……私が「妻」だから、大事にしてくれるんだろうけれど……)
リリアーナはレイヴィスの子どもを生むために大金で買われた。
何かあったら大変だ。死んだり、子どもを生めなくなるようなことがあれば、その原因を作った相手は相当な罰を与えられるかもしれない。
そう思うと、本当に言わなくて良かったと思った。
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