昼行灯と生首

がらなが

1 心臓

 頭が軽い。良い夢を見られた後のような気分だ。杞憂や後悔、そういう頭が重くなるようなものとはほど遠い心地だが、同時に覚えたのは虚しさだった。

 森の木々の間を風が通る音がした後、葉が擦れる音と合わせて、男の声が聞こえてきた。男の声に耳を傾けてみたが言葉を喋ってはいない。啜り泣きながら何か言おうとしているが全てうわごとで、感情を出し尽くした後のような声に聞こえた。


「おはよう坊や。すっきりした顔つきになってしまったね」

 今度聞こえてきたのは女の声だった。声の主は、どうして今まで気付かなかったのかと思うほどすぐ目の前にいた。それまで自然と出来ていた呼吸が一瞬止まる。目の前にいたのは周りに鬱蒼と茂る木々よりも背丈の高い、異形と呼ぶのがふさわしいような修道女の格好をした女だった。

 袖から出ている手の甲の色は到底生きているとは思えない程青白く、顔には黒い布を巻き付けている。体全体から甘く生臭い匂いがして、何より目を引くのはその女の胸から下だった。体が花と棘の付いた棘で構成されていて、どこからどう見たって人間の有様じゃない。モンスターという単語が真っ先に頭に思い浮かぶが、様相やオーラが明らかに並大抵のものではなかった。


「自分の名前は言えるかい?出自は?家族は?生まれ変わったら何になりたい?」

 異形が矢継ぎ早にしてくる質問に、なんでもいいから答えなければならないと思った。しかし、どういうことか言葉が出てこない。恐怖に取り憑かれているからじゃない。答えられるものが頭の中に無かった。

「そうかそうか。いや、まあそうだろうね。空っぽだもんねえ」

 答えられずに困惑する俺を見て、異形は含みも持った笑みを浮かべながら喋る。馬鹿にしているというよりも、子供に向かってできないことが当たり前だと言い聞かせる親のような話し方だった。


 全くもって何から話せばいいか分からない。ここがどこなのかも、自分は何なのかも、皆目見当がつかない。だが、異形が口から放った空っぽという言葉を聞いてようやくこの不可解な現状が理解できた。

 俺には記憶がない。手足の動かし方や物の名前といった基本的なことは覚えているが、自分を構成する過去がほとんど無くて、あるのは虚ろな現在だけだ。

 あんなに清々しかった気分なのに、記憶が無いという状況に気付いてみると途端に足元が覚束なく感じる。少しの間俯いて呆然としていると、異形が顔を覗き込んできた。

「空っぽの自分が嫌なら、自分を見つけるしかないね。この森は私の縄張りで、坊やの記憶もそこらに溶け込んでるはずだ。頑張って見つけてごらん」

「……あの、1つ気になることがあるんですが質問しても良いですか」

 異形は頷く。自分の状況が分からないなりに分かってくると、さっきからずっと聞こえてくるものの正体が気になってしまった。

「この、男の泣き声……?みたいなのは声は一体なんなんですか」

「ああ、気になるかい?」

 異形は屈んで後ろの茂みをしばらく手で漁ると、何かを拾って投げつけてきた。


 反射で受け取ったそれは、男の生首だった。顔には太い蔦が絡みついていて、髪の一部には苔が生している。長い間腐りもせずに、茂みの中で放置されていたんだろう。結ってある髪に血痕は付着しておらず、それどころか首の断面からも血は垂れていない。不思議に思い覗いてみると、そこは思ったほどグロテスクな風にはなってなく、赤黒くなった皮膚に覆われているだけだった。

 一番不思議だったのは、その状態でも生首が生きているということだ。瞬きをし、唇を動かし、呼吸もしている。ただし、虚空を見つめる色素の薄い目からは、感情という物が抜け落ちているよう見えた。おまけに、ずっとすすり泣きにも聞こえるようなうわごとを呟いていた。

「その生首の坊やは五感がないんだよ。もう何年も前に狂ってその状態なのさ」

 異形はそう言って生首の頬を突いた。かぎ爪のようになっているガサついた爪が男の頬肉に食い込んでも、生首の様子は少しも変わらない。

 生首の男のことを異形は坊やと言ったが、それなりに年を食っているように見えた。


 記憶が無いからなのか、それとも生きているからとすぐに分かったからなのか、この生首に対してそれほど忌避感は湧かなかった。むしろ、腕の中にある重く温かい感触が記憶も何もないがらんどうの自分には心地よく感じて、それで生首を手放さずにいると、異形が不思議そうに首を傾げる。

「……なんだか気に入ったようだね。じゃその生首の坊やも一緒に連れて行くといいよ。話ぐらいはできるようにしてあげるから」

「え……?」

 何も言っていないのに進んでいく話に戸惑っていると、異形は生首の耳に触れ、しばらくすると今度は指で何回か額を突いた。

「戻っておいで生首の坊や」

 異形の腹の底の底まで染み入るような声を皮切りに、生首の声が徐々に小さくなっていく。重たそうな瞼が何回か瞬きをした後、不思議なことに生首は急に正気を取り戻した。ただし、相変わらず目の焦点が合っていない。

「はっ、あ、あ?俺は……?」

「聞こえるかい生首の坊や。話が出来るように聴覚だけは戻してあげたよ。もう十分向き合っただろうからね。残りの感覚は、この子が記憶を取り戻すついでに戻ってくるようにしておいたから」

「この声、あの化け物か?この子って、……俺以外にも誰かここにいんのか」

 生首の男は視線を動かすが、化け物の方にも生首を抱える俺の方にも視線は向かない。触覚も視覚もないから、自分以外の存在が音でしか判別できないんだろう。

「あの、初めまして」

 何と声を掛けるべきか迷いつつ生首に声を掛けると、生首の瞼が一瞬びくっと見開いた。俺の声が思っていたよりも近くから聞こえて、驚いたのかもしれない。

「俺の幻聴じゃねえよな……?また狂うのは流石に嫌なんだが」

「幻聴じゃないと思います、多分」

「……自信無さそうに言うなよ。こっちは物音しか聞こえねえから分かんないけどよ、お前俺ほど酷い状態でもねえだろ?」

「……はい」

 生首の男は眉根を寄せて唸った。俺が曖昧な返事しかしないものだから、いよいよほんとに幻聴だと思い始めてるのかもしれない。申し訳ないとは思うが、記憶が無いとどうも自分の存在があやふやに感じられて仕方がなく、はっきりと答えることは出来なかった。

 どうしていいか分からず黙って生首の男を抱え直す。すると生首は呆れたようにため息を吐いた。

「ああ、いや、そうだな。幻聴だったらもう少し安心できるような心音が聞こえるか」

「心音?」

「ああ、お前の緊張でアホほどうるさくなってる心臓の音のことだよ」

 なじられてる気がしないでもないが、それでもはっきりと存在を認めて貰えると少し安心できた。


 風が吹いて葉が擦れる音、鳥が飛び立つ音をいちいち脳が敏感に受け取り身構えてしまうが、それもそうだ。自分の名前も分からないまま死にたくはない。自然と体が警戒態勢になった。

「で、化け物の言葉から察するにお前は記憶をすっぽ抜かれたのか」

「え?抜かれた?」

「俺をこんな状態にして五感を取ってきたのもあいつだ。そんなわけの分からないこと出来んのはどう考えてもあの化け物ぐらいだろ」

 どういうことなのか聞こうと思い視線を異形の方に戻すと、そこには薄暗い森が広がっているばかりで異形の姿はなかった。

「あ、いなくなった」

「……まあ、あいつを問いただしてももうどうにもなんねえよ。俺だって狂うほど頼み込んでも少しも聞き入られなかったからな」

 生首が自嘲するように乾いた笑い声を上げる。だが、その頼み込んでいた時とやらのことをあまり思い出したくなかったのか、すぐに話題が変わった。

「名前……は覚えてないんっだたな。俺はブロウだ。呼び捨てで良い」

 虚空を見つめたままブロウと名乗った生首を見て、早く視覚を取り戻してあげたくなった。なにもない世界で音だけが聞こえるだなんて、俺には耐えられそうにもない。

「おい、どうした急に黙りこくって」

「音だけが聞こえるって、怖くないんですか」

「あ?なんでんなこと気になんだよ。まあ、そうだな……今までの何もなかった頃に比べればマシだ」

 五感が無かった頃がよっぽどブロウにとって嫌な思い出になっているんだろう。その頃を思い出してしまったのか、一瞬顔を震わせた。どうやって顔を動かしたのかは分からない。


 あの化け物の言ったことを要約すると、俺が記憶を取り戻せば一緒にブロウの感覚も戻るとのことだったはずだ。

 ブロウに顔に絡まっていた蔦を解いてから、とりあえず当てもなく歩き出す。あの異形は俺の記憶はそこら辺に溶け込んでいると言っていたから、なんとなく止まっているよりかは歩いている方がいい気がした。

 森の道は平坦では無い。かろうじて道と呼べそうな道の地面は窪みがあったり石やら木の根やらが所々飛び出している。今つまずいてしまえば、抱えている生首が放り投げ出されるか、俺に潰されることになるので足元には気を付けて進んだ。今の所この人に触覚はないはずだが、傷を負わせるのは流石にしのびない。


 辺りに生えている針葉樹の木々は見上げると首がひっくり返りそうな程背が高く、葉が密集してる。日の光を木々が遮ってるから辺りは薄暗く、緑に囲まれているしては空気が淀んでいるように感じた。

「ここは一体どこなんでしょうね」

「さあな。ここに連れて来られてすぐにあの化け物にロクでもない状態されたからさっぱりだ」

「連れて来られた?自分できたわけじゃないんですか?」

「こんな薄気味悪いところ一人でこねえよ。その、なんだ……金持ちの家に忍び込んで金目の物頂いてたら役人に捕まって。それでだ」

「……盗みだけでこんな目に?」

 歩みを止め手元に収まっているブロウを覗き込む。俺が覚えている常識の範囲では盗みは犯罪ではあるが、こんな生死の危うい場所に連れて来られるほど重罪ではなかったはずだ。

「金持ちからしてみれば自分の家に汚いコソ泥が入ったうえに玄関に犬の糞ばらまかれたんだからな。役人に金を積んで俺に必要以上の罪を重ねてきててもおかしくはないだろうよ」

「い、犬の糞……なんでそんな挑発するようなこと」

「挑発ってのは元気いっぱいの気概持った奴がすることだろ。俺のはそんなんじゃねえよ」

 ブロウは陰鬱な声でそう言うと、目を伏せた。

「……八つ当たりとヤケクソを合わせたようなもんだった。最悪な気分のときに幸せそうに笑ってる奴ら見てたら、そんな気分にでもなるだろ?」

 ブロウは俺に返答をもとめているわけではなかったのか、それきり押し黙ってしまった。

 しばらく沈黙が続いた後、ブロウは掠れた声で再び口を開く。

「分かってんだよ、全部悪かったのは俺だって。でも、金持ちの家の鍵を壊した時、頭の中にあったのはどうやってこいつらに少しでも糞みたいな気分をぶつけてやるかってことだけだった。何が正しいとか何が悪いだとか、そんなこと考えてる余裕なんてなかった」


 俺には記憶が無くて、だからブロウの言っていることを理解して同情することは出来なかった。ただ、なにもかも諦めたように笑うブロウの顔を見て、何故だか俺もどうしようもなくやるせない気持ちになった。それでも掛ける言葉は見つからない。今できることといえば、自分の記憶を探して五感を元に戻してやることと、生首を落とさないように腕の中で抱え直すことぐらいだ。


 他人の過去のことを聞いていると、自然と自分の過去と人物像も気になってくる。

 せめて自分の名前だけでも自力で思い出せないかと再び歩き出しながら考えてはみるものの、やはり一向に分からなかった。

 記憶を探るのに夢中になっているうちに、何か柔らかいものがつま先に当たった。足元にあったそれは重量があったようで、体は当たり前のめりになってしまった。

「うわっ、危な……」

 バランスが崩れたが、なんとか体は転ばないように歩様を整えてくれた。かなり肝は冷えたが、案外自分はトロい方ではないらしい。

「おい、どうしたよ」

「いえ、つまずいて転び掛けてしまって。でも大丈夫でした」

 足が引っかかった物がなんのか確認しようと地面に視線を向ける。そこにあったのは、人間の体だった。自分たち以外にも人がいたことに感動を覚え声を掛けようとしたが、すぐにそれどころではないことに気がつく。

 地面にうつ伏せになっている男の首には、深々とサーベルが突き刺さっていた。首から飛び出た血痕が土の染みになっていて、肌からは血の気は失せている。

「死体だ……」

 惨状を目の前にそう呟くと、腕の中のブロウにも聞こえたんだろう。息を呑む音が聞こえてきた。簡単に状況を説明する。

 森の湿った空気には、土の匂いと一緒に錆び臭い血の臭いと深い憂鬱が混じっている気がしてならない。全部気のせいであって欲しかった。

「……とっくの昔に察してはいたが、どうやら本当にここはロクでもない場所みたいだな」

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