第18話 正しい物語






 次の日、リリアーナは自室のテーブルで遅い朝食を進めていた。


 今日はレイヴィスがいるらしいが、彼に会うのが気が引けて寝起きが悪いふりをしてしまった。実際、昨日はよく眠れなかった。頭の中で嫌な想像がずっとぐるぐるしてしまって。


 今日給仕をしてくれているのは家政婦長とアンヌだ。エリナがいないことに、リリアーナはどこかで安堵していた。


 刹那、手が小さく震え、持っていたカトラリーが皿に当たって音を立てた。

 その衝撃でグラスが倒れ、冷たい水がテーブルクロスに広がっていく。

 身体がびくりと震え、カトラリーを取り落とす。床に落ちるそれを、リリアーナは凍るような気持ちで見つめた。


 ――やってしまった。怒られる。


「奥様、大丈夫ですか?」


 萎縮するリリアーナの耳に、家政婦長の声が響く。

 リリアーナはすぐには言葉が出てこなかった。


「……ありがとう。なんでもないわ」


 ようやく絞り出した声は、自分の耳にも頼りなく聞こえた。

 家政婦長はすぐさま新しいカトラリーを用意する。


「しばらくはお仕事の量を減らしましょう。最初から張り切りすぎました。奥様があまりに前向きで、覚えが早かったので、ついつい詰め込みすぎてしまいました」

「い、いいえ。私は大丈夫よ」


 このまま家の仕事までしなくなったら――本当に、何の役にも立たない。

 せめて自分に何かしら価値があることを証明しなければ、いずれ悪妻として捨てられる。


「――ですが、かなりお疲れに見えます。せめて本日はごゆっくりお過ごしください」


 その気遣いを素直に受け止めることができなかった。

 自分が弱っていること、役に立てないことを認めることは恐怖だった。


「本日は旦那様もいらっしゃいますので」

「…………」


 その言葉が、リリアーナの胸をさらに重くした。今日はレイヴィスがいるからこそ、弱っているところを見せるわけにはいかないのに。


「そうね」


 それ以上逆らうこともできず、リリアーナは強張った笑みを浮かべた。





 リリアーナは自室の椅子に腰掛け、ぼんやりと窓の外を見つめていた。

 仕事は取り上げられてしまった。

 休暇ということだが、何もする気になれない。


 刺繍をしようにも「これを刺したい」という気持ちが湧き起こらない。庭を歩こうにも、部屋を出ればレイヴィスと顔を合わせることになるかもしれない。


 いま、顔を合わせて目を逸らされれば、心が軋みそうだった。


 レイヴィスのことを考えないようにしていると、今度は実家のことが浮かんでくる。


(金策を、考えないと……)


 いつまでも後回しにはできない。


 だが、身体も頭も思うように動かない。


 ――このまま消えてなくなってしまえれば、どれだけ楽だろう。


 深いため息をつき、目を閉じる。そうしていると、以前図書室で見た植物図鑑が思い出される。


 あの植物図鑑がまた見たい。

 だが、図書館に近づくのは怖い。

 またリリアーナのことを話す声を聞いてしまうかもしれない。


 それでも――……このまま部屋にいるよりは、気分も変わるかもしれない。


 リリアーナは部屋に控えていたメイドのアンヌに声をかけた。


「――アンヌ、図書室に付いてきてもらってもいいかしら」

「はい、お供いたします」





 図書室に向かうと、入口の扉がわずかに開いていることに気づいた。そういえば以前も閉めたつもりでわずかに開いていることがあった。


(閉まりにくいのかしら……修繕をしてもらわないと……)


 そう思いながら、扉に手をかけようとした時――


「旦那さまぁ」


 中から、女の子らしい甘い声が聞こえてきた。


 ――胸が締め付けられ、身体が硬直する。手足が動かなくなり、その場から逃げ出したくなる衝動に駆られる。


 この家で旦那様と呼ばれるのは一人だけ。


(レイヴィス様……?)


 ――そして、この声は……


 中をそっと覗き見ると、エリナとレイヴィスが書架の前で並んでいる姿が見えた。


 リリアーナの背筋が凍りつく。全身の血の気が引いていく。


 ――図書室のエピソード。


 天真爛漫なエリナが熱心に勉強しようとしている姿勢にレイヴィスが感心し、少しずつ勉強を教えて親睦を深めていくエピソード。

 二人は雇い主と使用人という関係から、先生と生徒に――そして友人になり、いずれ恋人に――……


 それがリリアーナの知る『正しい物語』だ。

 主人公エリナがレイヴィスと幸せを築いていく物語。


「わたしぃ、お勉強したいんですけれどぉ、難しい本よくわからなくてぇ……」


 エリナの上目遣いに、甘えるような声。


(間違いないわ……これは、小説のエピソード……!)


 この世界の正しい物語が、いま目の前で進行している。

 そしてこれは喜ばしい流れのはずだった。


 この後、レイヴィスはリリアーナと離婚し、エリナを妻に迎える。

 しかしリリアーナは本筋と違って悪妻度は低いはずだし、『白い結婚』のままだ。

 リリアーナは離婚時に慰謝料を貰って、そのまま修道院に駆け込んで、実家からも貴族社会からも抜け出して、めでたしめでたし――……


 リリアーナの思惑通りに現実が進行している。計算通りのはずなのに。


 どうしてだろう。喜ばしいことのはずなのに、胸がざわざわして指先が冷たくなっていく。


 ――二人の姿を見たくない。

 けれど見ておかないと。これからの立ち回りのためにも。


 再び図書室に目を向けると、レイヴィスが無表情でエリナを見下ろしていた。

 視線は一瞬エリナに向けられるも、すぐに逸らされ手元の本へ落ちる。


「あちらに子ども向けの本が揃っている。まずはそれで学べ」


 淡々と告げる。

 その突き放すような態度に、リリアーナは違和感を覚えた。


(……なんだか、私の知っている展開と少し違うような……)


 勉強熱心なエリナにほだされて、簡単なところから教えようとしていくはずなのに。厳しさの中にも優しさがあり、丁寧に教えるはずなのに。


(……レイヴィス様、機嫌が悪い……?)


 いつもより気が立っているのかもしれない。空気が張り詰めている。


「旦那様に教えていただきたいんですぅ」


 エリナは諦めない。更に食い下がると、レイヴィスはため息をついて手元の本を閉じた。

 金色の目が、射るように向けられる。


「――名前と所属は?」


 低い声が響く。

 その冷たさにリリアーナは竦んだが、エリナは満面の笑みを浮かべた。


「わたしは――」

「――申し訳ありません!」


 悲鳴のような謝罪をして図書室に飛び込んだのはアンヌだった。


「この子まだ礼儀とか知らなくて! 勉強は私が教えます!」

「ちょっと邪魔しないでよ――」

「黙ってなさい!」


 真剣な顔でエリナを一喝し黙らせる。

 そしてアンヌはレイヴィスに――当主に深く深く頭を下げ、エリナの非礼を必死で詫びていた。その身体は少し震えていた。


 リリアーナは思わず息を呑んだ。


 アンヌを見つめるエリナの眼差しには、これまで見たことのない激しい怒りが浮かんでいた。まるで鬼のような。


(主人公がしてはいけない顔をしている……!)


 見間違いか、光の加減かと思いたいほど。


「…………」


 レイヴィスは無言で書架に本を戻し、何も言わずに図書室の出口に向かう。


 ――そして、リリアーナは凍り付いた。

 このままではレイヴィスと扉前で顔を合わせることになる。横に避けて移動を邪魔にしないようにすればいいだけなのだが――すれ違うことさえ、いまは気まずい。


 リリアーナは思わず辺りを確認し、近くの空き部屋に逃げ込んだ。






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