よくある心温まるような森の話

かもめ7440

第1話






夏休みに遊びにきていたおじさんは、

当時六歳だった僕にせがまれて、

車で少し遠くの森へ虫取りに連れて行った。


あたりで有名なのは昔は工場があったところだが、

既に潰れているタンク跡とか、焼却炉とか、

円形の遺構とかが今現在でも見える。

廃棄物は人間の生活痕跡で、足跡だ。

貯水設備、建物と事務所らしきものもあったそうだが、

殆どは撤去されて遠く古い時代の遺跡感のように、

蔦が這い巡り、雑草が生い茂っている。

国立公園に指定され、

希少動物の保護を理由に立入を禁止されている場所みたいに、

見えない壁にでも閉じ込められたような、在りし日の光景。


しかしそれは六歳の僕にも、おじさんにも関係ない。

こういう進む方向って必然的に聞き手の反応に規定される、

というのもある。

もし僕が工場に興味があったらおじさんも掘り下げたろう、

一時期には二百人ほどの働き手がいたとか、

たとえば朽ちかけた鳥居の跡があったとか・・・・・・。


厳密には私有地なのだろうが、その工場を目印に、

高い木々とその枝で覆われた、大きな森がある。

青大将がいるぐらいだ。

枝のところでうねうねとしていた。

自然豊かっていうことだ。


しかし在りし日の工場の機械音を伴った喧騒もなく、

静かな森だ。ある意味では真夜中の病院に似ているかもしれない。

テレビの中に変なものが見える―――とか。

あるいは、寺には変なものがいる―――とか。


おじさんと僕は三時間程度、

その森で虫を探したが、

百足や蜘蛛、団子虫、件の青大将がいるばかりで、

目当てにしていた甲虫や鍬形などの虫は一匹も見つからなかった。

視覚に感ずるある運動する光像のリズムに反応している、鳥。

途中でおそらく虫取りとか、

ピクニックなどに来ていた親子の何組かと出くわしたが、

どの組も収穫は殆どないようだった。

存外昆虫マニアがあらかたやっつけてしまった後なのか、

それともたんに昆虫の知識が乏しかったからなのかもしれない。

エネルギーというのは、欲求の衝動に感情や思考を重ねていく。

甲虫や鍬形がいる樹は、クヌギとコナラだけ。

団栗がなる木で、しっかりと樹液が出ている、

樹のうろなんかに生息しているらしい。

また蝶や蛾がぶんぶんしているような場所には、

つまり虫嫌いな人が敬遠したくなるような場所ほど、

いるものらしい。


それは死神のカードを二回連続で引いてしまうような、

そういう確率かも知れない・・・。


僕等はかなり森の奥の方まで来ていたけれど、

結局何も捕まえられないまま日が陰ってきた。

雲の峰はだんだん崩れてあたりはよほどうすくらくなり、

来た道を引き返すことにした。


その帰り道。

おじさんが歩きがてら森の景色を眺めていると、

木々の間に人影が見えた。

それはスクリーンに映写されたようなもので、

距離があってよく見えなかったらしいのだけど、

その人影は確かに工場の作業員風の恰好をしていたらしい。

そして、こちらを木陰からじっと見つめていた、と。

ゆらゆらと浮かぶ光はまるで人魂のようにも見えた。

その時確かに、


「見てはいけないよ」

―――何処からか声が聞こえたらしい。男の声だった。

所属している所番地、名を外し肉体の枷を外した住所・・。


幻聴や空耳だろうか、

しかししばらくの間、考えてみると不思議なのだけれど、

その人影に眼を奪われていたらしいおじさんは、

気が付くと前を歩いていたはずの僕の姿がなかった、と。


夕方のあまり知らない森で六歳の子供を見失う、

というのが―――断絶を伴った鋭利な切断か、

いかにその動かしがたい必然性に支えられているか・・・。

おじさんは必死で僕を捜したが見当たらず、

えらいことになった、右を見ても左を見ても、いない。

探索は困難をきわめた、影は吸い付いてくる蛭や海月。

森の中はだんだんと闇に沈んで―――いく。

判断を誤った、手をつないでおくべきだった、

―――と、照応してゆく凝縮した魔のひと時。




(・・・・・・あの時、蝉の声も、鳥の声も聞こえなかった、

慌てていたからじゃない、音が消えていたんだ―――)



「こっちだよ」

―――確かに声が聞こえた。

静かな呼び声。

さっきとは違う、今度は女の声だった。

余裕と媚びさえ感じる声。

一抹の侮蔑も嘲笑も籠もってはいなかった。

しかしそれが却って侮蔑的に、嘲笑的に聞こえた。



(蛆に内臓を吸い出され―――る、)

(蟻の牙で内臓を食い破られ―――る、)



「おい、そこそこそこ!」

―――確かに声が聞こえた。

これもまた、別の男の声だった。

生硬な身のこなしを感じさせる声。

背筋に冷たいものを感じながら、

疲労がそれを中和する。


(茸の胞子に脳を支配され―――る、)

(仲間の蟻だと思ったら、

蟻に化けた蜘蛛だと判明して食われ―――る、)



おじさんは、平面図が空間上に現れてルートを作るような、

分岐点は存在しない、直感だけが支配する感覚。

明確な目標なき細胞との落差をつとに感じながら、

そういう何かに導かれるように、

そちらの方へ進んでいった。

少しも自信はなかった、

僅かな可能性に縋ったのだ。

二、三十メートルほど進んだらしい、無我夢中だった。

不意に子供の呻き声が聞こえて、何かが倒れる音がした。

枝の隙間には夜が忍びこんできている。

その方へ走ると僕が地面に仰向けになっていた。



怪我でもしたのか凍り付いた表情で唸っていた、と。

おじさんは驚いて僕に駆け寄ったが、

同時に何かの気配を感じて辺りを見回す。

すると無数の人影が、

木陰からこちらを凝視してくる。

黴臭く不浄な屋根裏部屋の破風のように、

小さくノイズがした。

ノイズが減り、音量が大きくなった時に、

人の声となった。夢が熱を運んだか、熱が夢を生んだのか、

身体の中で何かが爆ぜ、危険な漿液が充ちて―――くる。

肉を風がさらい、白い骨だけが残るほどの、

長い時間が流れたような気がした。

毛で覆われた小さな何かがよじ登り鼻を突っ込んでくる。



(寄生虫が体内で成長して死亡す―――る、)

(蠅に卵を産み付けられて頭がもげ―――る、)



「気づいてるんだろ?」

―――声が聞こえた。

思わず息が止まった。

真後ろから聞こえてきたらしい・・。


脳内で勝手に作り出した恐怖の幻想に苛まれながら、

おそるおそる見る、すぐ後ろにはいなかった。

だが、木々の間には、沢山の人のようなものがいた。

黒い霧のような状態。

それが睫毛の先端まで伝わってくる。

その顔には生気はなく、

皆口々に何かを呟いている、

怒っているのか笑っているのだかわからない表情をしていた。

   

―――

危害を加えられるという感じも不思議としなかったらしい、

変調を告げる心電図。

血の気のない唇、蒼白い顔。

両眼は純粋な青い硝子玉のようにも思えた。

じーっと見ていると不思議と人に見えてくる昆虫・・・。

口元がパクパクと陸に上がった魚のように動いている。

おじさんはゾッとして、僕を背負うと

森の外に向かって全力で駆け出した。

夜の月が後をつけてくるように、鉛の網が落ちてくる。


―――らしい。

入り組んだ迷いは塔に上る・・・・・・。


だのに、地面から這い上がるような風が起こった。

敏感過ぎる聴覚は悩ましいまでに不協和音をまさぐる。

そして見た。

眼窩の奥まで届き、角膜に記録されたような一瞬、

確認する、あるいは確認されている、

人型実体群から構成される小規模な共同体、

食い入るように見入っていた、

木々の間に大きな塊のようなものがあり、

それも、手と手、足と足が無数に絡んだような、

びっしり、デタラメに、機械類的な、寄生生物的な、

眼鏡のアーム、時計の針や歯車、

空き瓶や缶、様々な電子部品を吸収して、一体化しながら、

いくつも、いくつもの人体のパーツからなる化け物で―――。



・・・。

鍵をかけたドアは今や存在しない。

ドアの概念自体が既に失われたものだから―――だ。

だのに、だのに・・・・・・。




その中心部に巨大な岩のような顔があった・・。

瞬きや視覚の断片が、モールス信号のように感情を読み取る。

不可解に彩られた黄昏と無茶苦茶に調子外れな音に満ちた、

果てしない深淵への突入・・・・・・。


―――


深層はそのように明瞭に観測された、

生き物の声がぴたりと止み、

そして正確な距離を見失った。

半ば随意的、半ば不随意的な一種の動き。

声は出なかった、

不思議と―――おじさんは笑ったらしい、

おかしかったからではない、

泣きたくて、何故か笑ったのだ。

この心理を上手に説明できないらしい。

汗が玉になって噴き出し、

それこそ毛孔がドッと開くような感覚だったらしい。

妄想は肥大化していく。

その時に僕の声が聞こえたらしい。

その顔に浮んだ表情を見て呪文が解けた。

おじさんは、見てはいけないものを見た、と思い、

肝を冷やしながら、それでも冷静に、慌てず、

森の外の車の停めてあるところまで戻れたらしい。

暗く、狭く、曲がりくねり縺れ合った森には、

過去のすべてが幽かな暗示となって生き残っている。

おじさんに背負われている間、

僕はずっと・・・・・・。


「ゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメン、

ゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメン、

ゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメン・・・・・・」

と、狂ったように繰り返し、

泣きながら何かに謝っていたらしい・・。


おじさんは言う。

(自分自身の悪意で一杯だった、

怖かったし、逃げたかった、でも、

自分は大人だった・・・・・・・)


そういえば、腐臭というのがしたとおじさんは言っていた。

おじさんは、それはそういうことなんだろうと言った。

車まで戻ると、もう日はとっぷりと沈んでいて、

街灯が頼りなく暗闇の中で灯っていた。

人工の光の下にいると、

森の中の出来事が嘘のようにもおじさんには思えたらしい。

その印象が濃厚になるに従ってその詩の美しさが高まる。


耳を澄ませるとアメーバー状の無数の手のひらのように、

森の闇から大勢の人間の囁きのようなものが、

木々のざわめきと共に聞こえてきた。

それは狩りの合図、夜の儀式、何らかの祈りの言葉のようにも、

思えてきたらしい。意識の中にテンプレートを埋め込んだ、

変異の速度が加虐的な凶暴な感情を抑え込んでいる。

粘っこい汗のようなもので窒息しそうになる。

   

―――



おじさんは、自動販売機でジュースを買う。

十円玉であえてジュースを買う。

呼気から基準値を遥かに上回るアルコールが検知された、

酩酊状態だったみたいに、

天にもつかず地にもつかぬ宙を―――空を漂う、

物を思うでもなく思わぬでもなき境に遊ぶ・・・・・・。




そして―――。

そして―――。



「どっかでご飯でも食べていこうか」と言う。


多分、あの時見つけられなかったら、

僕はここにいなかっただろう、と・・・・・・。


助手席に座った時に、僕はようやく正気にかえったらしい。

おじさんはその時、あえて何も言わなかったらしい。

おじさんは、イーグル・リヴァー、

異星人のパンケーキの話をする。

おじさんは、尋ねるような、その先を促しているような、

迷っているような、そんな曖昧な瞳をしていた。


「ある日、濡れた舗装道路をデコボコのタイヤが転がるような音がして、

そうだね、四角いタイヤで自転車が走るような音がしたんだろうな、

庭に三メートルぐらいの高さの、九メートルぐらいの直径がある、

銀色の円盤のようなものが来て、

百五十センチぐらいの背の低い、頭ツルツルの人が、

水が欲しいというようなジェスチャーをするんだ、

円盤の中にはその人を含めた三人いて、

まあ奇妙奇天烈な格好をしてる、

円盤の中では火の出ないような調理器具で何か調理してる、

そして水の代わりに彼はそのパンケーキをもらうんだ」

「美味しいのかな」

「それが塩気がなくて、段ボールの味がしたらしいよ。

また塩味がないのは、妖精とも同じだっていうね」


おじさんがどうして、

車の中でそんな話をしたのかはわからない・・・。

ただ、何となく奇妙な感じがその話を、

呼び起こしたのかもしれない・・・。


おじさんにこの話を聞いた時には、

もう僕はすでに社会人で、だから―――。


その日の記憶は殆ど残っていなかった。

あからさまな心霊話だったらつゆとも信じないけれど、

あの工場で火災が起きたことは地元じゃ有名だったし、

ならびに山近いその森の不思議な話なら、

納得できる気がした。


鍵の沢山入っている箱の中から地下室の扉に合う、

たった一本の鍵を見つけるような・・・・・・・。


でも覚えていることもある。

自然豊かな森でおじさんと一緒に虫を探し、

木々の間をすり抜けていった先の水溜まりに、

宇宙的な細かさと美しさを持った、

クローズアップされた孔雀や、蝶の羽根のような、

無数の蛾が群がっていた光景だけは、

今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

寒さは始まらなかった。

ただ、寒さはまだ固く乾いた地面を歩き回っていた。

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