撃墜航路

海猫

撃墜航路

 私が航空自衛隊・百里基地を訪れたのは平成十三年のクリスマスのことであるから、三年前のちょうど今日ということになる。間もなく戦後六十年の節目を迎える我が国は、しかし米国による核の傘の下、今なお厳しさと不確実性を増す安全保障環境に置かれており、必ずしも平和を愛する諸国民にばかり取り囲まれているとは言い難い状況であろう。


 この世界の私は自衛官でも防衛関係者でもなく、一介のテレビ記者に過ぎないが、二十一世紀が早くも五年目を迎えようとしている今、米ソが互いの強大な軍事力を以て戦火を交えた、あの歴史の激流をここで少しだけ掬い取ってみようと思う。


 三年前の百里への訪問は、ドキュメンタリー番組「スターファイター ~首都を飛んだパイロットたち~」の制作にあたり行われた取材活動であった。ソ連崩壊十年という節目の特別番組として企画され、 1983年のソ連侵攻の際に百里基地から出撃した戦闘機部隊を取り上げることとなった。「忌まわしの 83年」である。


 放送後、全国から寄せられた便りの中には若い方々が筆をとったものも予想以上に多く、驚きと共に、あの激動の時代に関心を持って頂いたことへの感謝の念が湧いたことを覚えている。


 番組でも冒頭二十分を割いて解説したように、1983年とは冷戦が熱戦に転じた地獄の年であった。欧州では北大西洋条約機構が「エイブルアーチャー」と呼ばれる軍事演習を、極東では日米が史上最大規模の合同演習を実行、これがクレムリンを刺激し、ソ連軍の西側陣営への侵攻を引き起こした。その最前線となったのが西ドイツと日本であり、ソ連製の戦術・戦略核兵器が何発も両国に投下されたのである。


 北海道、東北と猛進撃してきたソ連軍を自衛隊は東京の目の前でようやく阻止したものの、その後半年間に及ぶ攻防戦で関東平野は焦土と化した。茨城県小川町に所在する百里基地は、まさにその最前線に位置していたのである。


「我々には首都防空という使命があります」


 そう語ってくれたのは、百里基地司令の荒川幸雄氏だ。荒川氏は航空自衛隊・第七航空団司令も兼ねており、首都圏唯一の空自戦闘機部隊の指揮という重責を担う人物でもある。


「我が基地には現在、空自の主力戦闘機である F-15 Jが配備されています。イーグルの通称で知られる機体ですね。それ以前はファントムの愛称で知られる F-4 EJ、さらに以前には F-104 Jが配備されておりました」

「スターファイター、ですね」


 よくご存じですねと頷きつつ、荒川氏は応接テーブルの上に置かれた戦闘機の模型を手に取った。細長い、まるで鉛筆のような胴体に、小さな主翼が生えた銀色の戦闘機。


「これが F-104 Jです」


 と、荒川氏は目を細めながら語り、


「速度と上昇力に優れ、高高度から飛来するソ連の爆撃機を迎撃するにはうってつけの機体でした。かつて三島由紀夫も搭乗しましたが、彼を乗せたのは二人乗りの DJ型ですね」

「父もよく私に話してくれました」

「そうでしょうね……お父君とは何度も共に空を飛びました」


 荒川氏はそこで言葉を切り、思案顔になった。両手を組み、何とはなしに天井を見上げて、それから、


「世間は狭いものですね。まさか面会相手が安藤三佐のご子息とは思いもよりませんでした」

「その階級で呼んでくださる方は初めてです」


 父はあの戦争で二階級特進したから、公式には安藤一佐として葬られている。

 当時、父の遺体と対面することはできなかった。当たり前だ。高度 10000メートルで戦闘機ごと爆散したのだから。


「お父上は非常に腕の立つパイロットでした。戦争とはいえ、惜しい人材を亡くした……」


 防大時代からの友人でもありました、と荒川氏は続けて、


「今日、あなたがここにお越しになられたのも、あの日の安藤三佐の航跡を知るため、でしょう」

「おっしゃる通りです」


 1983年冬。

 百里基地から飛び立った F-104 J部隊、第 208飛行隊は来襲するソ連軍の迎撃に向かった。


 離陸したのは三機。本来は四機の予定だったが、直前になって一機がエンジントラブルに見舞われたという。


 一番機は父、二番機は荒川氏、そして三番機は──


「立川三尉。隊で一番若いパイロットでした。小柄な体格が幸いしてGに強かった。みんなから可愛がられていましたよ」


 私たちにとっては大切な後輩でもありました、と荒川氏は言葉を足した。彼がまだ練習機に乗って操縦訓練を受けていた頃、教官を務めていたのが私と三佐ですから。


「三佐も立川には特に目をかけていました。彼もまた、優秀なパイロットだった。だからあの日も、出撃部隊の一員として選ばれたのでしょう。しかし……」

「……基地に帰ってきたのはあなただけだった」


 互いに伏し目がちになってしまう。ずっと封じられてきた記憶。それをこじ開けるのは決して容易ではないと分かっていた。しかし、ここまで来て引き返すことは考えられなかった。最後の一押しが必要だった。


 胸ポケットから一枚の写真を取り出して、テーブルの上に置く。たちまち荒川氏の表情が変わった。ひったくるように写真を手に取り、まじまじと見つめて、


「どこでこの写真を?」

「撮影者は当時の地元住民です」


 鼓動が早まるのを感じる。ペンを握る手が汗ばむ。この瞬間のために十年もの歳月を費やしてきたのだ。

 市街地の夜空に突如現れた閃光。空から放たれた一筋の光。入手した写真には決定的な瞬間が映っていた。


「あの日、第 208飛行隊はソ連軍の迎撃に向かい、交戦した。あなたがたは数機のソ連戦闘機を撃墜し、さらに核兵器を搭載した戦略爆撃機を撃墜した。しかし同時に、私の父と立川三尉が帰らぬ人となった」


 それだけの情報を知るのに五年かかった。その裏付けを取るのに三年、さらに真実を知るのに二年かかった。


「教えてください」


 あとは最後のピースをはめるだけだ。酷な問いなのかもしれない。けれど私の職業意識が戸惑いを許さなかった。


「父はなぜ、立川三尉を撃墜したのですか」







 安藤は何度も立川に声をかけていた。

 身体は大丈夫か。何か頼み事はないか。連絡したい家族や友人はいないか。


「心配しすぎですよ、俺は平気ですから」


 訓練通りにやるだけです、と彼は答える。不安がる必要はありませんよ。


「それに」


と、立川は雲一つない空を見上げながら、


「俺はとっくに独りです。両親も友人も皆死にました。仮に俺がくたばったとしても、思い残すことは何もありませんよ」


 滑走路端で一機の F-104 Jが咆哮する。銀色の胴体と主翼に大きな日の丸。鋭く伸びた機首を天に突き出して翔け上がっていく。空を飛ぶというより、大気を切り裂いて突き進むミサイルのようだ。


「あんなに鋭利な見た目の戦闘機もあっという間に旧式化してしまう。未来の空中戦は一体どうなるんでしょうね」

「さあな……だがどんな時代であれ、戦闘機乗りが全力を尽くすべき仕事は変わらない——生きて地上に帰ることだ」

「ですが、市街地上空で機体がイカれた場合は」

「その時はその時だ。守るべき国民を死なせてはならない。だが、それはお前の命を粗末にしていい理由にはならない」


 安藤も無知ではなかった。最大多数の最大幸福という言葉は安藤も知っている。立川の両肩に置いた手に力が入った。それでも、と思う。それでも、立川だけは死なせてはならない。


「この国を滅ぼそうとする者を、俺たちは撃ち落とす。そのためにはお前の力が必要だ」

「俺を買いかぶりすぎですよ」

「いや、お前は特別な人間だ」


 また一機、轟音と共に空へ上がっていった。一番機を追って旋回しながら、陽光を反射して一際煌めく。空力だけを制御して飛ぶ、美しい戦闘機械。


「この世で飛行機ほど呪われた存在もないでしょう。わざわざ空を飛びながら殺し合ったり、たった一発の爆弾やミサイルで都市を焼いたりするんですから」

「そうだな」


 不意に背後から現れたのは荒川だった。


「三十八年前には米軍機が広島と長崎を焼いた。今度は、ジェット機と弾道ミサイルが日本中を滅ぼした。キノコ雲はあといくつ立つんだろうな」

「それを阻止するために俺らは飛ぶんだろう」


 思わず、安藤の語気が荒くなる。

誰も想像しなかっただろう。東の果ての島国に、いくつもの核のクレーターが穿たれるなどとは。

 それに対抗するために、訓練を終えたばかりの新人パイロットまで根こそぎ動員するとは。


「離陸は明日の朝、0600。それまで黄昏ようが飲んだくれようが構わないが、明日には全員でここを飛び立つ」


 そして、帰還する。

 数秒の沈黙の後、立川と荒川は頷いた。







「出撃は予定通りに行われました」


 荒川氏の目元に、きらりと光るものがあった。だが今更取材をやめるわけにはいかない。


 取材?

 いや、これは尋問だ。

 それも、私的な目的で行われている。


 市ヶ谷防衛庁にこの会話がバレれば、私の首は飛ぶだろう。比喩でなく、物理的に。


「私たちは東京に向かって飛行しました。ソ連軍の地上部隊が首都を制圧しようとしていることは誰もが知っていた。問題はそれにどう対処するかでした」

「それで、あなたがたは最後の手段をとった、と」

「そうです。その大任を負ったのが、立川三尉でした」


 唾を飲み込む音が、テーブルの向かい側の私にも聞こえた気がした。


「私と安藤三佐の任務は、立川三尉の護衛でした。三尉がソ連軍に──東京に核を落とすのを見届ける予定でした」


 ニュークリア・シェアリング。

 西ドイツはすでにその犠牲者となっていた。ソ連軍の進撃を食い止めるために、自国内に戦術核兵器を投下する。そのための核は、アメリカから共有シェアリングされる。


 日本もまた、アメリカとの間で核を共有シェアリングしていたのだった。決して来てはならない日に備えて。F-104 Jから一度は取り外された爆撃コンピュータが調達されたのも、そのための布石だった。


「荒川司令」


 こうしてテレビ記者に成りすましているが、私も本職は自衛官だ。純軍事的な観点での戦術核兵器の存在意義は理解している。それでも、この国にこれ以上、あの戦争の爪痕を残させるものかと、時に愛する人までも犠牲にしながら、呪われた過去の世界に人生を捧げてきた人々を私は知っている。

 今、私の目の前で涙を流している男もその一人だ。


「あなたが真に守ろうとしたのは、この国だ」

「それは……そうです。だが、私は決して安藤を」

「最大多数の最大幸福」


 ソ連軍を足止めするための核攻撃任務は、第 208飛行隊を含む複数の飛行隊に割り当てられていた。それを阻止するための時間遡行部隊を次々と送り込み、 21世紀の日本になおも残るクレーターを一つずつ消していく。手段は問われなかった。問う余裕すらなかった。自衛官が自衛官を殺すことになるかもしれない。だが決して己を責めるな。責任は全て、私が取る──あの人はそう言ってくれたのだ。


「なんとなく察しはしますが、あえて質問させていただきたい。そう言ってくださったのは、どなたです」

「立川統合幕僚長です」


 陸海空合同の時間遡行部隊。あの人の貢献がなければ、数万人の自衛官を過去の日本に送り込むことなど実現しなかった。私のような工作員が多数養成されることもなかっただろう。組織のトップに立つ人間をこれまで幾人も見てきたが、彼以上の勇気と決断力がある人間を私は知らない。


 彼だからこそ、命令を下せたのだろう。

 過去の自分を撃墜させる命令を。


「そのためにレーザー兵器まで使わせるなんて、あの人らしい大胆さです。落雷による事故に偽装させつつ無人地帯に墜とせだなんて、よほど腕の立つパイロットでなければ不可能でしょう。でもあの人は、それができるパイロットを知っていた」

「……そうですね」


 だからこそ、父は死んだ。

 父が立川機を撃墜するためだけの飛行経路は、何度シミュレーションしても、ソ連軍機の餌食になる運命からは逃れられなかった。


「そうです、私は、安藤を」

「違います」


 荒川氏の言葉を遮る。


「あなたのせいではない。父の死は避けられなかった」

「しかし私は……」

「あなたは最善を尽くされた。父の言葉通り、あの人もあなたも生きて地上に帰ってきた」


 こうして、三年前、私は一人の男を救った。

 親友を見殺しにしたと、何年も苦悩し続けてきた男を。


 それが私なりのクリスマスプレゼント、などと表現するのは流石に幼稚であろうか。

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