第33話 櫂を取り巻く疑惑 4

 尚とこちらに戻ってきて、櫂と別れて、もう三日。

 相変わらず尚の顔は白いままで、櫂からは連絡の一つもなくて。何をすれば良いかわからず、何もできずに淡々と日にちだけが過ぎていく。

 尚を連れ去られたというのに、木偶からの攻撃もなくて、目覚めない尚と睨めっこしながら、また今日も一日が終わってしまう。


「尚。櫂さんは戻って来ないのかな」


 返事がないってわかっていても、その切れ長の目が開くんじゃないかって、意味のない問いを投げかける。


「ん……き……」


「尚?! 気がついたの?!」


「きょ……」


「きょ? きょって何?」


 私がいくら大声で呼びかけても、瞑ったままの尚の目は開かない。

 それどころか、眉間に皺を寄せてうなされてる。

 悪い夢を見てるなら、早く目覚めればいいのに。


「きょ……か。ダメだ……やめ……くれ」


「尚? どうしたの?」


「たべ……けない」


 きょうか? 誰のこと?

 うなされ続ける尚の口から聞こえた名前。


「尚、尚。大丈夫?」


「……だけは……ては……ダメだっ」


 見開かれた切れ長の目。白いままの頬を伝う汗に、尚の見た夢が悪夢だと知れる。


「尚?」


「は……遥香」


 久しぶりに呼ばれた名前に、気持ちが軽く跳ねる。


「うん。遥香だよ」


「あ、いや。すまない。はるだな」


「ううん。遥香でいいよ」


 焦って言い直す尚の顔を覗き込んで、ゆっくり笑いかけた。

 私の名前は『遥香』だからさ。

 どう呼ばれたって構わない。


「せ、仙人に名前を明かすべきではない」


 未だに血の気の戻らない顔をして体も横たえたままなのに、そんなことを言ってる尚に、ほんの少しイラっとする。


「尚なら良いよ。最初に言っちゃってるし。そもそも、何で名前を明かしちゃいけないの?」


 だって『きょうか』さんのことは、そう呼んでるのに。


「まだ、櫂に聞いてないのか?」


「秘密主義だからって話? でも、それだけじゃないでしょう?」


「其方には、話すべきことがたくさんあるな」


 ゆっくりと体を起こした尚が、ため息混じりにそう言った。


「櫂さんも、色々なことを教えてくれたけど……」


「あぁ。其方と距離をとっていた私のせいだ。申し訳ない」


 この人は、またそうやって何もかも自分のせいにして。


「尚のせいじゃないよ! これまで、そんなこと気にもしてなかったもの。尚や櫂さんに『はる』って呼ばれて、それで良いって思ってた」


「私のせいではないと、そう言ってくれるのか」


 尚の顔が心底嬉しそうに明るくなって、それに安心したと同時に尚の過去が心配になる。

 自分のせいじゃないって、そう言われただけでこんなに嬉しそうにするなんて。


「そう言ってるじゃない。だから、教えてくれる? 何で名前を教えちゃいけないの?」


「仙人に伝わるまじないがある。他人の名前を手に入れて、その人物を操ることのできる呪いだ。仙人たちは、他人に操られないために、自分の名を隠す」


「他人を、操る?」


「あぁ。何をさせられるかわからぬ。それならば、最初から教えぬ方が良いだろう?」


 名前……それって、同姓同名ならどうなるんだろう。


「それって、苗字もいるの?」


「苗字とは、家名のことだろうか」


「きっと、そうだと思う」


「必要なのかどうか、私でもわからぬ。そんな呪い必要としていないからな。試したこともない」


 人のことを操ろうとする必要性なんて、そうそうあるわけもないよね。


「私の名前知ってるの尚だけだから。これから先誰かに教えなければ安心だね」


「私が、そのようなことをするとは考えないのか?」


「尚が? しないでしょ? するわけないもの」


「何故、そう断言できる?」


 何故って。今自分で必要としないって言ったよね?


「私がしないと、どうして言い切れる?」


「私のことを操る気なら、もうやってるよね? 私の名前知ってるわけだし。こんな話、私にせずに操ってしまえばいいし。それに、尚はしないよ。私はそう信じてる。それでもし操られたのなら、それは私のせいだから。だから、言い切れるよ」


 尚のことを信じたのは、私の決断だし。それで騙されたのなら、私が馬鹿なだけ。

 そう言って尚の顔を真っ直ぐに見つめれば、せっかく交わった視線が、すっと外されていく。


「そのように、私のことを信じてくれるな」


 私に背を向けたその先の顔は、どこか歪んで見えて。尚の感情がわかりやすくてこちらまで嬉しくなる。

 ずっとこんな風なら良いのにな。


「信じてるよ。尚のこと」


 だって……。


「だって、命の恩人だからね!」


 親みたいに、慕ってる。

 尚に向ける特別な感情は、きっと櫂には敵わない。

 尚から向けられる特別な感情は、夢にまでに見るきょうかさんには叶わない。

 それなら、親代わりだって、命の恩人だって良いじゃない。

 その気持ちは、持っていたって良いよね。


「命の?」


「尚がいなければ、空から落ちたときに助かってないから。だから、命の恩人」


「あのときか……余計なことをしたかと思っていた。このような状況に巻き込んでしまって、取り返しのつかないことをしたと」


「ううん。私ね、仙人になれて楽しいよ。尚や櫂さんと出会えて、自分の力で空も飛んで。尚に助けてもらえなかったら、緑や父さんにだって会えてない。感謝してるんだ」


「緑弦や誠弦とも暮らせなくなってしまったではないか」


「それは、そうなんだけど。でも、緑ともこれでいつでも会える。自分の力で村まで行ければ、尚に頼まなくてもよくなるでしょう?」


 私のことで、二人の手を煩わせることもなくなる。


「一人で行くのか?」


「うん! もう一人でも行けるよ。連れて行ってくれた人を、待たせる必要もなくなるんだ。これで気兼ねなくゆっくりしてこれる」


「そうだな。好きな二人と、ゆっくりしてくるがいい」


「好きな……えへへ。そうだね」


 尚の口から、『好き』だなんて言葉を聞くことになるとは思ってもなくて、わざわざ二人のことをそう表現されたのは、かなり照れ臭い。 

 尚のことを親の様に慕ってる、なんて言ってみたけど、この世界での父さんはたった一人だ。

 ずっと私を守ってくれた父さんと、ずっと私を甘やかしてくれた緑。いつでも会いに行きたい、最愛の家族。

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