第20話 指導と植木鉢




 ――翌日。


「エリナ、あなたの朗らかさは長所だけれど、この場所には――特に旦那様の前では、その振る舞いは相応しくないわ」

「…………」


 朝食後、リリアーナは自室でエリナに向き合い、二人きりの指導を行う。

 使用人の教育は雇用者である貴族の義務でもある。リリアーナはできるだけ毅然と話すが、前に立つエリナの表情には陰りひとつすら浮かんでいない。


 ――まったく響いていないということが、リリアーナにもわかった。

 リリアーナはいままで使用人を指導してきた経験がない。むしろ、実家ではリリアーナが他の家族に指導される立場だった。


 エリナはリリアーナが女主人に相応しくないと思っているし、リリアーナ自身もそう思う。

 だが、レイヴィスにエリナを指導すると宣言した手前、何もしないわけにはいかない。


 それに、もしもエリナが配置換えで裏方仕事に回ってしまえば、物語の流れが大きく変わってしまうかもしれない。


 レイヴィスはエリナと真実の愛で結ばれる。

 そしてエリナは聖女になる。


 それが正しい物語で、二人の恋路を邪魔しないことがリリアーナにできる唯一のことだ。


 悪妻になって破滅することだけは回避するけれども、せめてそれ以外の仕事はやる。それがリリアーナの決意だった。


 ――だが、そんな打算的な心理を見透かすように、エリナは姿勢だけは完璧に、だが不満そうな表情を浮かべていた。


「旦那様はお優しい方だからあなたの振る舞いを許してくださったけれど、二度目はないわ。よく覚えておきなさい」

「……わかりましたぁ」

「……脅すような真似はしたくないけれど、このままでは、配置換えか、最悪解雇よ」


 唯一の切り札を取り出した瞬間、エリナの目つきが変わった。

 その視線をリリアーナは知っている。――憎たらしい邪魔者を捨てたい――そういう目。実家の家族から日常的に向けられていた目。


 リリアーナが言葉を失った瞬間、エリナは満面の笑みを浮かべた。

 まるでさっきの表情が幻だったかと思えるほど、明るく、自然に。


「奥様はお優しいですね」


 その声は穏やかで、だがどこか皮肉めいていた。


「もっとちゃんと怒ってくださらないと――そうだ。鞭でもいいですよ?」

「――そんなことはしません」


 使用人を鞭で指導なんて、そんなことをしたら悪妻度が一気に上がる。


 何より、そんなことはできない。鞭の痛みも、鋭い言葉がどれだけ心をえぐるのかも知っている。それを相手にぶつけるなんてことはできない。


 リリアーナがきっぱりと断ると、エリナは舌打ちした。


(舌打ち……? し、舌打ち? 聞き間違い……? いくらなんでも――……)


 女主人に指導されている時に舌打ちだなんて。

 唖然とするリリアーナの前で、エリナは再び明るく笑う。


「はい、これからは気をつけます♪ ご指導ありがとうございましたぁ!」


 一礼して元気よく部屋から出ていく。

 リリアーナはぐったりと椅子に座った。


(彼女は……素直なのね……素直すぎるぐらいに……)


 好意も不満も隠さない。全力で自分らしく生きている。


(……まるで主人公補正に守られているかのよう)


 自分は絶対に愛されてハッピーエンドを迎える。そう知っているかのような自信っぷりだ。


(これで少しは危機感を持ってくれたらいいのだけれど……エリナだってレイヴィスのことが好きなんだから、解雇されるようなことは避けたいはず……)


 エリナがレイヴィスに好意を抱いているのは明らかだ。解雇されるようなことはしないはず。それを信じる。


 リリアーナはしばらく椅子で精神的疲労を癒す。


(庭を軽く散歩したいわ……)


 そっと立ち上がって窓から外を見ると、丁寧に手入れされた美しい庭が広がっている。花々は見事なまでに整えられ、柔らかく風に揺れていた。


 リリアーナは部屋を出て、庭に向かう。途中誰かの視線を感じたが、特に気にしなかった。見られているのはいつものことだ。


 庭に足を踏み入れ、深く息を吸い込むと、花々の甘い香りと爽やかな空気に満たされる。

 しばらく庭を歩いていると、少し汗ばんでくる。


 ――その時、近くで何かが割れるような音がした。


(いまのは、何かしら……バルコニーの方から、音がしたような……)


 まるで誘われるようにバルコニーの方へ行ってみるが、誰もいない。


 少し警戒しながら辺りを見回してみるが、特に異変はない。


(気が立っているのかしら……少し落ち着きましょう)


 バルコニーの下が日陰になって涼しそうだった。休むための椅子とテーブルもある。


 そこで休もうと近づいていったその時、頭上から何かの影が落ちる。

 咄嗟に顔を上げると、ゆっくりと回転しながら落ちてくる植木鉢が見えた。


(あ、死んだ――)


 自然とそう思った。

 頭ほどの大きさのそれが、自分の頭を割る様子が鮮明に浮かび上がった。


 ――バリーンッ!!


「…………」


 植木鉢はリリアーナの目の前で、鈍い音とともに砕け散る。

 地面に湿った黒い土が飛び散り、鉢植えにされていた白百合の瑞々しい茎が衝撃で折れ、ぱっくりと割れた土から白い根が零れていた。


 まるで、自分の身代わりのように。


「……生きてる?」


 呆然と呟く。


 あと少し落ちる場所がずれていたら、あと一歩前に進んでいたら。

 終わっていたのは白百合ではなく自分の方。


 リリアーナは視線をバルコニーの上に向ける。

 だが、そこには人の気配はない。


(自然に落ちてきたとは思えないけれど……誰かが掃除の時に縁に植木鉢を置いて、そのまま忘れていたとか……?)


 そうしていると、大きな物音に気づいて様子を見に来た庭師と目が合った。


「ヴァン、少しいいかしら」


 恐縮しながら帽子を脱いで頭を下げる庭師の名前を呼び、そっと声をかける。


「どうやら上から植木鉢が落ちてきたみたい。片付けてもらえる?」

「は、はい。奥様……」

「忙しいところごめんなさいね。いつもきれいなお花をありがとう。毎日楽しみにしているの」


 屋敷内に飾られている花は、彼の手で育てられ、彼の手で摘まれたものだ。それを知っているリリアーナは、この機会に感謝の気持ちを伝えた。


「……この子は、かわいそうね。せっかく綺麗に咲いたのに……」


 ぽっきりと折れた花が、零れだした土が、哀れに見えて仕方ない。


「球根は無事そうですから、きっとまた来年綺麗な花を咲かせてくれますよ」

「そうなの? よかったわ」


 ヴァンの言葉にリリアーナは心から喜んだ。

 そして、来年はこの花を見れるのだろうかと、少し切ない気持ちになった。





 そしてリリアーナは屋敷内に戻り、二階のバルコニーに向かう。誰ともすれ違うことなく。


 屋敷のバルコニーに出ると、爽やかな風が吹いていた。さすが侯爵家のバルコニーだけあって広い。


 屋敷でパーティーが催される時は、ここも開放されるのだろう。その時は賑やかになるだろうが、いまはリリアーナ以外誰もいない。


(この辺りからかしら……)


 植木鉢が落ちてきたと思われる場所に近づいてみるが、何もない。綺麗に掃除されている。そして周囲に植木鉢のようなものはない。


(ここに置かれていたのが落ちたわけじゃなくて、誰かが運んできて上から落とした……? そんな、まさか……)


 それではまるで明確に悪意があるようで。


(誰かが誤って落としてしまって、怖くなって逃げたとか?)


 リリアーナは首を横に振った。

 思い込みはいけない。


(ただの偶然ね、きっと。誰も怪我していまいし)


 バルコニーから中に戻り、三階の部屋に戻るため階段を上がる。

 手すりを持ちながら踊り場部分を差し掛かったその瞬間、足元がつるりと滑る。

 身体が浮き、視界がぐるりと回った。


(あ、死んだ)


 階段を転げ落ちる自分の姿が鮮明に頭の中に浮かぶ。

 しかし、手が無意識に手すりを強く掴んでいた。落ちかけるも転落は免れる。手すりにしがみついたまま、なんとか体勢を立て直す。


「痛……」


 足首にかすかな痛みを感じる。軽く捻ったようだ。

 よろよろと踊り場まで上がり、床を見る。どうやらワックスの拭き残しがあったらしい。


 ここの担当は誰だろう。いや、掃除担当が犯人とは限らない。

 そして、もし担当者が犯人ではなければ、屋敷の人間全員を疑うことになる。そんな疑心は持ちたくない。


 もし犯人探しをしようとしたら、大袈裟に騒いで使用人を威圧する悪妻になるかもしれない。


(まずは、ワックスの拭き残しを対処してもらわないと……)


 そう心に決めると、リリアーナはふらつく足を引きずりながら立ち上がった。

 そして、偶然通りかかった若いメイドに声を掛ける。


「マリー、少しいいかしら」

「は、はいっ」


 名前を呼ばれたメイドは緊張しながらリリアーナに頭を下げた。そういえば、彼女は廊下でエリナと会話していたメイドだ。彼女は噂話には参加していなかったけれど。


「悪いのだけれど、ここに残っているワックスを拭きとってくれないかしら? 誰かが足を滑らせると、とても危険だから」

「はい、すぐに」


 マリーがすぐさま掃除道具を持ってきてワックスを拭く姿を眺めながら考える。


(私は運がいい……の、かしら?)


 命にかかわるような出来事が二度も続けてあったのに生きている。


(ええ、運がいいんだわ!!)


 そう思うと元気が湧いてきた。

 命があるし運がいい。怖いものなんて何もない。何だか気分も前向きになってくる。


「奥様……終わりました」

「ありがとう。完璧よ。あなたにお願いしてよかったわ」


 微笑みながらお礼を言うと、マリーは顔を赤くしながら頷いた。



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