第12話 嬉しい涙
放課後のチャイムが鳴った。
春風がカーテンを揺らす。いつもの放課後風景がそこにはあった。
「おーら、起きろ」
学生鞄が、俺の頭に乗っかる。
「あれ? お前部活は?」
「これからだよ」
俺は花の席を一瞥する。
まだ帰ってない! もしかしたら……一緒に帰れるかもしれない。
しばらく見つめていると、帰り支度を終えたはずの彼女がちらちらこちらを見てくることに、俺は気がついた。
――見てる!
今日もご飯を作りに来てもらう予定だから、もしかして俺と一緒に帰ろうとしてくれている? んでもって、どのタイミングで俺に話しかけたらいいのかわからなくなっているとか?
きっと俺が来るのを待っているんだ。なんという……かわいさ。
俺は自らに都合のいい脳味噌をこねくり回し、もう一度花を見つめる。彼女はそわそわした様子でバックに付いてるぬいぐるみをいじくっていた。
あー暇だなー、という感じを演出しつつ、別にあなたを待ってるわけじゃないからね、という照れ隠しが愛おしい。
――なんて誘おうかな。
シンプルに、「一緒に帰ろう?」
それとも、「じゃ、行く?」的な? なんか事前に打ち合わせがあった的な!?
後者のほうがより仲良しな感じがでるけどどうなんだろう!
俺が思わず頬を緩ませたとき――教室の入口から声がした。
「――赤希花ちゃんって、いる~?」
高校生にしてはがたいのいい男が、扉から突然顔を出した。何か嫌な予感がする。
「……え、わ、私…………ですけど」
花が自信なさげに応える。怯えている風にも感じられる。
「うほっ、マジだ! めっちゃかわいいじゃーん」
男は猿のような顔で、目を見開き唾を飛ばした。
金髪に鼻にピアス。見るからにヤンキーだ。
「え、えっと……」
照れたような、困ったような表情で花がもじもじとする。
「健治、あれ……誰」
「……五組の
「……っ」
唇を噛みしめる。このまま穏便に消えてくれることを切に願う。
「これから暇?」
「え、わたし……?」
「そそ、暇だべ? 一緒に遊びにいこう」
ガムをクチャクチャ鳴らしながら、熊沢は花の細い腕を無理矢理引いた。
「……い、痛いっ……あのっ、ちょっと! は、離して~」
「ははっ……何それ、抵抗してるつもり? かわい~な、無理だよ無理!」
花の必死な抵抗に、熊沢はへらへら嗤った。
「や、いやっ……ね、お願い。痛いから……あんまり引っ張らないで」
花の泣きそうな声を聞いたとき――。
腹に力を込めて、怒声を吐いた。
「やめろッ!!」
「蝶……おまっ」
教室が一瞬でしんとなった。放課後に残った数人の生徒の注目を浴びる。
健治が焦った顔で俺の肩を引く。だがそれを振り払い、ずかずかと俺は足を進める。
――正直言って、すごく怖かった。
高校生になってから喧嘩なんてしたことなかったし、こんなみるからにヤバそうなやつと殴り合いにでもなったら、万が一にも俺には勝ち目なんてなさそうだ。
でも――俺は嫌だった。花の嫌がっている顔を、見たくなかった。
「……あー、何? 誰だよてめえは。だりーな」
熊沢は、害虫でも見るみたいに顔を歪める。
頭をボリボリかきながら、溜息をついて花から手を離し、俺に近づいて来た。
「彼女……嫌がってる、って言ってんだ。聞こえないのか」
「は~? だから何? それがお前となんの関係があんだよ」
表情はますます険しくなる。今にも殴りかかってきそうだった。
「……俺が止める理由も、お前には関係ないだろ」
「……クソムカつくわぁ」
熊沢は唾液まみれのガムを、俺に吐き捨てる。
「なっ、てめ――」
後ろから健治の苛立った声が響く。俺はそれを制した。
「大丈夫」
「はっ、王子様気取りとか……寒いわ」
「そんなつもりはないね」
頬に張り付いたガムを床に捨てて、自分でも今までにしたことがないくらい冷徹な眼差しを向ける。
身長は190センチ近くはありそうだ。腕も常人よりずっと太い。
コイツから見れば、俺なんて村人Bくらいの存在なんだろう。
「邪魔」
熊沢は俺の胸ぐらを掴んで、そのままぶん投げた。
並んだ机が次々に倒れていく。
「蝶、大丈夫か!」
焦った顔の健治が駆けよってきて、俺の肩を掴んだ。
「ああ、平気」
脳が興奮状態にあるらしい。意外と痛みはなかった。小さい頃に喧嘩をしたときも、こんなことがよくあった。
「寒いヤツはほっといて、早く行こーぜ」
「や、やだってば……は、離してっ! 手当しないと……」
花が泣きそうな顔で、俺に目を向ける。
そんな顔をされたら――俺はもう。
「おい……」
俺は立ち上がって、汚れた制服をはたく。
「まだ何か? これでも平和的に接してやってるつもりなんだがな」
「その子を……離せって言ってんだ!」
俺が叫んだとき、花は隙を見て熊沢から離れ、俺の隣まで走ってきた。
「……くぁ~、格好良いねえ、なんだよ? お前惚れてんだ。その女に」
熊沢は気味の悪い笑みを浮かべ、大きな手で顔を覆い隠した。
花が俺の後ろに引っ付くようにして、制服を掴む指に力を込める。
「怪我大丈夫……?」
さっき机にとぶつかったときに頬を切ったらしい。花が細い指先で俺の頬を撫でた。
「大丈夫だよ」
俺が笑ってそう答える。
「なんだよ……つまんねー女だな、そんなもやし男の何がいいんだよ!」
「……いいもん」
震えた声で、花が言う。
「……蝶は……とっても優しいもん! あなたとなんて比べものにならない!」
いつも穏やかな花の強い言葉を聞いた瞬間――俺の瞳が熱くなる。
涙が溢れ出しそうになるのを堪える。
熊沢が乱暴な足並みでこちらへ近づいてくる。
花が、俺の腕を胸に寄せてぎゅっと掴む。
「……おい、お前、一発ぶん殴らせろ。そのふざけた顔崩さなきゃ気が収まんねぇ」
ごきごきと首の骨を鳴らしながら、俺を指差す。
「……そしたら、もうこの子に近寄るのをやめるんだな」
「えっ、ちょっと」
「いるか、んなブス」
「わかった。一発受けるよ」
「な、蝶! そんなやつの言うこと聞くな! 今先生を呼んでもらってる。お前が殴られる必要なんかねーよ」
健治が焦った表情で俺に抗議する。
「……その綺麗に生えそろった歯……無くなっても恨むんじゃねーぜ、王子様」
熊沢がにたりと笑ったとき。彼に前歯がないことに気がつく。
次の瞬間――俺は左の頬に強烈な衝撃を受けた。顔ごと身体を持って行かれて、吹っ飛んだ。
熊沢はそのまま横たわる俺に近づき、思い切り腹部を蹴った。
「――がはっ」
「あっー……スッキリした」
満足したのか、熊沢はふてぶてしく教室から去って行った。
すぐに花と健治が俺に駆け寄って来る。
花はすぐ横に膝をついて、瞳に溜まった涙をぽろぽろと零した。
「……ごめんね、わたしのせいで……本当にっ……ごめんなさい」
「よかった……あいつ、帰ったね」
花のすすり泣く声を聞いて、なぜか俺の瞳からも涙が零れる。
あいつに殴られたからじゃない。俺の――この涙は……嬉しかったから。
花が俺に頼ってくれたことが。俺の為に泣いてくれたことが、嬉しかったからだ。
「蝶、すぐ保健室に行こう、先生には俺が言っとく」
健治に肩を借りて、俺たち三人は保健室に向かった。
* * *
「はい、とりあえず湿布ね」
「……ありがとうございます」
養護教諭の百瀬先生が、負傷した部位に湿布を貼ってくれた。
隣では、泣き腫らした花がじっとこちらを見つめていた。少しだけ照れくさくて、俺は無言で目を反らす。
健治はこれから予定があると、先に帰った。おそらく、空気を読んでくれたんだろう。
「まあ男の子だし、痛みもすぐ引くわよ。ちょっとの間、安静にしてなさい」
治療が終わると、百瀬先生は俺たちを残して保健室を出て行った。
カーテンに仕切られたベッドに横たわる俺の隣に、花が座った。
「……痛い?」
ようやく花が口を開いた。泣き止んだばかりで、鼻声だった。
そっと俺の頬に触れて、心配そうに俺を見つめてくる。
「……案外平気だよ、そんな顔しないで」
「そんなわけないじゃんっ……絶対、痛いよ」
彼女の表情が次第に歪んでいき、唇を噛みしめて再び涙を零した。
「あっ、な、泣かないでよ」
「でも、でも……」
「怪我なんて昔からじゃん。俺、男だし……大したことないよ」
「……でも、心配くらい……させてよっ」
遂にはベットに顔を伏せて、わんわん声を上げて花は泣いてしまった。
俺はかなり躊躇ったが――勇気を出して、彼女の頭を、優しく撫でた。
さらさらの髪。小さな頭。空気を伝ってシャンプーの良い匂いがして。
花がびくりとして、少しずつ顔を上げた。
鼻の先を少し赤くさせて、涙でぐちゃぐちゃの顔。俺の為にいっぱい泣いてくれているんだと思うと、とても嬉しかった。
でも、同時に俺は泣きはらした彼女の顔が少し可笑しくて、笑いがこみ上げてくる。
「ふふ、凄い顔」
「あっ、や、やだ……見ないでよ……あんまり」
途端に、花が照れたように両手で顔を隠す。
「……嬉しいよ。俺のために泣いてくれてるんでしょ」
「……むっー……でもっ、ダメなものはダメなの!」
「はは、よくわかんね」
「わかって!」
しばらくして、泣き止んだ花が恥ずかしそうに俺と視線を交わす。
甘くとろけてしまいそうな、花のかわいい瞳を穴が開くくらい見つめ続ける。
「涙、零れてるよ」
「……あ、また」
彼女の頬を伝って流れる透明の線を、俺は指で拭き取った。
「……はい、これで平気」
「……あ、ありがとう」
花がそっと身を寄せてくる。顔がどんどん近くなって――。
「……あのね」
「……うん」
「わたし、ねっ……」
「……うん」
長い沈黙。花は両手を腿の上に載せて、爪先をいじくっていた。
俺が彼女の言葉を待っていると……。
「お邪魔しまーす」
突然、カーテンが音を上げた。
俺と花は飛び上がって、距離を離した。
「……んふ、ラブラブなとこ悪いけど、もう帰宅時間よ。そろそろ帰んなさい」
百瀬先生が、石のように固まった俺たちに微笑んだ。
あのね――の言葉の先がなんだったのか、結局聞くことはできなかったけど、この時間が俺はとても幸福だった。
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