現実も小説も奇なり、だが面白し

 右耳で、男の声が自分に囁いた気がした。

「——え?」

 振り返ったが、誰もいない。

「やるじゃねーか、あんた」

 思った通りだぜ。

 今度ははっきりと、上機嫌な声が玄関から聞こえた。

 視線をそっちに向けると、西宮の手から取ったらしい『異物』を開いた店主が、頁の上でしきりに目を動かしているところだった。

「表紙はもう黒くねえし、俺にもちゃんと中の頁が読める」

「それって、つまり」

「三木はもうここにはいない。成仏というべきか、解放というべきか。あんたが彼を助けたんだ」

「そうですか……」

 安心しきったせいか全身をどっと疲労が襲い、西宮は床に寝そべった。

 店主は西宮に構うことなく、「三木のやつ、なかなかの癖字じゃねえか」などといいながら、愉快そうに『異物』を読み進めている。

「しかし、あんたは何て書いたんだ?」

 小説中盤の頁を眺めていた店主が一気に最後の頁まで捲る。そして、それまでにんまりと笑みを浮かべながら読んでいた店主が真剣な顔つきになった。

「……なるほどな」

 頷いた店主の視線の先に西宮の書いた一文があることは、端から見ていてもわかった。

「これは生前の三木さんのことを知ったうえで、『異物』を最後まで読んだ僕の感想、なんですが」

 前置きをしてから、西宮はゆっくりと言葉を重ねる。

「この話が『理不尽な世界』っていうのが主題になってるのは明白でしょう?」

「そうだな」

 頁から目を離すことなく、店主が大きく頷く。

「語り手はきっと元居た世界ではない、奇妙な世界へと迷い込んだに違いありません。にやにや笑う男の顔がついている魚なんて常識的にありえませんからね」

 それまでの常識が通用しない、もはや自分は周りとかけ離れた「異物」としてしか生きられない世界へと。

「僕はどうしても『異物』の語り手と三木さんを重ねてしまったんです。彼はこの作品を完成させたかった。だが病はそれを許さず、身体を蝕んでいく。僕の推測でしかありませんが、己の運命をさぞかし怨んだんじゃないかと思います。『あんまりだ、理不尽すぎる』って。……けど、こうも思ったんじゃないでしょうか。それでも生きて、作品を書くしかない、と」

 そう考えた西宮の選んだ言葉は、至極単純なものだった。

 

『それでも、私はここで生きていくでしょう。』

 

 語り手がふと元の世界に戻れたり、戻れなくとも新たな世界の住人のようになじんだような心変わりをすれば、大団円といえるのかもしれない。

 だがそんな都合がよく、甘い話にしたところで作者は納得しないだろう。西宮はそう踏んだのである。

 そして、彼の書いた一文はどうやら最適解だったようだ。

「——自分にとってどんなに理不尽で不条理な世界でも、命尽きるまでは生きていくしかない、ってことか」

「そうです。実際、生前の三木さんも同じ選択をされたんですから」

 自分の命が尽きるそのときまで、作品のことを考え続けた。このとき西宮は三木のことを、心から偉大な作家だと思った。

 ——あれはきっと、三木さんの最後の言葉なんだろうな。

 書き終わった直後に耳元で聞いた男の声。少しかすれていたが、穏やかな声色をしていた。心置きなく、成仏できているといいのだが。

「おそらくだが、三木の奴もきっとそう書いただろうぜ」

「そうだといいんですが」

「間違いねえよ、ほらよ」

「え?」

 返すぜ。

 表紙を表に向けた『異物』が、再び西宮の手元に渡される。

「何を驚くんだ、あんたが買ったんだろう。ひょっとしてもうこんな怪しい本は手元に置いときたくないってか?」

「ち、違いますよ。でも、良いんですか?」

「怪奇庫」は日本全国から曰く付きの本を集めているという。ならば、特大の「曰く」がついたっこの本の居場所はそこではないのだろうか?

 それを聞いた店主は「馬鹿野郎」と呆れたように一蹴した。

「うちは一応本屋だぜ。客に本を売るのが仕事だろうが」

「はは、それもそうですね。じゃあ、ありがたく」

「……おう、大事にしろよ」

 直後、『異物』を保管するために、西宮が本棚の整理をしたことは言うまでもない。


「――じゃ、夜も更けるんで俺はここらでお暇するぜ」

 西宮が部屋の本棚に『異物』を並べたのを見届けると、店主はあっさりと外に出ていった。

 一歩外へ踏み出せば、昼間の暑さはどこへやら、秋を感じさせる風が吹く夜であった。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

靴を履きかけのまま、すたすた去ろうとしていた店主を西宮は慌てて呼び止めた。

「何だ、茶はいらねーぜ」

「出すつもりはありません! まだ、あなたの名前を聞いてないなと思って」

「ああ? 知ってどうすんだよ、そんなこと」

「それはないでしょう。そんなこと言うなら、家まで知られた僕はどうするんですか? あなたをお招きするつもりはなかったのに」

 痛いところをつかれた顔で「うっ……」と苦し気にうめいた店主を見て、西宮は何故か勝ち誇った気分になった。

「……村田だ」

 下の名前を聞いたが、それだけは頑なに教えてくれなかった。何か事情でもあるのだろうか? 問うたところで、彼の性格的に教えてはもらえないだろうが。

「僕は西宮です」

「知ってるよ、部屋の表札見たからな。……はあ、もうこれでいいだろ」

 今度こそくるりと背中を向けた村田は、「怪奇庫」がある神保町がある、菊坂の緩やかな勾配を上り始めていた。

 ——まったく、つかみどころのない人だなあ。

 だが、悪い人間ではない。口は悪いが、己以外も思いやれる真の善人だと思う。

 西宮はそれだけで満足だった。

「村田さーん! また『怪奇庫』に伺ってもー?」

 しんとした秋の夜の菊坂で、西宮の溌溂とした大声が響く。遠く離れた村田がこちらを振り返ることはなかった。

 だが、「おうよ」と返事をするように片手を上げる姿が街灯の光に照らされていた。


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 古書店「怪奇庫」奇書目録 其の一

 三木浩二作 小説『異物』

 値段 五厘

「作品未完ノママ生涯ヲ終エタ作家・三木ノ魂、憑リツキタル。

思念ガ黒キ気トナッテ書全体ヲ覆ッテオリ、店主ヤソノ他店員ニハ判読不可能。

村田ガ接触ヲ試ミルモ失敗。

ホボ無害デアルガ、店ノ奥で厳重保管ヲ要スル」


 「追記。

 怪奇庫ヲ訪レタ客ニ、三木ノ魂ガ反応。

 三木ノ魂ト客ノ波長ガ合ッタタメダト思ハレル。

 村田ガ対応策ヲ講ジタ上デ、販売。

 販売日深夜、除霊完了シタリ。

 当該書ハ購入客ノ元デ保管サレテイル模様。」

 編集、村田

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 第1章 「『異物』の怪」

 了

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