人魚の浴槽

天野いあん

人魚の浴槽

 まだ四月で、赤いマンションに住んでいた時。私は会社の上司から頼まれて、人魚を飼うことになってしまった。うちの風呂は狭いし、困りますと何度も言ったのに。断れないまま、引き受けてしまって後悔した。実際に人魚が家に来るなら、人魚をどこで過ごさせるか、とても困る。狭い部屋で過ごさせるのは可愛そうだ。というか、そもそも人魚はこんな部屋で生きていけるのか。どういう生き物なんだ。よくわからないまま、大きめのビニールプールをネットでポチった。

 そうして、しばらく日が経って、ついにインターホンがなった。人魚を届けに来たのだ。廊下をかけ足でいそいで、ドアをガチャリと開ける。大きな水槽が台車に乗せられていて、そこに、下半身だけ浸かった、黒髪の人魚がいた。

「それじゃあ、よろしくお願いします。」

 業者は、低い声でそう言うと、すぐに帰ってしまった。ゆっくりと、人魚と目が合った。台車のタイヤが汚いけれど、しかたないので構わず部屋に入れる。これが大変だった。狭いリビングの中心に、大きな水槽が置かれた。人魚は私と目を合わせている。

「人魚さん、これからよろしくお願いします。」

挨拶を終えた後、ビニールプールを膨らませ、シャワーで水を入れる。人魚は、シャワーを持った私の姿を、じっと見ている。水が激しく音を立てていた。

 一人前の食事を、人魚と囲む。小さめのテーブルに並んだのは、お米と、わかめの入っていないお味噌汁と、コンビニで買ってあった野菜炒め。

「いただきます。」

うまく喉から声が出なかった。私はいつもそうだと自分に呆れた。これからは二人で住まなきゃいけないのに。

そう考え事をしているうちに食べ終わる。人魚は、きまずそうに自分の指を見ていた。

食べ終わったお皿を、台所へ持っていく。一通りお皿を洗い終わって、そのあとは遅くなるまで仕事をした。

 お風呂に入り、浴槽で、照明をただぼんやり眺めている。シャワーから漏れる水が落ちる音を聞いていたら、意識がふわふわとしだして、浴槽で足を少し動かす。すると、唐突に大きく水音が響く。お湯を沸かしたのがはやかったせいで、自分が水と一体となったようなぬるさだ。肌に水が触れている。温泉に行きたいな、と誰に言うでもなく呟いた。

 急に、浴槽ではなく、海にいるのかと思った。実際足を見たら、気味悪く鱗がびっしりとあって、自分にある異物の見た目に、ひどく気持ち悪くなった。海はいつかに行ったスキューバダイビングのようで、綺麗だった。人魚の下半身で泳いでみようかと思った矢先に目がさめてしまった。慌てて裸で寝てしまったのを水から飛びだして、温かいシャワーを浴びて着替えて、そのあとは眠いまますぐ寝た。

 朝の仕事の電車の中で、昨晩の夢の意味を考えた。浴槽で人魚といえば、子供のときは、人魚に憧れて、浴槽で妄想していたかもしれない。人魚の姿を初めてよく見た昨日は、それが夢に出てきたのかもしれない、と結論づけた。ああ、私も足が人魚なら、海を自由に泳げたかもしれない。少し彼女が羨ましくなった。ただの人間の足で、いつもの満員電車から降りた。

 そうして人魚が家に来てから、幾分か経った。相変わらず忙しい日々が続いている。無気力にコーヒーを飲んでいたら、近くで唐突に跳ね出し、驚いた私のコーヒーが彼女の足に少し零れた。痛そうに、人魚はパニックになって泣いている。私は慌てて浴槽に抱えて連れていき、そのコーヒーが落ちてしまった鱗のところを、優しく冷たいシャワーで流し続けた。そのまま病院に連れていき、彼女を慰めた。火傷というのは痛々しいもので、鱗が剥がれそうなほど肉の部分が変色し、肉の中が見えそうで、グロテスクなそれから目をそらした。人魚の頭を優しく撫でた。

 左手で撫で続け、右手で、人魚の足の怪我について、すぐ検索した。一番上にいい記事がヒットしたが、「人魚の足を食べるとどうなるか」とか、「人魚の肉は」とか、そんな昔に流行った伝承の記事が下にあって、嫌で仕方がなかった。

 病院から帰ってきて、そのままになっていたビニールプールにこびりついたコーヒーを流すために、とりあえず浴槽に居てもらうことにした。不安げな顔をしているし、自分の傷を泣きそうに眺めている。可哀想だった。浴槽に人魚。その画は、自分の目に焼き付くほどに異様だった。だがそこにある、不思議な美しさを感じた。当分の間はこのままで居させて、落ちついたら、移動させよう。暫く自分がお風呂に入れなくなったけど、別に構わなかった。その夜はうまく眠れなくなった。

 夜の満員電車に揺られている。最近は寝付けない日々が続いている。疲れとストレスで、ぼんやりとした頭で生きている。ああ、疲れた。もう、なんでもかんでもやめたいくらいだ。無機質な音の鳴るエスカレーターに乗って、コンビニに行って、チキン南蛮の弁当を買って帰る。

「最近、連絡してこないでしょ」

お母さんが電話をしてきた。大切な電話すら忘れた自分を恥じた。お母さんの声に、泣きそうになったけど、必死にこらえた。涙目で電話を切ったあと、誰もいないワンルームで力なく座って、まだ仕事が残っている鞄を眺めた。左手には弁当が握られたままだった。人魚に餌をやったあと、ふと頭によぎった。人魚の浴槽。「人魚の肉を食べたら、どうなるのか?」という記事。慌てて頭を振って、チキン南蛮を無理やり口に入れた。

 また、ある日。体が動かなくなった。浴槽で餌をやったあと、廊下で倒れた。意識がなくなったのか、なくなっていないのか、ギリギリの朦朧とした時間を過ごした。酷く長く感じた。ぴちゃ、ぴちゃ、という音に、ゆっくりと意識が戻ってきた。目を向けると、人魚が心配そうにこちらを見ていた。可哀想に、こちらを不安げに見ている。可哀想に。すると、人魚が不思議な動きをしだした。人魚が自分の指を噛んだ。指から少し垂れた血を、私に飲ませようとしている気がした。驚いて、衝動で、なんとか起き上がることができた。動悸が激しく、息が荒くなった。人魚が嬉しそうに起き上がった私に抱きついてくる。さっきの行動が嘘のようだ。どういうことだ? 考えるのが怖くなった。

 人魚がキョトンとしている。休みを取った私は、ビニールプールを出して、またシャワーで水を入れている。リビングでまた一緒に過ごしたくなったからだ。今日はいい天気だ。カーテンの先から、7月の温かい陽が入り込んでいる。ビニールプールに人魚を抱えて移す。微笑みが、すごく可愛くて、愛らしかった。まるで水族館にいる、かわいいイルカのようだと思った。リビングにいると、急に華やかだった。無気力に目も向けていなかった全身を、明るい部屋でまじまじと見た。美しい肌、胸、首、腕、そして、鱗の足。まるで魚のような、足。とてもかわいらしい。瞳と綺麗な髪が、私を酔わせた。なんてかわいいんだろうか。リビングに美しい人魚を待たせて、私は溜まった水を流し、洗うために風呂場に戻った。

 風呂場のドアを閉める。浴槽。ここにあの美しい人魚が居たのだ。この水は、人魚がいた水だ。水を流すはずだったのに、浴槽の前で立ち尽くしている。その時、あまりにも憐れで、恨ましい考えがよぎった。この水を飲めば、どうなるだろうか。あのとき、あの子は私に血を飲ませたがった。この浴槽の水は、人魚の水なんだ。ならば、飲んだらどうなる? あの記事、人魚の肉を、食べたなら。肉だなんて残酷なことは、私にはできない。でも、水を飲むくらいなら許されないだろうか……? ゆっくりと手で水をすくい、その水を少し口に含んだ。魚の生臭い匂いがした。すぐに後悔して、やっぱりやめた。そんなことが考えられてしまった自分が嫌になった。

 そのあと、だんだんと怖くなった。あの時、なぜ水を飲んでしまったのだろうか。あまり信じちゃいないけど、影響があるかないか、わからないじゃないか。怖くて調べることもできない。ああ、でも、もし人魚の伝承が本当だったら。もしそうなら、私は自由になれるかもしれない。自由が何なのかなんて知らない。でもあの子と一緒に過ごせたら、今よりはマシだと思った。きっと無謀な考えだ。私は知っている。そういう物語で、最後には、肉を食べた人は激しい後悔をする。でもわからない。だって、私が飲んだのはただ、浴槽に残っていた水であって肉でない。もし伝承が本当でも、それに気がつけるのはずっと先だろう。それでも、この馬鹿げた妄想は、あの頃の私の心を軽くしてくれた。人魚を飼い始めて、今年でもう六年になる。

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