宇宙局 救済課―運命を紡ぐ者たち
萌音娘娘/村上可甫子
第1話 おさらばです (Farewell)
20XX年 2月5日 東京
鼠色の雲が太陽を覆い尽くす。
冷え切った大気が刃のように頬を裂き、雪が舞台を祝う紙吹雪のように舞っていた。
寒さも、痛みも、もう感じない。
女は、吹きすさぶビル風に今にもへし折られそうな枯れ木のように、そこに立ち尽くしていた。
「これで、この腐った人生から解放される……」
寒さで体は硬直し、温もりはすでに失われている。
風に折られる枝が一本、また一本と落ちていくように、背負ってきた重みが、体から切り離されていく。
彼女は――
無念と恨みを蹴り飛ばすように、全身でビルの端を蹴った。
足裏に、コンクリートのざらつきが伝わる。
——
ひらひらと舞う。
大の字になった手足はくたびれたマネキンがほうり投げられたように、動きはない。
――だが。
十メートルも落ちたかどうか、
突然、
体がふわりと浮いた。
彼女の周りが、炉で溶かされたガラスのように歪む。
密閉されたように音が消える。
空気が裂け、黒い影が伸びた。
それは、工事現場のクレーンが荷を吊り上げるように、彼女の腰を掴んだ。
「早まるな!」
意識に直接流れ込んできた。
そして――
彼女の体は、灰色の屋上へと引き戻される。暖房の室外機が、渇いた音を立てて、埃臭く回っていた。
確かに、飛んだはずだった。
だが、目の前の世界は、飛び込む前と何ひとつ変わらない。
大小のビルが立ち並び、遠くには東京タワーが見える。足元には、蟻のような人影と、ミニカーのような車の流れがあった。
違うのは、ただ一つ。
腰に生暖かい何かが触れ、身動きが取れない。
彼女はそれを振り払おうと、必死にもがいた。
やがて、それが人の手だと気づき、苛立ちを爆発させる。
「放して! 私には……何も残っていないのよ!
希望も、気力も。
時間さえも……!
どうして止めるの?」
甲高い絶叫がゴッーというビル風に呑まれ、
地獄から噴き出した断末魔のように、空へ散っていく。
――半世紀以上を生きてきた。
誰にも認められなかった。
親でさえ、その存在を愛さなかった。
それでも、前を向いてきた。
だが、何ひとつ成せず、何ひとつ手に入らなかった。
残ったのは、
癒える間もなく皮を剥がされ、
また煮えたぎる湯を浴びせられる、その痛みだけ。
そうして積み上がった残骸――それが、人生と呼ぶもの。
「わかっているよ。」
男は彼女を、屋上の中心へとさらに引き寄せた。
そこには屋上の排水溝から出る水の腐った匂いが漂い
数羽のカラスはやすっぽい芝居を見る観客のように二人を見下ろしていた。
「君の人生の惨めさ……すべて、わかっている。
君は――利用されていたんだ。」
「……利用、されていた?」
何を言っている。このお節介な男に、私の何がわかるというのか。
「意味がわからない!」
彼女は、思い切り地団駄を踏んだ。ハイヒールのかかとがぽきっと折れた。
「ふざけないで……!」
せっかく決めたのに。
やっと楽になれると思ったのに。
それなのに――。
世界の不幸の原因はすべてお前にある――そう言わんばかりに、にらみ返した。
この日のためにと選んだ、お気に入りの白いワンピースの裾がはたはたと揺れ、怒りのあまり固く結ばれた唇がわなわなと震えていた。
怒りの矛先がこちらに向いても、彼は後ずさりするわけでもなく、おどおどするわけでもなく、ただ彼女をみていた。その姿に、怒りがゆっくりと熱を失っていく。昇っていた血が少し下がった。
この男は……本気で言っている?ただのお節介野郎ではないのか?
怒りが下がってみると興味が入り込み、彼の話を聞きたいという衝動が、小さく芽生えた。
「……ど、どういうこと?」
どもりながら男に尋ねてみる。脈拍が、わずかに落ちる。呼吸が、平常に戻っていく。
「君の人生は”計画”が作った流れの上にあった。」
男の回りくどい言い方が、彼女の思考と緊張を鈍らせていく。
「……計画?」
「ここで話すには複雑すぎる。 だが、君は――走らされていた。」
男は数秒ためらったあと、冷え切った彼女の手首を掴んだ。
「寒い。落ち着いて話せる場所へ行こう。」
鉛のように抵抗していた体は、犯人が連行されるように、されるがまま男に引かれていった。三歩ほど進んだ、そのとき。
周囲に、まばゆい光が満ちた。
空気が、かげろうのように揺らぐ。
二人の体は金属の光沢を帯びた薄い膜に包まれた。
視界が一枚の絵のように砕け、粒子となって散った。
世界はかすみ、鼓膜に強い圧がかかり、肌の輪郭が溶けていく。
もはや、音も、重力も、時間も――
自分の鼓動さえ、どこかへ消えていた。
うたた寝から起きるように、目を開けると足元には確かな土があり、肌に寒さが戻っていた。
「ここは……?」
目の前には、翡翠のような湖が広がり、荘厳なアルプスの山々が白銀の衣を纏ってそびえていた。
「ここは……まさか、外国?」
絵葉書でいつか見た光景。こんな美しい場所が、目の前にあるなんて……。
「ここはスイスのヴヴェイ。レマン湖のほとりさ。」
レマン湖を見下ろす場所に、シャレー風の山荘が佇んでいた。
木造の温もりを感じさせる建物の煙突から、白い煙がもくもくと立ちのぼり、やがて雪とひとつに溶けていく。
二階には、愛らしい木の欄干を備えたバルコニーが張り出していた。
その傍らには大きなモミの木が寄り添い、山荘の裏手には森が広がっていた。
男がオーク材の扉を押し開く。
中には大きな暖炉がぱちぱちと燃え、円形の大理石のテーブルと、茶色の革張りのソファが大小四つ、ゆったりと配置されていた。
彼女は中へ入り、そこで初めて、長身の男の顔をまじまじと眺めた。
ゴールデンブロンドの髪は、陽光を思わせる輝きを帯びて短く整えられ、アイスブルーの瞳は水晶のように澄んでいる。
氷の彫像のように端正な顔立ち。でも怖い感じはしない。
「そこに座って」そういうと、キッチンの方へ行き、ペットボトルの水を手に戻ってきた。
彼女にも一本渡すと、自分の分のキャップをきゅっと短くひねった。
「さて。どこから話そうか」
彼は手首のインターフェースを軽く操作し、投影されたホログラムに視線を落とした。今井明美。生誕年:XXXX年。年齢:60歳。
セミロングの髪に白い肌と二重の目。
若い頃の記録映像と、目の前の彼女の姿が重なり合う。
目元に刻まれた僅かな皺とほうれい線が、経過した年月を正確に示していた。
彼は指先でデータをスクロールさせながら、口を開いた。
「君にも見えるだろう?これが君のデータだ。ここには、君が経験したすべての苦しみが記録されている。」
彼女は流れるホログラムを見つめたまま、唖然とした。足元から恐怖が蛇のように這い上がり、喉を締めつける。いつこんな映像が撮られたというのだろう。
「マインドコントロールシステムを知っているか?」
男は聞きなれない名称を口にした。
「人類を“管理する”ためのシステムだ。そして——開発初期の過程で、君たちが使われた」
「マインドコントロールシステム?SFの世界でしょ?なんで私が関係するの?」
彼女はやっとの思いで口を開いた。人を動かすような上流にいる人間でもない。
ただ下層で生きている自分を、管理してみて何が変わるというのだろう。ペットボトルを持つ手を無意識に強く握りしめ、ペットボトルからはグシャという音が悲鳴のように聞こえた。
「驚くのも無理はない。」
男は指先で空中のインターフェースを操作し、浮かび上がる情報を視線で追った。
「旧式のブレイン・コンピュータ・インターフェース――簡単に言えば、ビッグデータと脳の微弱な電気信号を利用した支配システムだ。」
透明なスクリーンには、神経回路を模したグラフと数字が流れていく。彼の説明を受けても、彼女にはピンとくるものは何もなかった。ますます自分とかけ離れていくとさえ感じる。ただ口から出まかせを言っているようには見えない。彼女はちゃんと話を聞こうと改めて男と向き合うように座り直した。
「脳が微弱な電気信号で情報を伝達?どうして私の不幸がそれに結びつくの?」
「この時代のAIは、完全には自立していない。
だから支配の方法として直接の命令ではなく、人間の脳に適切な信号を送る方法を選んだ。TVの映像を流すように、特定の電磁波パターンを送信し、感情や思考、無意識の傾向を誘導する。矛盾なく効かせるには、筋書きがいる。君は、その筋書きの中にいた。」
「電磁波?筋書き?」明美が口を挟む。ドリーは数秒ほど視線を上に向けると、明美にわかりやすく説明をしようと、イマジネーションをフル出動させて、たとえ話を選んだ。そのたとえが適切かどうかは、さておき。
「そうだな。たとえば、一人を大統領にする。
それが目的だとしたら、そこへ至るまでの筋書きが必要になる。
何層ものインフラと人間を動かさなければならない。
簡単に言えば、そういう仕組みだ。」
「たとえばこれは、無意識とビッグデータによって、買い物行動を誘導された個体の例だ」
ドリーが新しい映像を表示した。
スクリーンには、四十代ほどの女性が街を歩く姿が映し出される。
彼女の周囲には、可視化された無数の電磁波が漂っていた。
彼女は浪費家ではない。
普段は必要なものだけを買う、ごく普通の人間だ。
ただ、月末、口座に余剰がある状態になると、理由もなく購買意欲が高まる。
彼女の周りには、常に電磁波が満ちていた。
通信設備、電化製品、送電線。
都市のインフラとして、当たり前に流れているものだ。
電磁波が、テレビ映像を送るように、彼女の無意識に働きかける。
「不安や不足感が、わずかに増幅される。」
――あれも買っておいたほうがいい。
彼女はそう考え始める。
電磁波が交感神経を刺激し、判断を急がせる。
自分で決めたつもりで。買った。
スクリーンの映像が止まる。
「本人は気づかない。
だが、無意識の判断は、すでに誘導されている。
これが、この時代の管理システム。」
ドリーはそう言って、映像を消した。
さらに彼は続けた。
「それだけじゃない。もう一つ役目があった」
「もう一つ?」
「そうだ。実験というものは、まず小さな規模で行われ、
成功すれば、より大きな段階へ進む。 最初の実験から関わった人間は、
基準点として、新たに組み込まれる人間の調整に使われる。 ――そのための役割だ」
「つまり……自分が不運だと思っていたことも全部筋書きだったわけ?なんで不運の筋書きよ!幸せな筋書きだってあったでしょうに……基準点?ふざけてる」
彼女はバカバカしいというように、両手で何度も太ももを叩いた。じんじんとした痛みが広がった。もう一つの役割が彼女の理性を粉々にした。
「要するに……私は“材料”だったってこと?」
彼女は回し車でカラカラと音を立てて回っている白いマウスのTV画像を思い出した。自分はあれなのか?
彼は、うなずきかけて止まった。
「……そういう扱いを受けていた。統計上“不運が集まりやすい側”に……」だんだんと語尾が小さくなり、最後は聞こえなかった。
彼の話が終わろとしたとき、突然背筋に悪寒が走る。
あまたの黒歴史が線状降水帯の打撃を受けた下水のようにあふれかえる。
逆流の痛みに奇声を上げそうになる自分を、必死で抑えた。
確かに、私の人生はどこへ行っても同じような嫌な目に遭っていた。そして、まるでその道しかないように追いやられ、転々とさせられてきた。
それがたまたまではなく、意図的に作られたものだったとしたら?
私は、群れの中の“変数”として組み込まれ、監視され、意図された通りに動かされていた……?
「私の痛みは、誰の得だっていうのよ!みんな協力したわけよね?」
頭が追いつかないまま、ただ呆然と問いかけた。みんなが自分を陥れるために動いていた?うそだ……。
「協力せざるを得ない環境に置かれ、操られてしまった。それが正しい表現なのかもしれない。」
彼は慰めるべきか、共感すべきか判断に迷い、深くソファに沈み込み、せわしなくひじ掛けを撫ぜていた。
「なぜ? どうしてそんなことに加担するの? 人を不幸にするのに?」
彼女は不毛だと思いながらも、あてどもない質問を投げかける。
勢いよく暖炉のまきがパチリとはねた。彼はおもむろに腕組みをし、ふっと息を吐くと答えた。
「つまり、経済の発展そのものが、人類を管理しやすくするためのものだった。」
「……つまり、世界は最初からAIに支配される方向に進んでいたってこと?」
経済発展って、便利な世の中を作るためじゃなかったの?
「管理」って……どういう意味?
「君たちの時代の人類は、自由と平等という相反する理念を掲げてきた。
そしてある時、人類は“平等”という無意識に支配される未来を選んだ」
そう言うと、気分を変えるためか、それとも責められていると感じたのか。
彼は急に立ち上がり、彼女に背を向けて窓の外の山々に顔を向けた。
心なしか、これ以上の質問を拒否しているようにも見えた。
「誰がそんなことを決めたの?支配者って、いったい誰なの?」
彼女は無意識に爪を噛んでいた。流れた涙は嗚咽に変わり、しゃっくりとなって喉を鳴らす。
「その情報は僕たちにもわからない。なぜなら、最初に誰が考えたかの記録は消去されているし、仮にどこかに残っていたとしても、それは最高機密で僕たちにはアクセスできない。」
「じゃあ……私はどうすればいいの?人生を終わらせようと思ったのに。それにあなたは誰よ」
彼はやっと振り返り、シャツのしわを直しながら、王族への挨拶を思わせる優雅さで、立ったまま片膝を折った。
「僕はドリー。25XX年の宇宙局 救済課に所属している。きみの時代なら公務員ってところかな」
「……え?公務員?」
彼は自分の手首のインターフェースをタップし、いくつかの記録をホログラムに表示した。
「僕はこれまでに、2,058人を救ってきた。」
「救った?」
ドリーは答える代わりに、慣れた様子で次の記録を呼び出した。
「これを見てほしい」
目の前に浮かび上がったのは、無数の人物データだった。
明美と同じ年代の雑多な人種の男女。――彼らのデータの幸福度は飛躍的にアップされていて、それぞれが満足の顔を浮かべている。
「使命を果たした個体は今までの筋書きから解放される。60歳がその一つのポイントだ。」
ドリーは映像に見入ったまま、ひとりごとのように呟いた。
「60歳?」
「そうだ。AIにとって、人間が“利用価値を持つ”のは60歳までだ。人間の成長と衰退のプロセスを解析するために、必要なデータはすべて集め終わっている。」
「……」
ひとしきりミスがないことを確認し、彼はほっとしたようにやっと明美へ視線が移る。
彼女は電気椅子に座らされた囚人のように身をこわばらせ、ソファに浅く腰をかけたまま、足先に力を込めていた。
「システムの中で生きる人間から、AIは苦しみや絶望、行動のすべてを記録する。
それをもとに、社会の管理方法を学んできた。
そして――六十歳に達した時点で、”データ収集は完了”と判断される」
「完了……?」
「それ以上の人間は、システムにとって不要になる」
彼は目の端をわずかに歪め、流れるようだった説明がふと詰まり、やがていかにも言いにくそうに言った。
「切り捨てられるんだ。もう価値はないからね」
――切り捨てられる。
明美は指先が白くなるほど、強く握りしめた。
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