始業
朝礼も終わり、同僚の皆さんはそれぞれの持ち場へと散っていった。
課長さんが、一人の方を僕に紹介してくれた。
「この方が“ボヌールの田中さん”です。ここの工場の指導長です。彼にいろいろ教わってください」
紹介されたその人は僕よりもずっと年上の人で、すごく日焼けした顔。作業服はぴっちりアイロンがけされている。それと名前は、どう受け止めればいいんだろうか。
「どうも、ボヌールの田中です」と、彼はにっこり笑った。
「どうも、指導長。よろしくお願いします」
「名前で呼んでくれていいですよ、堅苦しいのもあれですから」
「あ、はい、わかりました」
僕は名前で呼べそうもないからそう言ったまでだ。
ボヌールさんなのか田中さんなのか、両方なのか。聞く勇気がない。
課長はそこで「では後はよろしく」と言い残して本社へ戻っていった。そのときの二人の、目だけでのやりとりがなんとなく、ドストエフスキーがまわりくどく長ったらしく描く何かみたいに感じた。気のせいだろう。
ボヌールの田中さんはすぐに僕が所属する予定の班の三人を呼んでくれた。
「えー、左から、山本グランデ君、リバーサイド河田君に、メゾン・ド・木村さんね。あ、別の班にマ・メゾン木山さんという人もいるから間違えないように」
「あ、はい、よろしくお願いします」
こう言っては失礼だけど、仮でもいいのでもっと普通の名前にしてもらえないのだろうか。作業内容を覚える前に頭がパンクしそうだ。
「よろしくー」と三人。
ボ「時間ごとに作業内容が変わるので入り口のスケジュール表をよく見てくださいね。じゃあ、今日は初日なので、いろいろ工場内をまわってみましょうか」
僕「あ、はい」
みんなでまわっているあいだ、男性たちはキスがうまいことについていろいろ聞いてきた。
僕みたいなキス採用は珍しいらしい。
メゾン・ド・木村さんと言う女性だけはしっかりとブレずにいろいろ説明してくれた。
彼女は若い女性で明るい親切なかただ。バイト先とかで男子が一度は好きになってしまうタイプの女子な雰囲気がある。
僕は単純なので、いろいろ見学しているうちに工場の広さが気にならなくなってきた。
生産ラインをずっと追っかけていくとやがて完成品が現れた。
あ、“ウマイ棒”だ!
「ウマイ棒の工場だったんですね」と僕が言うと。
「まーそうです、な」と含んだ感じでみんな。
なんだか少し気になる。でも初日なんてきっとそんなものだろう。
楽しい工場見学も終わり、いよいよ実務訓練開始。
そこからはマンツーマンでボヌールの田中さん(指導長)が徹底して教えてくれた。
もっとベストキッドのミヤギさんみたいに“ワックスかけるワックスとる”みたいなことをいっぱいやるかと思った。
こんなに仕事に打ち込むのは久しぶりだった。
つづく
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