古書店「怪奇庫」の奇怪な日常
暇崎ルア
第1章 『異物』の怪
考え事をしながら慣れない道は歩くなかれ
西宮龍之介がその古書店にたどり着いたのは、完全に偶然だった。西宮一人では、辺鄙な場所にある古書店などたどり着けるはずがなかったし、わかるはずもなかっただろう。
九月を過ぎ、湿っぽい夏の暑さが少しずつ抜けてきたころである。
神田は神保町、東京でも有数の古書店街の路地裏で西宮は立ち尽くしたり、右往左往したりしていた。
西宮の職場は神保町の大通りにある出版社である。同じ通りに並ぶ蕎麦屋で昼食を食べ終え、暖簾を出てからが事の始まりであった。いつもは聞こえない大勢の甲高い声が、蕎麦屋より少し離れた方角からしたのである。
声のする方に行くと、プラカードを持った少年たちが何十人も並んで行進をする光景が見えた。
彼らから一歩離れた場所で野次馬の話が漏れ聞こえてくる。
「見ろ、波川書店の丁稚たちだ」
「まあ、あんなに大勢で!」
「何でも70人以上はいるそうだよ」
「あすこもなかなか過酷だと聞くからなあ」
どうやら、職場の労働環境改善を求めた丁稚の少年たちがストライキを起こしているようだ。
——みんな、僕より若いのにすごいなあ。
少年たちの身を案じながらぼんやり歩いていたのが仇になった。いつもは通ることのない裏通りに迷い込んでいたのである。
「どこだっけ、ここ……?」
職場のある神保町だが、そこに務め始めたのもつい最近なの地理的にまだまだ詳しくはない。元来方向音痴であることも災いし、西宮はあっという間に迷い込んだ。
「大通り、大通り……」
呪文のように呟きながら、十字路をさまよう。歩けど歩けど似たような景色ばかりで、まるで迷路のようだ。
「ダメだ……」
いつもなら大したことのない革靴を履いた足が重く感じ、とうとう立ち止まってしまった。時刻は十三時五分前。そろそろ戻らなくてはならない。
——どこかで道を聞こうか。
そう思った矢先、眼前で妙な看板を見つけた。
『怪奇庫』
「かいき、こ……?」
そこのさらに左手を行けば、ますます大通りから離れてしまいそうな一角である。
白塗りに黒文字という地味な配色の看板にはその三文字だけが表記されていた。
店自体は、一見するとこじんまりとした民家に見える。ペンキがまだつやつやとしている看板を見ると、そこまで古い店でもないのだろう。
——何の店なんだろう。
好奇心が身体を動かし、思わず入口である引き戸に手をかけた。
蓬髪の男と目があったのはそのときだ。
擦りガラス一枚隔てた向こう、よもぎの葉のように長く伸びた髪を乱した男が西宮の目をじっと見つめていた。文字通り、穴が空きそうなほど。
顔から少し下に目をやると、着ている和服の襟からはやせ細った鎖骨が覗いている。
「うわっ」
驚いた西宮の身体が後ろにのけぞる。まさか人が目の前にいるとは思ってもいなかった。
はやる心臓を落ち着かせ、もう一度戸口を見たら男の姿はどこにもいなくなっていた。
暇を持て余した店主が外の景色を見ていたのだろうか? 何もあそこまで顔を近づけなくてもいいだろうと思ったが、近眼なのかもしれない。
——そろそろ戻らないとな。
苦笑を漏らし、店から離れる。散々迷った十字路だったが、通りを闊歩していたパナマ帽の紳士に道を聞いて抜け出せた。職場に戻るまで、「怪奇庫」にいた男の瞳が雀色をしていたことが頭の片隅に残っていた。
ようやく男のことを忘れられたのは、昼休憩から十分も遅刻したことで、上司から油を搾られたときであった。
「お先に失礼しまあす」
まだ残って作業をしている先輩や上司たちに声をかけ、西宮は職場を出た。
いつもなら一仕事終えた爽快感とともに国鉄に乗り、下宿先がある本郷まで一直線なのだが、その日だけは違った。
西宮は、昼間ひどい目にあった裏通りへと舞い戻っていた。
いくら方向音痴とはいえ、一度通った道はちゃんと覚えている。目的地までたどり着くのにさほどの苦労はかからなかった。
「……ふう」
擦りガラスの戸の前で、一度深呼吸する。
「怪奇庫」。一体何の店なのか、職務中も気になって仕方がなかったのである。
恐る恐るガラスの向こうに目を凝らしたが、昼間の男はいなかった。あれは、客がおらず暇を持て余した店主が外の景色を眺めていただけなのだろう。
「ごめんくださーい」
擦りガラスの引き戸をガラガラと開ける。入って最初に目についたのは、店内の壁をぐるりと覆う本棚。
――なんだ、古書店か。
拍子抜けしたような感覚で、息をついた。「怪奇庫」などと言うから、ウェルズの幻想小説「魔法の店」のように、奇々怪々な品々が並ぶ骨董品店のようなものを思い浮かべていたのだが。
裸電球一つしかぶら下がっていない店内は昼間でも薄暗かった。夜になれば、字も読めないぐらい暗くなってしまいそうだ。
――古書店としては致命的なんじゃないか?
西宮が勝手に推測したときだった。
「いらっしゃい」
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