第15話 お茶会の後
リリアーナは一人で自室にこもり、お茶会の御礼状を書いていた。
ようやく三通分を書き終えて、一息つく。内容に再び目を通し、問題がないことを確認する。
あとは念のため執事に見てもらって、その後に封蝋をして自分の印を押すだけだ。
背もたれに身体を預け、軽く肩を回す。わずかな疲労が身体にこびりついているが、仕事が終わった安堵感の方が大きい。
リリアーナは手を伸ばし、机の引き出しを開ける。
その場所には封蝋のための道具が一式揃っている。
リリアーナはその中から、自分専用の印章を手に取った。
印章には、エルスディーン家の『燃え盛る獅子』の紋章にリリアーナのシンボルである百合が組み合わされたものが刻印されている。
リリアーナがこの家の人間である証だ。
印章を手にしたまま、窓の外を見つめる。
あんなに晴れていたのに、いまは灰色の雲で覆われていた。きっともうすぐ雨が来る。
リリアーナは重いため息をついた。
(そろそろ、実家にお金を送らないと……)
手紙での命令に、弟妹たちからの催促。
弟妹はレイヴィスに一喝されたら帰っていったけれども、父が出てきたらいったいどうなるのだろう。
「…………」
誰にも言えない重圧に、リリアーナはぎゅっと唇を噛んだ。
想像するだけで、恐怖が全身を走る。
(レイヴィス様に迷惑をかけられない……!)
ただでさえ忙しい彼に、これ以上厄介ごとを背負わせたくない。こんな面倒な実家を持つ妻は要らないと送り返されるかもしれない。それだけは絶対に絶対に避けたい。
なのに、一向に具体的な金策が思い浮かばない。
(……侯爵家ともなれば夫人用の予算があるはず……そこから実家に送金とかはできないかしら?)
ふと思いついたアイデアを、具体的に考えてみる。
(新品のオートクチュールドレスではなくてアンティークドレスを購入して、刺繍で豪奢にしてリメイクして着てお金を浮かせる……とか)
しかし、いくら予算を浮かせたとしても、それを引き出す権限がリリアーナにはない。
浮いた予算はあくまで侯爵家のもの。リリアーナのものではない。
(――小説のリリアーナが会計係を篭絡した理由がよくわかるわ)
そうでもしなければ、実家への送金など不可能だ。
だが、会計係を篭絡なんて、それこそとんでもない。彼の人生もぶち壊しにしてしまう。
(どこかで刺繍の腕を活かして働くのが一番手っ取り早い……? いえ、侯爵夫人が労働なんて、絶対に認められないわよね。エルスディーン家の恥になるもの)
リリアーナが嘲笑されるだけなら構わない。
だがリリアーナはもうエルスディーン侯爵家の人間なのだ。レイディスにも、使用人にも、その嘲笑は向く。それはダメだ。
(こっそりここを抜け出して、正体を隠して働く……? 現実的ではないわよね……)
そもそも、侯爵夫人の仕事は朝から晩まで何かしらある。
この休憩時間も、ある意味仕事の範疇だ。次の仕事に集中するため休み時間でしかない。毎日まとまった時間を抜け出すなんて不可能だ。
それにきっと、単純な労働で得られる対価では、実家の欲望は満たせない。
(――いっそ、正直に言ってみる……? おこづかいが欲しいとか……)
考え込んでいると、執事が様子を見にやってくる。メイドのアンヌがティーセットを携えてその後ろに控えていた。
リリアーナは執事に手紙のチェックをお願いし、その間注がれる紅茶を眺める。
「――はい、問題ございません。奥様のお心遣いが綴られていて、大変結構だと思います」
「ありがとう。それと、その――……欲しいものが、あるのだけれど……」
おずおずと声をかけると、執事は笑みを浮かべてリリアーナに顔を向ける。
「はい、なんでございましょう。ご入用のものがございましたら何でもおっしゃってください」
――現金。
(言えるか!)
あからさますぎる。
そもそも現金を欲しがる奥様はいない。
欲しいものは家の掛払いで買うものだ。実家でも家族たちが掛払いで身の丈以上の買い物をして、商人たちに督促されていた。
貴族は屋敷のほかに領地――いずれ換金できるものがあるから、商人たちは気前よく物を売ってくれていた。リリアーナは商人の出入りを見るたびに苦々しい気持ちになったものだ。
そして買った記録はすべて残って帳簿に記載される。現金を欲しがるのは、家の記録に残らないものを買うときだ。
そんなことはできない。現金を欲しがる時点で悪妻度が上がる。
「……いえ、なんでもないわ」
不思議そうな顔をする執事に、言葉を重ねる。
「本当に何でもないの。忘れてちょうだい」
リリアーナは話を終わらせ、紅茶を手に取った。
香りを楽しみながら、気を取り直して話題を変える。
「今日これからやるべきことはあるかしら?」
「もちろん、招待状への返信がございます」
執事はそう言うと、大量の招待状を運んできた。
「…………」
リリアーナは思わず顔を強張らせる。先ほど御礼状を書き終えたばかりなのに。
「社交シーズンが落ち着くまでの辛抱ですね」
「……それはいつ頃になるかしら」
「二か月後ほどでしょう」
二か月。現実は本当に加減も容赦もない。
(腱鞘炎になりそう……)
思わずため息が零れる。
「――参加しないといけない催しはあるのかしら」
「いいえ。しばらくはゆっくり休んでほしいというのが、旦那様からの言付けです」
――それなら、しばらくはのんびりできそうだ。
だが、少しだけ残念な気持ちになる。
そしてそうなると、この招待状にひたすら断りの返事を書くことになる。
「……ごめんなさい。今日は少し疲れていて、明日からでもいいかしら」
執事に対して申し訳なく思いながらも、リリアーナは自分の限界を感じてそう頼む。
徹夜でドレスに刺繍をし、王妃主催のお茶会に出席し、弟妹とも出会い、レイヴィスにドレスを褒めてもらって、お茶会の御礼状もしたため――
思い返すと、今日という日がとてつもなく長く感じた。今日はこれ以上頑張れそうにない。
「ええ。もちろんでございます。本日はお疲れさまでした」
その言葉に、リリアーナは少しだけ肩の荷が下りる。
その夜、リリアーナは早めに寝室へと向かった。
寝室の香りを嗅ぐと、寝不足と疲労感が一気に押し寄せてくる。
(なんだか……少し、ふらふらするわ……)
頭がぐらぐらして、足元もふらつく。
リリアーナは力なくベッドに腰を下ろすと、枕元に置いていた六角柱を手に取った。レイヴィスからもらった、彼の魔力結晶を。
それは冷たく硬い結晶なのに、触っていると心を落ち着けてくれる。
レイヴィスの魔力を感じ、リリアーナは深く息を吸い込み、ベッドに横たわった。
(……レイヴィス様……)
リリアーナはピラーをしっかりと握ったまま、静かに目を閉じた。
疲れ切っている身体は、すぐに深い眠りに落ちていった。
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