第19話 やっぱり、二人が大好き 3

「父さん? 緑? ただいま」


 薄暗い家の中に向かって声をかけても、何の返事もない。

 それもそうか。この時間は、きっと仕事に出かけてるはず。

 私がいた時は私の面倒を見ていてくれた緑も、成人した今なら一人前に仕事しているだろう。


 留守なのに鍵もかけずに出ていけるほど、この家には何もない。必要最低限の生活用品。贅沢品なんて、持つこともできない生活。

 不用心にも思えるが、それが当たり前で普通のことだった。


「私がいなくなっても、困ったりしてないよね」


 櫂は不便を感じてるなんて言ってくれたけど、何も変わったところのないような家の中の様子に、ついため息に混じって独り言が漏れる。

 まだそんなに経ってないはずなのに、心を通り過ぎるのは懐かしさで、少し前まで私の指定席だった椅子に腰を下ろした。


「あっ………」


 目の前の柱に付けられた傷。最後につけたのは、緑の成人の儀の少し前。

 私の背丈の印だけが、いつでも同じ場所にどんどん傷を深くして。

 せっかく座った椅子から降りて、その傷に触る。


「え……あれ……」


 私の頭の先を辿るようにつけられていたはずの傷が、やけに目線から近くに見える。

 おでこ辺りを示しているような傷に、自分の身長が伸びていることに気づいた。


「私……大きくなってる」


 五年間伸びなかった身長。何もできない五歳児の体。

『使う力によって、器はその大きさを変えていくものだ』そんな尚の言葉が頭の中で繰り返される。


「誰かいるの?」


 柱の傷を見ながら感慨に耽っていた私の後ろから、聞き慣れた声が飛んできた。


「緑!」


 振り返って名前を呼べば、次の瞬間には緑の腕の中に包み込まれていた。


「はるか。戻ってきてくれたの?」


 別れた時よりもまた少し背が伸びた緑の声が、耳元で響く。緑の吐息が耳に当たる度に、羽毛でくすぐられているようで、くすぐったさに顔に熱が上がる。


「緑、緑、くすぐったい」

 

 腕の中から離してもらおうと、体を捩らせれば、緑の腕はより強く私を抱きしめた。


「会いたかったよ」


 最後にそう呟いた緑が体を離して、私の顔を見て微笑んだ。吸い込まれそうなぐらいの深い緑色の瞳は、私の気持ちと視線を捕らえて離さない。


「本当?」


 あんな別れ方をした私のこと、疎んでいるんじゃないかって。

 五年もの間、ただ飯食らいだった私がいなくなってせいせいしてるんじゃないかって。

 そんな思いが、ここに来ることを躊躇させてたって言っても間違いじゃない。


「本当だよ! 今からでも戻って来れないのかって、いつだって父さんと話してる」


「父さんも元気?」


「あぁ。元気……いや、はるかがいなくなって、たまに分かりやすく落ち込んでるよ」


 緑がいたずらっ子のような笑顔を作る。


「あははっ。分かりやすく?」


「そう、分かりやすく」


 あんな図体で、少し子供っぽいところのある父さんの話に、二人で笑い合う。

 久しぶりに会ったはずなのに、緑と作りだす空気は、まるで欠けたパズルのピースが一致するかのようにぴったり合って。得も言われぬ安心感。

 外で待ってる櫂のことなんて、忘れてしまいそうになる。


「戻ってきたわけじゃないの。二人ともどうしてるかなって思って」


「はるかは嘘をつくと分かりやすいなぁ」


 私の言葉に、緑の眉毛が得意げに上に跳ねた。


「嘘?!」


「うん。嘘」


「えっ? どっちが?」


「あははっ。どっちが?」


「もうっ。緑の意地悪っ」


 緑に見せつけるように、わざとらしく膨れっ面を作ると、膨らんだ私の頬を緑が指先でつつく。


「ごめん、ごめん。僕たち置いていかれたからね。少し、意地悪したくなった」


「置いて……なんて」


「これも意地悪だったね。はるかにははるかの考えがあるんだって、ちゃんとわかってる」


 緑の言葉に俯いた私の頭上に、同じ口から優しい言葉が降り注がれる。

 意地悪? きっと、それだけじゃないよね。

 緑の言葉に含まれる、遠慮がちな本音。

 それを察したところで、二人から離れるって決断した私にはどうすることもできない。


「たまには遊びにきたいなぁって思ってたの。これは、嘘じゃないよ」


「そうみたいだね」


 緑との間に流れる、甘さと苦さが混ざった何とも言えない空気。

 その空気をぶち壊すように、盛大に私のお腹が鳴った。

 空気の読めない体に、穴があったら入りたい。

 

「えへへ。緑の顔を見たら、安心してお腹すいちゃった」


 恥ずかしさを誤魔化すように照れ笑いを見せれば、緑がわざとらしく涎をすすった。


「僕もだ」


 いつだって私のことを庇ってくれる、緑の優しさは変わらない。


「せっかくだし、たまには腕をふるおうかな」


「はるかが作ってくれるの?」


「もちろん!」


 緑の前で自信満々にガッツポーズを作りながら、出てきた貧相な腕。

 途端に緑の顔が曇る。


「ねぇ、はるか? あっちで、ちゃんと食べてる?」


「た、食べてるよ。私、あんまりお肉がつきにくいのかもねー」


 なんて。これこそ大きな嘘。

 仙人は、そもそも食事をしない。

 生きていくために必要なものは、自然から得られる生気。

 食事は、ただ楽しむためだけのもので、尚も櫂も何かを食べているのを見たこともない。

 私の家には、台所すらない。


「さぁ、何にしようかな」


 苦笑いのまま、緑の追求から逃れようと、台所へ進んでいく。

 この家で、私にとっての一番の居場所。

 何もできない私が、唯一役に立てたって自信を持って言える。

 道具ばかりで、残ってる食材なんてほとんどない台所をひっくり返して、作れそうなものを考える。


 干し肉と取ってきた茸の炊き込みご飯。

 今にも干からびそうな根菜を放り込んだお汁。

 後は父さんが魚を持って帰ってきてくれることを願う。


 炊きあがる直前の釜から、季節の匂いが漂い出す。

 緑の口元に光るものは、今度はわざとじゃないはずだ。

 食事は決して生きるためだけじゃない。

 この匂いを楽しんで、見た目を楽しんで、そして味わう。

 これを知らない仙人達は、それだけで不幸だとさえ思う。


「今日はいい匂いがするなぁ」


 見計らったかのように、父さんが扉を開けた。

 私がいることに驚いた顔をした父さんに、抱きしめられて窒息しそうになりながら、何とか声をあげる。


「ねぇ。このご飯、少し持って帰ってもいい?」

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