行く道に古書店があれば入ってみるべし

 突如、店奥から声が響いた。

 勘定場らしき台の向こう、一人の青年が座っていた。「いつの間に」と西宮は面食らったが、こちらが気づいていなかっただけでずっといたのだろう。

 癖の強そうな黒髪をうなじまで伸ばし、一つにくくっている青年は両手に本を広げていた。外見だけで見ると、西宮と同年代ぐらいの青年である。

「こんばんは。店主の方ですか?」

「……一応そういうことになるか」

 どうも要領を得ない答えである。

「あのー、つかぬことをお聞きしますが、店の方ってほかにいたりしないんですか?」

「いるにはいるが、基本的には俺一人だな」

 ぶっきらぼうな答えが返ってきた。客商売に必要そうな「丁寧な言葉遣い」というものは、この青年は持ち合わせていないらしい。

「なんだ、俺のような若造一人が店を仕切ってたら不満か?」

 青年は意地悪そうににやりとしてみせたので、焦る西宮。

「あ、いや、そういうことじゃなくっ。こんなに蔵書があるのに、一人で切り盛りをするのは大変なんじゃなかろうか、と思いまして」

「ほう、ご心配はありがたいな。……あー、ほかに一緒に働いてんのは御年七十近い爺さんと、俺の弟だが。けど爺さんは『用がある』とか抜かして朝っぱらから出かけやがったし、あいつの方は……」

「あいつっていうのは、弟さんですか?」

「……ああ。ったく、どこに行ったのやら」

 青年は不満そうに、ちっと舌打ちした。

「そうですか。……じゃあ、お客さんだな」

 昼頃、西宮が店内にいた男は三十代から四十代ぐらいの壮年の男だった。黒髪の店主が並べた売り子とは年齢層が合わない。

「お客さんか、ってのは何だ?」

 西宮の独り言を耳ざとく聞きつけた青年の目つきが険しくなる。

「あー、そのですね……」

 言い訳をするように、昼頃店内で見た男の話を聞かせると、青年は何も言わず黙り込んだ。

「お店の中から外をじーっと見ていたんですけど、店主さんではないですよね」

「当たり前だ。そんな小さい窓で景色なんか見ねえよ」

 と、言い捨てると青年はすぐそばの横幅のある連子窓を指さす。ごもっともである。

「それに、そんな客は来てねえ」

「まさか」

「店番してる俺がいうのもなんだが、大概古書店つーのは客の出入りが少ねえからな。ここに入ってきた客の見た目なんかは覚えてる。今日来た客なら猶更だ。――その、髪がぼさらけた痩せた男だったか? あんたがさっき言ってたようなのは来なかったぜ」

 青年は勢いよく断言した。

「そいつがいたのは、本当にこの店だったのか?」

「ここでしたよう、間違いないです」

 青年はそれ以上何も言わずに肩をすくめた。

「それで、用はそれだけか?」

 ますます険しくなった青年の目は「冷やかしなら帰りな」と告げている。

「そっ、そんなことないです! ……いやー、本の量すごいですねえ」

 ぎこちなく話を変えたように聞こえるだろうが、店内の蔵書に興味がないといえば噓になる。

「どれぐらいあるんですか?」

「少なくとも百冊以上、だな」

 ――絶対、それ以上だろうに。

 青年の興味はもう手元の本に戻っていたのか、返答は明らかに雑になっている。

「多少の立ち読みなら許してやるぜ」

「はは、それならありがたく」

 古書の品ぞろえは、多岐にわたるようだ。「新日本文学」など近年の文学雑誌があると思えば、年季の入っていそうな和綴じの本があったりもする。

「……うわっ、解体新書!?」

 何気なく手に取った和綴じ本の題字に、小声で驚愕する。日本の蘭学に大いなる影響を与えた杉田玄白の名著がこんなところでお目にかかれるとは。やはり価値が高いものなのか、十円という高値がつけられていたため、すぐに本棚に戻した。代わりに五銭にも満たない値段がつけられた露伴や四迷の古書を三冊手に取る。以前から西宮が読んでみたかったものだ。

 そのまま勘定台に向かおうとしたところで、西宮の視線が釘づけられる。

 西宮が手に取った露伴の小説があった隣、背を麻の紐で閉じた本があった。明らかに他の本とは装丁などが異質である。

「へえ、すごいな……」

 ぱらぱらとめくり、口から嘆息が漏れた。

 中の頁は印刷ではなく、手書きの文がびっしりと書かれた原稿用紙を紐で綴じた独特の装丁がされていた。

 表紙を見てみると毛筆の字で『異物』とあり、その左脇に小さく「三木浩二」とあった。

 三木という作者が書いた小説なのだろうか? 文学作品にはそれなりに造詣がある西宮だが、聞いたことのない作家だった。

 好奇心につられて表紙を捲り、一頁目に目を通す。


『その日は、朝から天気の悪い日でありました。起き抜けはいつも気分が良いはずですが、頭はずっしりと重く、ずきずき痛んだことをよく覚えております。

 起き上がった私は大きく深呼吸しました。さすれば、気分も少しは良くなるだろうと思ったからです。

 しかし、気分はちっとも良くはなりませんでした。

 そして、深く吸い込んだ空気がいつもと違うように感じたのです。宙を漂う軽い気体にねっとりと重苦しい泥を絡み付けたような、』


 そこまで読んで、西宮は頁から目を離した。

 ――見られている。

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