第21話 付き合っちゃえばいいのに

「ちょう~! いっしょにおつかいに行こ?」


「えー? やだよ~、ぼくもっと遊びたい」


「ママに言われたこと、ちゃんとやんなきゃダメなんだよ! わるい子になっちゃうんだから」


「うぅ……わかったよう」


 幼かった頃の花は、俺よりも少しお姉さんだった。

 人見知りだったし、よく泣く子ではあったが、俺と二人のときは、なんでかいつも年上ぶっていた気がする。


「えへへ、ふたりっきりだね~、ふんふんふーん」


「はな、ごきげんさんなの?」


 二人でよく手を繋いで歌を歌いながら街を歩いた。花と一緒なら、いつも歩く道なりも初めての連続で。知らないマンションに入り込んでかくれんぼをしたり、甘い蜜の出る花を二人で吸ったり、排水溝の下の汚水に浮かぶ謎の生物に驚いたり。


 毎日毎日。思い返せば、何が楽しかったかわからないような出来事ばかりだ。

 落ち着きのなかった俺は、繋いだ手を突然突き放してよく鬼ごっこを開始した。追いかけてきて欲しかったのに、花はきょとんとした後泣き顔になって、ついには大粒の涙を流すのだ。そのことで、俺はよく母さんに叱られた。


 当時は結構花にムカついてた。チクりやがってこの野郎、と睨んだりもした。

 口を利かなくなったりもしたけど、翌日には花が泣きべそをかいてウチに来るのだ。

 いい想い出だな。一度でいいから、時間を巻き戻してみたい。

 ――また……お出かけとか、できるかな。俺と花。


 * * *


「――起きてよ。…………ねぇ、ち、蝶っ」


「……んん、うおっ」


 身体を揺すられる。花が視界に映ると、途端に目が冴えた。

 ――そういえば、一緒に寝たんだった……。冷静に考えるとんでもないことだな。

 ていうかいいな、名前呼び最高。


 俺は大きく伸びて、あくびをした。

 かなり懐かしい夢を見ていた気がする。それも花関係のものだ。当人に起こされて、とても幸せな気分だった。


「……もう、2時です」


 花が時計を見ながら、呟く。


「……大分寝たな。まあ俺は休日前大体こうだけど」


「えー、なにそれ、不良だ。ふりょー」


「……それだと、花も不良ってことになるけど」


 痛いところを突かれたらしく、たじたじと身を引く花だったが、

 次の瞬間――。


「「たまにはいいんだもん」」


 言葉が重なる。……そう言うような気がした。


「えっ、すごい!」


「……予知能力者だからね」


「……ヘンなの」


 花がくすりと笑って、床を這うように身体を前屈させた。大きめのスウェットから白い胸元がチラリと見えて、朝から俺の心臓が音を上げる。


 朝っぱらから俺の下半身の絶好調らしい。俺はそそくさと布団を腰付近に巻き付けてから、花に向き直る。

 花が照れたように頬をかきながら言った。


「……えっと、おはよう」


「……はい、おはようございます」


 寝起きの花は、瞳を半分くらいしか開けておらず、髪も乱れてとても無防備に思えた。


「ふふっ、ていうか寝癖すごいよ」


 笑いながら爆発した俺の髪に触れようとして、彼女はさっと手を引いた。

 そのまま撫でてくれてもよかったのに……。


「花も……ハネてるよ?」


「えっ、ほんとに? どこどこ」


「ほら、このへん」


 左右に揺れる栗色の髪を摘まんで、軽く引っ張る。


「えぇ~……あんまり見ないでよ」


 恥ずかしそうに髪を押さえて、表情を隠した。


「じゃあ起きよっか。下、行こう」


「うん……あっ」


 花が、突然ぴくりと身をすくめる。


「……どしたの」


「……あ、足……痺れちゃった。いった~い」


「あら……俺そういうときわざと地団太踏んで自分で治す」


「何その治し方……絶対ヘン」


 花が酸っぱい物でも食べたような顔で奮闘しているときだった。


「……おんぶしよっか」


「…………えっ?」


 寝ぼけていたのかもしれない。でも、考えてもみて欲しい。俺は昨日花に『えっち』と言われた。この数年でここまでの進展があっただろうか。今の俺に、おんぶなど造作もない。


 くるりと身を返して、背中を花に向ける。


「……どうぞ」


「え、えぇ!! ……な、何? 突然!」


「歩けないんでしょ。おんぶしてあげるから……乗りなよ」


「……そんな、い、いいよ……別に」


「…………」


 …………さ、さいですか――。

 あっさり断る花に、簡単に胸を切り刻まれる。イケると思った少し前の俺を殺してやりたい。このまま身体を戻すのも超絶格好悪いし、返す言葉もない。

 いや――俺は、負けない!


「……遠慮なんていいよ。乗りなよ、すぐだから」


「……でも、わたし重いもん」


「その身体で? それ相当横に太いってことになりますよ?」


 茶化しながらそそのかす。重いだなんて微塵も思ってないからこそ言える言葉だ。


「ひ、ひど~い! そんなんじゃないって!」


 背中をびしりと叩かれる。ヤバい嬉しい。Mに目覚めたらどうしよう。


「じゃあ乗りなよ。さっさと下降りよう」


「も、もう……絶対、ぜーったいに、重いとか、そういうこと言わないでよ?」


 花がしつこいくらいに念を押す。そんなに嫌なものなんだろうか、重いと思われるのは。全然痩せてるのに。女の子は難しい。

 そんなことを思っていると、俺の首筋にすうっと温かい体温がやってきた。彼女はそのまま手を回して、柔らかい二つの双丘が、背中にぴとりとくっついた。


 ――母さん、この世に俺を生んでくれてありがとう。


 完全に意識を背中に持って行かれかけるが、俺はめげない。

 しかし、すぐに問題は発生した。


 ――これ、ケツ触っていいんですかね?


 セクハラではないよね? 合意は得てるし。いや……違う。よく考えろ。おんぶさせてもらえる許可は得たが、ケツを触っていいとは言っていない。でもどこかに触らないと持ち上げられなくないかい?


 じゃあ一体どこを触っていいのか。

 お尻なのか……? それとも脚か……? 太もも? 膝裏か?

 最もリスクが低いのはどれだ? 変態的行動から離れているのはどれなんだ!?

 というかその価値観、一体誰がいつどこで決めた!?


 ――くっ……柔らかいだろうなぁ。触りたいなぁ。


「ちょ、ちょっと……何してるの? その、なんか……恥ずかしいんですけど」


「いや、問題ない。じゃあ行くよ」


「……問題ない?」


 俺の言葉に小首を傾げる花。

 結局――俺は花のお尻に手を伸ばして、ぐっと身を持ち上げた。宙で髪が広がり、甘い香りが辺りに香る。

 思った通りだ。やっぱり軽かった。これはエンジェル級だ。


 勢いよく持ち上げたとき、背中で確かに揺れた二つの山を、俺は肌で感じた。

 ――イイ。


 昇天しかけた俺に、消え入りそうな天使の声。


「は、早く……行こうよ」


 花に肩を優しく叩かれ、俺たちは階段をゆっくりと降りて行った。そのたびに震える花のおっぱいに、俺はもう気が気じゃない。


 花の足先を右に左にぶつけてクレームを受けながらも、俺たちはなんとかリビングに到着した。


 ――何故か、テレビが付いている。


「……昨日、部屋来る前テレビ付けた?」


「……付けてない」


 疑問は残るが俺は花をソファまで運び、そこで解放する。


「あ、ありがと」


「どういたしまして」


 ――こちらこそ本当にありがとうございます。

 脳内で花に誠意を込めて手を合わせてから、俺は辺りを見渡す。


 すると――。


「――バァッ!!」


「うわっ!!」

「きゃあ!!」


 俺と花の悲鳴が重なる。

 声のする方に視線を向けると……。


「……母さん」


「ハロータロー岡本太郎ー」


「いや、普通に出てこいよ。何してんの」


 呆れた表情で見飽きた顔を一瞥する。人を驚かせるのが趣味の、俺の母親である。

 そういえば、今日帰宅という話だった。


「だってー、最愛の息子がかわいい女の子おんぶして階段から降りてきたのよ? これを茶化さないわけにはいかないじゃない? そこにあなたたちのビックリ仰天があれば尚おいしいし。それでね、まだ話には続きがあるのよ。聞いて聞いて!」


「そういう話じゃない、なんでいつもわけわかんないこと――」


「私が帰ってきたとき、玄関に女の子の靴置いてあったのよ。私はビックリしたわ~、とってもいい靴だったから」


 俺の言葉を遮り、母さんの口は止まらない。一度開くとマシンガントークを始めるのだ。


「さっき洗濯したときなんてね、女の子の下着が出てきたのよ! かわいいピンクの! それで思ったのよ。まさか蝶に彼女……? これはお泊まりなのかって」


 ――ピンク。花……ピンクなんだ。へえ。


「でもよくよく考えてみたのよ。あの蝶が彼女を連れてくるわけがないって。度胸もなければ勇気もない、ないない尽くしのモテない一般人。と、いうことは……? ――なんと、私ってば花ちゃんにご飯を作ってもらうお願いをしていたのよ! なんだ、簡単な事件だったわね、つまり……そう、真犯人は花ちゃんよ!!」


 頬をぽうっと赤くさせる花の鼻先に、母さんがビシッと指を突き付ける。危ないからやめろ。そして口を閉じろ。今すぐだ。


「……ち、蝶ママ」


 花が困ったように笑う。


「指を下げろ、怯えてる」


 俺は母さんの指をたたき落とす。


「ちょっと何すんのよー、私だってね、久しぶりに花ちゃんと会うの緊張するんだから。少しくらいはっちゃけさせて気を紛らわさせなさいよ!」


「少しじゃねーんだって、カオスなのはいつもだけどさ!」


「カオス……? カカオの新種?」


「ふふ、蝶ママ……面白いっ」


 花が、ソファに腰を降ろしたままくすくすと笑った。


「花ちゃん久しぶりねぇ~、可愛くなって~!」


 会話途中の俺を押しのけて、母さんが花の隣に座る。


「やー、髪染めてるの~? キレー。久しぶりに私も染めようかしら。ぎゃ! 何コレ、ちょっと何コレ! 肌プルプルじゃなーい!! 白! 触ってもいい!?」


「えっ、あの……」


 困惑する花を無視して返答を聞く前に触れ始める我が母親であった。

 その後もしばらくは騒ぎ続けたが、全編カットさせていただこう。


 * * *


 俺と花はテーブルに並んで遅すぎる昼食を取った。対面側にはそわそわしている母さん。地獄絵図だ。


「――で、二人は一緒にご飯食べて~、お風呂入って~、寝たと」


「は、はぁ? 何言ってんだよ……そんなん……ないっつの」


 嘘がヘタクソな俺だった。一緒に風呂に入ったの以外は当たっている。

 俺の返答に、花は口出しすることもなくただ顔を俯けていた。耳を真っ赤にさせて。頼むから俺たちの楽しかった甘い生活をこれ以上いじくらないでくれ。


「……蝶も男の子だからなあ、花ちゃん、何か嫌なこととかされなかった?」


 息子を前にして何言ってんだこの人は。

 花に目をやると、


「ん……だ、大丈夫っ」


「ふふ、じゃあ仲直りしたのね」


「別に喧嘩してたわけじゃねーから!」


「うっさいわねえ、沈めるわよ。カリブ海辺りに」


「なんでカリブ海なんだよ」


 母さんは俺のツッコミに反応もせずに、ただじっと俺と花を見つめる。

 俺は堪らなくなって、


「何、見てんだよ……」


「ん? いや、二人が喋らないな~と、思って。私がいるから?」


「……別に、そういうわけじゃ」

「ち、ちがっ……」


 俺と花の言葉が重なったとき、母さんが頬を和やかに上げる。


「さっさと付き合っちゃえばいいのに」


 ――瞬間、時間が止まった。

 俺はすぐに作り笑いを浮かべた。


「……な、なんだよソレ」


 隣の花はだんまりだった。


「え~、でもあなたたち、昔チューして結婚とかなんとか」


「がっすっ! 腹痛っす! マジやばい! 俺ちょっとトイレ行ってくる!!」


「がっす? あんたお笑い芸人にでもなるの? 超つまんないわよ。蝶だけに」


「アンタもつまんねーわ!」


 なんとか言い返しながら、俺はトイレへと逃げ去った。


 どうして、逃げてしまうんだろう。

“約束”について――俺たちはまだ言葉を交わし合ったわけじゃない。彼女がどう思っているのかもわからない。


 もしかしたら――怖いのかもしれない。


“約束”に対する俺の想いと、花の想いが大きくかけ離れていたら……と考えると。その先に進めない。話ができない。


 結局、俺は十年間も花のことを想いながら、今の年齢になってしまった。

 女の子と一度も付き合うこともなく。


 俺はトイレで時間を潰してから、リビングへ戻った。


「あっ、蝶。ウンコ終わった? 今花ちゃんと話してたんだけどね」


 ――いいよもう、ウンコで。でも花の前で言うな。そういう汚物関係を。


「今から二人でお使いに行ってきなさい!」


「……はあ、お使い?」


「二人で仲良く手繋いで修学旅行の洋服でも見てきたら? あんたヘンな服しか持ってないんだから、せっかくだし花ちゃんに選んでもらいなさいよ」


「なっ、別にヘンじゃないだろ」


「……ふふ、ヘンなの?」


 花に笑われた……! でもかわいいから許す。


 ――こうして俺たちは二人きりで外に出かけることになった。

 親と連絡がついた花は、植木鉢の中に隠されていた鍵を発見し、一度家に帰って、後ほどウチまで迎えに来てくれることになった。


 俺は自室の鏡を見ながらポーズを取ってみる。

 デニムにシャツのシンプルなスタイル。春らしい色合いで俺お気に入りの一着だ。

 髪の毛を立たせるか、流すかでも思いを巡らす。花の好みがわからない。悩んだ末にいつも通りの無難なセットを終え、俺はリビングで花の到着を待った。


 時間が経つごとに俺の緊張度合いが高まっていく。


「あんた、ドキドキしてんでしょ」


 母さんがキッチンで鼻歌を歌いながら聞いてくる。


「し、してないっつの! てか、母さんなんでも喋りすぎなんだよ! もうちょっと気を使えっていうか……っておい、そこ耳塞ぐな!」


「でもいいじゃない、男女の幼なじみって案外恋愛に発展するほうが少ないのよ? マンガみたいな幼なじみよりも母さんは好きだけどな……。そういえばあなたたち、私がいるとき目も合わさなかったでしょ」


「……そんなつもりは」


「……ま、頑張ることね。花ちゃんの男になりたいなら」


 エプロンで手を拭きながら、母さんが俺の頭にチョップを入れる。


「てっ。やめろよ、髪が潰れる」


「いっちょ前に髪なんかキメちゃって……うふふふふ、男の子ね~?」


 くそ、完全に遊ばれている。

 母さんはにこにこしながら、リビングを出て行った。

 でも、記念写真を撮るときの寂しそうな顔をよりは、ずっといい。


「んで、チューは? 昨日はできたの? それとも……あ~! まさかそれ以上の――」


 ひょっこりと戻ってきた母さんが、卑しい笑みを浮かべる。


「黙れ変態!」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


「なんだそれ……そういや父さんは?」


「今朝そのまま会社に行ったわよ」


「土曜なのに頑張るなー」


 突然、皿が床でたたき割れる音がした。


「…………もしかして浮気?」


「あ……」


 始まってしまった。母さんの過敏すぎる被害妄想が。


「で、で、で、で……電話しなくちゃ!」


「落ち着けって、そんなわけあるか」


 俺の母さんは3ヶ月に一度この現象に陥る。そして凄い行動力を発揮するのだ。以前は父さんの会社まで乗り込み、最終的に社内の会議に参加して帰ってきた女だ。


「で、出ないわ……電話に出ない!」


「どっか取引先とかに行ってるんじゃないの、いずれにせよ何かあるんだって」


「取引先の――女? きっとそうよ! ゆ、許せないわ! この私がいるっていうのに……! 何!? 最近小皺が増えたからその当てつけってわけ!? だから若い女の所に行くのね!? 酷い!! あまりにもむごすぎるわッ!!」


 余計にややこしくなった。


「ちょっと行ってくる!」


「エプロンのまま!?」


 風の如く、俺の母は走り去って行った。嵐が過ぎ去った後、インターホンが鳴る。

 俺はソファから腰を上げて、玄関の鏡で自身の身なりをもう一度確認する。

 そして――扉を開けた。


 瞳に映ったのは、白い膝上ワンピースに桜色のカーディガン。メイクも心なしか学校で見るのより気合いが入っているように見える。


「……あっ、お待た――」


 バタン。

 花の声を遮って、俺は扉を閉めてしまった。

 ――なんか、いつもより二割増しくらいでかわいい気がするんだが……。

 えらく気合いが入っている気がするというか。

 私服もかわいいし、やっぱり花は化粧が映える。


「ちょっとー! 何するのー?」


 扉の向こうで花が笑い声を上げる。俺は静かに扉を開ける。


「……ご、ごめん。じゃあ……行きますか~」


 あまりのお洒落さんぶりに、俺が照れてしまった。


「ちょっと、何でニヤニヤしてんの~? わたしヘン?」


「……い、いや! そんなことは……!」


「なんか失礼なこと考えてる気がするー! なんなの教えてよー」


「ほら、早く行かないと遅くなっちゃうから」


「もー」


 ぷくっと頬を膨らます花の横に並んで、俺たちはゆっくりと歩き出した。

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