第23話 仙人として知るべきこと 2
「あれは、桃の木だ」
「桃?」
「あぁ。はるにはまだ必要になるものでもないけど、いつか知っておくべきことだしね」
桃に何か意味があるのかな。
私は、何を知らなきゃいけないんだろう。
「桃が、どうかしたんですか?」
「少し、近くまで寄ってみようか」
櫂はそう言うと、空中に浮かんだままの天馬を、仙人島の端で生い茂る木に向けた。
遠くから見ても大きいと感じていた桃の木は、近くに寄れば更にその大きさを実感させて、見たこともないぐらいの大木に、声を出すことすら忘れてしまう。
「こ、これが桃の木?」
「あぁ。仙人達の間では、特別な桃。色んなところから多くの食材が集まってくるけど、桃と言われるのはこれだけだ」
「特別?」
「この桃はね、仙力を高めてくれるんだ」
「仙力……」
強くなれるってこと?
そんな都合の良い食べ物が存在するなんて。
本当にゲームの中みたい。
「そう。強くなりたいなら、これを口にすれば良い」
櫂はそう言うと、転がっていた桃の実を、私の手に乗せた。
スーパーで売られている桃とは違って、少し硬めに感じられるそれは、見た目は桃そのものだ。
柔らかくて果汁が溢れてくるような想像が、つい桃の皮を剥こうと手を動かす。
「だけど、不用意に口にしてはいけないよ」
「どうしてですか?」
「この桃は、仙人の記憶を奪う。力をくれる代償は、記憶さ」
「記憶……」
「そう。それも、どの記憶が失われるかはわからない。特定の人物や物事に関する記憶が、完全に抜け落ちてしまう。強くなりたくて食べても、何のために強くなりたかったのかを忘れてしまうこともある」
櫂の言葉を聞いているうちに全身を駆け抜けた恐怖が手から力を奪う。
そしてそのまま、桃が滑り落ちていった。
記憶の中の熟した桃のように地面に激突したその実が崩れ落ちることはなかった。
まるで林檎のように固い音をたてて転がっていったから。
「だけどね、あえてこの実を食べる仙人もいるのだよ」
私が落とした桃を櫂が拾い上げながら、さらに話を続けていく。
「どうして?」
「忘れたい記憶があるのか、そこまでして強くなりたいのか。もしかしたら、長く生きていたいのかもね」
「長く?」
「仙人には悠久の時がある。それは前にも話したよね。そんな彼らでも、頭のなかに留めておくことができる記憶量には限界があるようで、何百年と生きているとそれまでに積み重ねた知識や思い出が精神を病ませていく。それが、僕たちの最期」
最期。普通の人間に比べて、長い長い時を生きる仙人の生の終わり。
櫂だってその道の途中にいるはずなのに、何でこんなにも穏やかなのだろう。
「これを食べれば、記憶が失われる。そしたら、最期の日は遠退いていくよね」
手にした桃を弄びながら、櫂が鮮やかに微笑んだ。
仙人として生きるしかなくなった私が知らなきゃいけない、その道の終わり。
「櫂さんも、食べるんですか?」
「僕は強さにも、長く生きることにも興味はないよ。この時間が終わる時を、素直に受け入れようと思う。あぁ、歳を数えるのを忘れていることが、せめてもの抵抗かな」
少しでも余計な記憶を残さぬように。
人と深く付き合えば、その思い出が増える。
人と距離を開けて生活しているように見えた仙人たちも、それぞれの考えでそうしているのかもしれない。
「それなら、私とこうしている時間は……」
櫂の記憶に残ってしまうだろう。
そして、それが櫂の時間を縮ませるかもしれない。
もしかしたら尚だって、私を仙人にしたことに余計な責任を感じているのなら。
「はると一緒にいる時間は、僕が望んでしていることだからね。気にする必要はないよ」
「でも、思い出を作らないために、関わらないことを選ぶことだってできます」
尚は、そのために私と距離を取るのかもしれない。
「そんなことのために、はると距離を取る必要はない。そう考えているのは、僕だけじゃないさ」
櫂の頭の中をよぎってるのも、尚のことだろう。
名前だけを出さずに、それでも話が通じるぐらいに、同時に尚のことを考えてる。
「そうでしょうか」
じゃあ、何で。どうして。
私を仙人にしたのは尚なのに。初めて会った時はあんなに丁寧に話をしてくれたのに。
尚の力に影響を受けて、尚の島に住んで。
それでも、尚との距離が近くなってる気がしない。
「はるが仙人として一人前になったら、僕たちと距離を取ってもいいよ。長く生きていくには、それが簡単だろうからね。どうしていきたいか、はるが選べば良い。今後思い出を積み重ねるよりも先に話しておかなければと思っていたんだ」
いつでも私のことを考えて話をしてくれる。
櫂の優しさはいつになっても変わらない。
私がどれだけ迷惑をかけていても、どれだけ出来が悪くても、いつまでも変わらない優しさ。
そんな櫂が私と距離を取る必要はないって言ってくれるなら、私にだってその必要はない。
元々飛行機事故で失ってたはずの命。
この世界で空から落ちた時にも、失う予定だっただろう。
草原で助けてくれたのがあの二人じゃなければ。そう考えれば、今の私はただのボーナスステージだ。
そんな時間を長引かせようなんて、思うわけがない。
二人から離れると言われれば、その時は素直に受け入れよう。
それまでは、できる限り今のままで。
「私も、櫂さん達と離れるつもりはありませんよ」
「そうか。そしたら、もうこんな所にいる必要はないね。桃に用がなければ、仙人だって滅多にこない。その分、隠しごとをするにはうってつけの場所だ。さっき話した通り、癒やしの空気をもらいに行ってみる? 今日も混んでるだろうけど」
櫂は手にしていた桃をもう一度足下に転がせば、すぐに天馬を作り出す。
この複雑な形をこれだけ素早く作り出すには、どれだけの時間と訓練が必要なんだろう。
仙人に与えられた時間が長いとはいえ、いつか私にもできるんだろうか。
その前に、終わりが来ちゃうんじゃないだろうか。
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