第2章ノクターンの果てに(Beyond the Nocturne)

25XX年――地球。

空は深い青に澄み、地平線まで緑が広がっている。かつて都市があった場所は、まるで人類の記憶を呑み込んだかのように、波打つ緑の海へと変貌していた。


都市という概念は、もはや存在しない。地球の人口は10億人。月や火星、宇宙ステーションを含めても、太陽系全体で30億人に過ぎない。環境は飛躍的に改善され、オゾン層の穴もすでにふさがっている。

人々は固定された家を持たない。住居とは、必要なときに意識と同期し、自由自在に形を変える「ナノ粒子による空間再構成型ホログラム」。家というより、どこまでも気まぐれな蜃気楼だ。


触れれば確かに温かく、必要なものは即座に現れる。ベッドは夜になれば形をなし、朝がくれば消えていく。湖畔のコテージを望めば、それは目の前に現れるし、宇宙都市の超高層タワーを求めれば、それもまた形作られる。「家の広さ」で貧富が決まる時代はとうに終わった。

すべては仮想空間と融合し、住居はただの「居場所」に過ぎない。物理的な大きさの概念すら、もはや溶けてしまったのだ。


道路も、港もない。

人々は粒子フィールドを利用した移動システムによって、目的地へと瞬時に転送される。移動の実感はない。ただ、風景がゆるやかに変わり、気がつけば目的地にいる。まるで夢遊病者のように。


人類の「所有する」という欲求は消え、「持つ者」と「持たざる者」の境界線もなくなった。仕事の概念も変化した。AIがあらゆる労働を担い、人間の役割はただ一つ――『創造すること』になった。


人々の無意識は、最新鋭のブレイン・コンピュータ・インターフェース――AIによって管理されている。AIは脳波を解析し、最適な選択肢を提示するだけでなく、脳内の報酬システムを調整し、幸福を最大化する。


「幸福」は、もはや自ら選ぶものではなく、与えられるものとなった。特定の選択をしたら、快楽ホルモンが分泌され、「最適解を自分で選んだ」という錯覚とともに、満足感が生まれる。


逆に、AIの許容範囲を超えた選択肢は、そもそも意識にのぼることすらない。


競争は消え、個性の差も薄れていった。個性が際立てば、優劣が生じ、それが差別につながるからだ。AIは脳内の「自由意思の発生」を調整し、思考の揺らぎを制御する。許容範囲を超える考えは、そもそも生まれない。


そして何よりも不思議なのは――人々が、AIによる管理をうすうす理解しながらも、それを受け入れていることだった。


ドリーもまた、この世界を誇りに思い、頷いていた。

「すごいだろう?」

彼は、少し興奮気味で身ぶり手ぶりが大きくなる。

「ここでは、誰もが平等に満足を享受しているんだ。競争はない。貧富の差もない。親ガチャすら存在しない」

「親ガチャすらない?」

彼女の瞳は揺れ、ドリーを見つめた。

「じゃあ、誰が子どもを育てるの?」

ドリーは誇らしげに、話を続ける。

「アンドロイドと人間さ。今まで生きてきた人間の遺伝子情報はすべて保存されていて、必要に応じて人工的に交配される。そして、生まれた子どもは宇宙局の『子育課』で育つ。15歳になるまで、完璧にプログラムされたアンドロイドが両親の役割を担うんだ」

みんな。

平等。

アンドロイドの両親。

彼女は自分を縛っていた鎖が解け、温かなものがゆっくりと体に巡るような感覚を覚えた。

——私を囚えていた絶望は、25XX年には存在していない——


「ね、どう? 君たちの歩いてきた道は、ちゃんと未来につながってるんだよ。」

ドリーの声はゴムまりのように弾んだ。手首のデバイスに指を滑らせると、空間に粒子投影ホログラムが浮かび上がる。

「今度は君が幸せになる番だよ。さあ!帰ろう。転送シークエンス、開始。」

彼が指先で座標を確定する。

空気がわずかに振動し、二人の周囲に無数の光の粒が現れる。

重力がふっと消える。

光が臨界点に達し、次元の裂け目が広がった。

彼らは時の狭間へ吸い込まれた。


20XX年 東京

街に絵具を雑多に絞り出したようなネオンは、ただ人間の欲望を煽り続けている。

路地にはホームレスがうずくまり、金持ちはタワーマンションの上で高級なワインを傾けていた。

競争は人間性を歪め、経済の発展のためだけに人は生き、慈愛に満ちたコミュニティは破壊されていった。

自由とは?

勝者のためだけにあるものだった。

「ここで生きるより、25XX年の管理された社会で生きる方が、ずっとマシだと思わない?」

ドリーが問いかける。彼女は答えず、ただ歩き続けた。

「ここよ……」

昭和の古びた公団の団地。その一角にある、小さな公園。

排水の匂いがわずかに漂い、ブランコの鎖が軋んだ。

ドリーは公園のベンチに腰を下ろし、彼女を見つめる。

「無事に帰れたな。」

「ありがとう、ドリー。でも……私はこれからどうすればいいの?」

ドリーは片手を広げ、問いかける。

「僕が見せた世界……これで、僕を信じられる?」

彼女はすぐには答えられなかった。

「僕の仕事は、マインドコントロールシステムの開発で被害を受けた人の救済。君の人生も、歴史を大きく変えない範囲でなら、もっと良くすることができる。」

もしそれが本当なら、こんなに嬉しいことはない。

でも、人に期待し、裏切られた痛みを誰よりも知っている彼女は、すぐに納得する気にはなれなかった。

ドリーは彼女の迷いを察したのか、優しく続ける。

「君は明日から、今までできなかったことをやってみて。

『こうなればいいな』と思ったことを、少しずつ試していくんだ。

今までは状況や運や周囲の人が邪魔してできなかったことも、これからはすべてが味方してくれるはず。きっとうまくいくよ。」

ドリーは立ち上がり、洋服のしわをパン!と直した。

「さすがに大統領は無理だけど、弁護士や小説家くらいにはなれるさ」

彼女は顔を上げ、満月に光る月を見上げた。

本当に——

今まで、何者にも、何一つ、

承認されなかった私。

誰かに評価される日が来るのか?

頭の中に浮かぶのは、自分を踏み台にし、嘲笑ってきた人々の顔だった。

「じゃ、頑張って」

ドリーはそう言うと、淡い光に包まれ、ふっと消えた。

生死のはざまで見たものは幻か、それとも

——狂ったのは、私?

彼女はこの日に目まぐるしく起きた現実を、まだ受け入れられずにいた。

けれど。

数時間前まで、生きることに飽き飽きしていた私の中に、

わずかに

——それでも確かに、「生きてみよう」という本能が、芽生えていた。

そして、他者を受容することに壁を作っていた彼女の心の奥に、ほんの小さな変化が生まれた。

「——彼を、信じてみよう。」

明日から、少しだけ試してみる。それでダメなら……

彼女は公園を抜け、自分の巣に戻る道を歩き出した。



ドリーは宇宙局所有の彼女といたシャレーに帰ってきていた。

大きく伸びをし、小型端末を取り出すと、旧時代のAIネットワークにアクセスを試みる。

目的はただひとつ——彼女の未来に幸せを与えるために

しかし、画面に現れたのは見慣れぬインターフェースと、古い文字列の羅列だった。

「……しまった、これ機能するのか?」

投影ホログラムからアクセスし操作するものの、システムの応答が極端に遅く、入力したコマンドもなかなか受け付けない。25XX年の標準システムとは互換性がなく、視線やジェスチャー操作は通用しない。手動入力が必須で、入力ミスをすれば最初からやり直し。ドリーの焦りとは裏腹に、システムは愚鈍で、まるで中指を立てたまま、気怠げに暇をつぶしているかのようだった。

「ジョー、ヘルプ!」

耐えきれず通信回線を開く。

「アーカイブAI管理局! 至急お願い!」

通信回線を開くと、数秒後——

バリトンの響きがドリーの体を貫く。

ジョーの声だ。ドリーと暮らすパートナーであり、ともに宇宙局に籍を置いている。

「ジョー、彼女のデフォルトの設定を上げようとしようとしてるんだけど、この旧AI、めちゃくちゃややこしい!」

シーンと無の時間が流れ、ジョーのフンと鼻を鳴らす音が聞こえた。

「自分で扱えもしないものに、なぜ手を出す?」

「救済課のお仕事だよ。でも、これ俺の手に負えないって! だからアーカイブAI管理局にヘルプを求めてるんだろ?」

ドリーは子猫のように甘えた声で続ける。

「助けに来てくれよ。ついでに20XX年を少し旅行するっていうのはどうかな?」

ジョーは、君には敵わないとでも言いたげに、ふっと声の調子を落とした。

「——また君の思いつきか。」

「いいだろ? たまには昔の時代をゆっくり見るのも悪くないと思うんだけどなぁ」

「君の“ゆっくり”が、どこまで本当にゆっくりなのか……」

ドリーは、焼きたてのパンがふくらむように頬を膨らませる。

「ひどいなぁ。俺だって、たまには真面目に過去の文化を学ぼうとしてるのに!」

「お前はほんとうに手のかかるやつだな。」

ジョーはドリーを少し揶揄しながらも、いつもの気まぐれに付き合うことにした。

「……まあいい。ちょうど明日から3日間は休暇だ。お前の気まぐれに、少しだけ付き合ってやる。」

「やった!」

「ただし——君が“余計なこと”をしないという条件付きだ。」

ドリーは20XX年の映画に出てくる将校のように、芝居がかった敬礼をしてみせた。

「もちろん! これは真面目な仕事だから!」

ドリーは満足げに端末を閉じると、シャレーの窓の外の雪景色を見上げる。

——さて、20XX年で何をしようか?

数十分後、休暇を取ったジョーはドリーから端末を受け取ると、素早く解析を始めた。

ジョーはアーカイブAI管理局(AAB)・AIモニタリング課の調査官で、旧時代のAIシステムの監視・解析を担当する。過去のAIが現行基準を満たしているかを評価し、異常があれば調査・修正・封鎖措置を行う権限を持つ。


「……これは20XX年の自律型AIか。データベースがバラバラで、管理が非効率的だな。」

「で、デフォルトを上げたら、どう変わる?」

ドリーが覗き込むと、ジョーは短く息をつき、端末を指で軽く弾いた。

「彼女の初期設定は最下層のZ。幸福度指数38%。常に羨望と既存社会への反発心が生まれるように設定されている。それを変更すれば、幸福指数管理プログラムが上昇する。」

「具体的には?」

「彼女が希望するものを提供し、夢の実現を支援するために、協力的な人間関係を構築するよう調整する。さらに、社会的な承認や評価を得られるよう最適化すれば、生活環境や心理的満足度は向上する。」

ジョーの指が浮遊するキーをなぞると、古びたシステムが微細な電子音を立て、彼女の未来が再構築されていく。

「これで、彼女はこれからの人生で充実を感じる可能性が飛躍的に上がる。」

ドリーは端末を覗き込み、表示されたシミュレーションを確認した。

そこには、彼女が人生の甘露を享受する姿が映し出されていた。

「OK、完了。」

ジョーが端末を閉じると、ドリーはジョーに抱きついた。

「ふぅ、明日の準備は万全なの?」

「万全ではないが、問題はない。」

ドリーはジョーが持ってきた荷物を覗き込んだ。

「20XX年の通貨、偽装身分証、服……これで大丈夫?」

「過去を旅する、必要最低限だ。」

「そっか……じゃあ、寝る前に少しじゃれ合うかな?」

ジョーは少し目を細めたが、拒否はしなかった。

シャレーの寝室は広く、大きなキングサイズのベッドが中央にあり、天蓋から布がおりていた。

「みてみてジョー。バーチャル古典美術館にあったようなベットだよ」

ドリーがふと呟くと、ジョーは手でマットレスの感触を確かめるようにつぶやいた。

「25XX年のベッドのように、自動温度調整や姿勢補正機能はない。単なる柔らかいマットレスと枠があるだけだ。」

「抱き合って寝ないと寒いよな。それはそれでロマンチックかも」

「合理性に欠ける。」

「ジョー。たまにはラブロマンスに浸ろうよ」

ドリーはベッドに大の字に倒れ込み手招きをした。

ジョーは上着を脱ぎ、ベットの端に腰を掛けた。

「ねえ、ジョー。」

ドリーはジョーの手を取り、引き寄せる

「また、何か企んでる顔だな。」」

「そりゃ、俺は君を飽きさせない主義だからね。」

ジョーはドリーのアピールに愛おしさを感じながらも

「……お前はまだミッション中だ。」 と冷たく突き放す。

「そう言うわりには、拒む気はないんだな?」

ドリーはいたずらっ子のような目をすると、一気にジョーをベッドに押し倒した。

『嫌じゃないくせに。ほら、こっち向いて』

ドリーの指が、ジョーの顔をゆっくりとなぞる。鋭い目元にくっきりとした眉、高い鼻梁——チョコレートブラウンの髪が、シーツに広がる。いつも何を考えているのかわからないが、その瞳だけは嘘をつけない。肌の起伏を辿り、やがて馴染んだ唇へ――ためらいなく引き寄せた。

「……や・め・ろ……」

ジョーの鳶色の目が潤み、

呼吸が上がり、

ドリーの舌が呼応するように唇から喉へと熱く這った。

ジョーの指は押し返さず、

掴むように爪をたてていく。

いつしか、二人の衣服は天蓋の外に散らばり、

ジョーの淡い琥珀色の鎖骨にうっすらと汗が滲む。

「君は本当に、素直じゃない。どこへも行かせないよ。」

ドリーの手が、彼の髪を梳き、

耳元をかすめ、

引き締まった太ももへと手を滑らせる、

触れられるたび、

火花が走り、

彼に酔わされていく。

まるで上等なブランデーを舌の上で転がすように、甘美でいて刺激的だった。

すでに何度も繰り返した行為——

まるで、飢えた狼が肉をむさぼるように——

それでいて、親鳥がひなを包むように優しく。

外のモミの木が風に揺れ、雪が落ちる音がする。薄いベージュのカーテンに揺れる影が、彼らの絡み合った体を包む。

「……やれやれ」

ジョーは腕を額に乗せ、かすかに息をついた。こんなふうに彼に流されるのは、これが初めてではない。それでも、何度経験しても、ドリーの気まぐれに振り回される自分に呆れる。

——お前がそばにいる限り、俺はこの世界のルールを忘れそうになる。

渇望に呑まれ、堕ちていく。

ドリーが腕の中で軽く寝返りを打つ。彼の髪はシルクのように滑らかで、ジョーの指の間をするりと抜けていく。金の睫毛が揺れ、薄く開いた唇から、安らかな吐息が漏れた。

「……ジョー」

浅い眠りの中、彼の名を呼ぶ。片割れを探して伸びた指先が、ジョーの手をぎゅっと握る。

「離さないよ」

甘い夢の続きのように、囁く。

その悦びは尽きることがない。

重なり合うたびに、さらなる深みへと溶け落ちる。

時もまた、彼らに寄り添う。

アルプスの山々とレマン湖だけが、時の流れを超えた旅人を見守っていた。

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