捨てられるはずの悪妻なのに冷徹侯爵様に溺愛されています
朝月アサ
第1話 結婚初夜
「なんてこと……」
エルスディーン侯爵家に嫁ぎ、これから初夜を迎えようとしているリリアーナは、一人きりの寝室で、不意に鏡を見て愕然とした。
(なんてこと――私、捨てられる運命の悪妻じゃない!)
薄紫の髪に紫の瞳。美しいがどこか陰気さが漂う顔が、いまや驚愕に歪んでいる。
天啓を受けたかのように、頭の中にどんどん情報が流れ込んでくる。
ここは前世で読んだ小説『無能無才なメイドですが何故か冷酷侯爵様に溺愛されています?!~実は世界で唯一の聖女だったみたいです』の世界で、自分はヒーローであるレイヴィスの妻、リリアーナ。
主人公ではない。
そう、主人公ではない。
リリアーナは美しく若い妻だが、浪費家で、性格が悪く、侯爵家の会計係を篭絡して資産を貪るとんでもない悪妻なのだ。
跡取りの子どもを産んでいない状態で多くの愛人を作って夫を裏切り、更には使用人をいじめまくるという悪妻のお手本のような悪妻。
日々の激務に疲れ、悪妻に振り回されて女性不信にもなっている侯爵は、屋敷で働いているうら若きメイドに心惹かれ、悪妻と離婚して、最後にはメイドと結婚する。
――真実の愛によって二人は結ばれる――というラブストーリー。
(なぁにが真実の愛よ! そもそもヒーローが既婚者って何?!)
倫理観の欠片もないこの物語。
あらすじでその倫理観の欠片もないところが気になって読んでみて、ツッコミしまくりながらも読み切ってしまい、記憶にも残ってしまった。
そんな物語の悪役に転生してしまった。
タイトル通り、主人公はメイド。
この家でリリアーナ付のメイドになっているエリナだ。つい先ほどまでのリリアーナにとってはメイドBでしかなかったメイドは、いまや最重要人物となっている。
(いえ……小説のストーリーに文句を言っても始まらないわ……重要なのは、もし物語の通りに行けば悪行の限りを尽くして破滅するということ……どうして私がこんな目に)
他に何か使えそうな記憶はないかと頭を振り絞るも、何も出てこない。
混乱しきって思考がまとまらない。
それでも考えろ。
考えろ。
考えろ考えろ考えろ。
ストーリーから逸脱する方法を。
強制力になんて負けない。
幸い、まだリリアーナは何もしていない。だって嫁いで来たばかりだから。
使用人いじめはしていないし、恋人だって作っていないし浮気もしていない。浪費もしていない。
すべてはこれから。
これからの行動で未来が変わる。
リリアーナは考える。薄いヒラヒラのナイトドレスの格好で考える。
もうすぐ夫が来る。貴族の務めを果たすために――……
物語のヒーローであるレイヴィス・エルスディーンが。冷酷侯爵と呼ばれる男が来るまでに。
膨大な魔力、冷静で合理的な判断力を持ち、敵には一切容赦せず、誰にも笑顔を見せない氷の貴公子。
広大な領地の統治者であり、王の信頼が厚く、魔術研究と国家防衛にも携わる男。リンデンブルグの悪魔。魔族にも恐れられる英雄。王の右腕。
彼は、義務感だけで淡々と事を進めようとするだろう。愛してもいない妻と。
――だが彼は、けっして人の心のない残虐非道な男ではない。
人を愛する心を持っている。
その時、部屋の外に人の気配がする。
扉を開ける音が室内に響き、金髪の若く美しい男性が部屋に入ってくる。神秘的な金眼を持つ、レイヴィス・エルスディーンが。
気まずい沈黙が室内に広がり、彼がゆっくりとリリアーナの座るベッドに近づいてくる――……
「…………」
「……だ、旦那、様……」
零れた声は震えていた。
リリアーナはいまにも泣きそうだった。
(……まずい。やられる……ころされる……)
完全に混乱状態のリリアーナは飛び上がるようにベッドから下り。
「私のことは愛していただかなくて結構です!」
力の限り叫ぶ。
一瞬、レイヴィスがリリアーナの迫力に怯んだように足を止める。
その隙をつき、リリアーナは全速力でレイヴィスの隣を駆け抜け扉の外に出た。
「あ――愛人は何人作っていただいても結構ですからね!」
そう言い残して扉を閉め、逃げた。すぐ隣の女主人の部屋に逃げ込み、扉をがっちりと閉める。全身の力が抜け、そのまま扉に背中を預ける。
息を切らしながら、動悸の収まらない胸を押さえる。
(私はいったい何を……口走って……)
――初夜の拒否。
しかも愛人の推奨。
ありえない。貴族の妻としてありえない。子を産むために金で買われたくせに。
(とんでもないことをしてしまった……? ええい、やってしまったものは仕方ないわ……)
いまから部屋に戻って「さっきのは冗談です☆ 子作りしましょう旦那様☆」なんて言えるわけがないのだから。
しばらく扉に張り付いたままでいると、外に人の気配がしてリリアーナは凍りついた。
「リリアーナ、そこにいるのか?」
扉の外にいるのは、間違いなくレイヴィスだ。
「……はい」
「開けてくれ」
――怖い。
怖い怖い怖い。
開けたら悪妻になる。捨てられて悲惨な運命を辿る。嫌だ。絶対に嫌だ。
恐慌状態のリリアーナはがくがく震えながら、声を振り絞った。
「無理です……」
――また、ありえない言葉を口にしてしまう。
政略結婚なのに夫を拒否する言葉を。
だが無理なものは無理なのだ。ここを扉を開けて顔を合わせるのは、どうやっても無理だ。
「……そうか」
レイヴィスは低く呟く。
そして、扉の向こうから去っていく。
(……ああ、私、明日にでも実家に送り返されるかも)
リリアーナは暗い部屋の中、ふらふらとベッドに歩いていった。
何とかベッドに辿り着くと、ぱたりと倒れ込む。
そしてそのまま、気を失ったように眠ってしまった。
精神の限界だった。
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