隣の部屋に越してきた推しの挙動がおかしい

第1話 お隣さん

 その日、海道真胡は推しアイドルの為、徳を積むべく朝五時に起床した。


 情報解禁されてから五十一日、ついに推しが所属するグループのニューアルバムが発売されるのである。


 ただ発売されるわけではない。アルバムの中にはメンバーのトレーディングカードが封入されており、もしもサイン入りトレカを引き当てた場合、グループの握手会に参加出来るのだ。


 グループはまだデビューして十か月、握手会は初の試みだ。なんとしても参加したい。


 滝行の代わりに水シャワーで全身を清め、朝食は精進料理を食べた。念入りに顔を洗って歯磨きもした。産毛処理もしたし、推しのファンとして恥じないよう、お高い美容液で肌のケアまでした。


 朝八時、新調した服を着て手作りの推し神棚の前に座る。それから一時間、真胡は神棚に向かって拝み続けた。


「よし、これでできる限りのことはやった」


 あとは運を天に任せるのみだ。予約しているCDショップに行こうと玄関に向かうと、何やら廊下から重そうな音がいくつか聞こえた。


「もしかして、誰か引っ越してきた?」


 隣は角部屋だというのに、真胡が引っ越してすぐ空き部屋になり、それから数か月誰も入居していなかった。


「事故物件? とか言ってたっけ」


 引っ越していった人がそんなことを呟いていたことを思い出す。しかし、ほとんど話したことのない人だったので詳しくは分からなかった。


「まあ、いっか。引っ越してきた人が平気な人なんだ」


 それよりも推しの方が重要である。まだ店の開店時間には一時間以上早いが、とにかく重要なのである。階段を下りようとしたところで階段に人が転がっていた。


──なんで!?


 もしかしたら、階段から落ちてしまったのかもしれない。慌てて階段に向かうと、男性が転がって小さく呻いているのが分かった。


──やっぱり落ちたんだ。


 男性は目深に帽子を被り、サングラスにマスクをしていてどのような顔をしているのか窺えない。


「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」


 相手に触らず、顔の近くで声をかける。すると、男性が勢いよく顔を上げた。瞬間、真湖が違和感を覚えた。


「や、いえ、怪我は無いです。ちょっと躓いただけなので」


 男性ボソボソと聞こえるかどうかの声で答えた。見れば、彼の横には段ボールが二つ落ちている。


「もしかして、今日こちらに引っ越してきた方ですか?」

「あ、そ、そうです」


 そう言っているうちに、階段を引っ越し業者が上ってきた。彼は一緒に荷物を運んでいたらしい。おそらく、自分で運びたい荷物だったのだろう。


「もしよろしければ、お手伝いしましょうか?」

「うぇッッ!?」


 男性が声を上ずらせる。いきなり勝手な提案だとは思ったが、業者が来ているのに段ボールや男性が転がっていて階段を上ることができなくなっている。


「引っ越し遅くなっちゃいますし、段ボールをお持ちしてもよろしいですか?」


 男性を起こしながら段ボールを指差す。彼の手はしっとり汗に濡れていた。


「ああ、ええと、じゃあ、お願いします」


 了承を得られたので、段ボールをひょいと二つとも持ち上げる。それに男性は驚いていたが、真湖は慣れた様子で隣の部屋の前まで持っていった。


「すすみません。ここにお願いします」


 ドアを開けてもらい、玄関先に置く。続いて業者の人がどんどん荷物を置いていった。


「玄関だと引っ越し屋さんの邪魔になっちゃうので、奥に置きますね。大丈夫ですか?」

「あ、はい。有難う御座います」


 荷物をひょいと持ち上げて奥の部屋に置いた。真湖が男性に手を振る。


「では私はこれで。隣の部屋に住んでいるので、何か困ったことがあれば言ってください」

「あの、その、はい」


 お隣さんの部屋を出た真湖は時間を確認して早足で店に向かった。


「よかった、早めに出ておいて。まだ余裕がある」


 はじめましての相手に距離を詰めすぎた気もするが、困っている人を無視していくのも気が引けた。これで心置きなく推しに集中できる。


「予約していた海道です」

「有難う御座います。こちらでよろしいでしょうか」

「はい」


 予約したCDは三枚。全部で九千円だ。大学生には痛い出費であるが、三枚で当たるのはかなり幸運であるので、本当はもっと積みたいのが本音である。


 購入したCDを鞄に入れ、両手で大事に持って家を目指す。万が一落としでもしたら戦利品に傷が付いてしまう。真湖はどこにも寄らず、まっすぐ帰宅した。


 すでに引っ越し作業は終わっているらしく、隣の部屋はドアが閉められ静かだった。部屋に入り、念入りに手を洗い、鞄からそっとCDを取り出してテーブルに置いた。そこで手を合わせる。


「どうかどうか、みうぽんの握手会に参加させてください」


 みうぽんこと美原叶を推し始めて八か月。ライブはデビュー時に一度行われただけなので、まだこの目で推しを見たことはない。真湖はCDに手を伸ばし、中身を見ようとして、止めた。


「緊張する……!」


 結果はすでにこの中にある。しかし、見ないでおけばまだ希望が残されている気がしてなかなか行動に移せない。真湖は右側にある壁を見つめた。


「さっきの人、なんか、骨格がみうぽんと似てたんだよねぇ。その人のお手伝いしたってことで、もしかしたらご利益あるかも」


 そう思うと勇気がわいてきた。きっと当たるに違いない。そんな予感がする。


 さきほどとは売って違ってうきうきで開封の儀を行った結果、サイン入りトレカはおろか、みうのトレカ一枚すら出なかった。真湖は泣いた。

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