蒼き蝶に赤き花

織星伊吹

◆1章 気まずい幼なじみの男女

第1話 子供の約束

 ――できることなら愛したい。できることなら愛されたい。

 ただ、俺の場合、その相手が“幼なじみ”ってだけで、極端に難易度が跳ね上がった。


 子供は無邪気だ。純真無垢で、天真爛漫。

 素直過ぎるが故、残酷な面も持ち合わせていると、俺は思う。

 幼少期の何気ない一言が、将来の自分を後悔させるなんてこともあるだろう。

 ――なぜなら、きっと俺もその一人に該当するからだ。


 後先考えずに、とんでもない“約束”を結んだりしてしまう。

 それが叶おうが、叶わなかろうが、尻ぬぐいは成長した己にある。


 いや……違う。子供は悪くない。すると、問題があるのは成長した俺のほう?

 幼少期に結んだ“約束”を今でも心のどこかで大切に思っている俺のほうがおかしいんじゃないのか。


 真面目に考えてみて、そんなやついるか……? 少なくとも俺の周りにはいない。


 俺、蒼希蝶あおきちょうは、幼少期に幼なじみの女の子と結婚の約束をした。

 もちろん考えなしの約束だ。そのとき、純粋に好きだったからだろう。


 高校三年生になったばかりの俺が語るのもおかしな話だが、きっと結婚というのはそれまでの人生が逆転してしまうくらい大切な決断の一つであるはずだ。

 長い年月をかけて、生涯を共に歩んでいけるパートナーが見つかってから――結婚するんだと思う。


 だから、もし幼い頃に結婚の約束なんかした男女がいたとしても、成人してからも律儀に守り続けて結婚するやつなんて、たぶんいないだろう。


 普通なんだ。これは。そう。何もおかしくなんてない。

 でも……それでも、俺は……幼なじみと疎遠になってしまったのを残念に思ってる。


 小さいときのことならなんでも知ってる。好物から、細かいホクロの位置まで。

 だけど――俺たちは……中学に入った辺りで、なぜだか気まずくなった。


 俺は、お前の名前が呼べなくなった。

 お前も俺の名前を呼んでくれなくなった。

 毎日一緒だったのに、まったく遊ばなくなった。

 遂には口も聞かなくなって、学校ですれ違っても知らんふりをするようになった。


 約束をしたから、俺はこんなに苦しいんだろうか。

 しなければ、こんな想いをせずに済んだのか……?


 * * *


 ――ねぇ、チョウチョって……お花にちゅーするよね?


 幼かった俺が、彼女の言葉にこくりと頷く。


 ――ちゅーって、パパとママがすることだよね!


「そーなの? 好きな人どうしがするんじゃないかなあ」と俺は曖昧に返事する。


 ――じゃあ、ちょうは花のこと好きなはずだから、花にちゅーしてよ!


 確か初春だった。俺がまだ五つだったとき。

 俺は赤希花あかきはなと結婚することを約束したんだ。


 物心ついたときからいつも隣にいた、いわゆるお隣さんで、正真正銘の幼なじみ。

 思い返せば、幼稚園のときはバスが来るまでお互いの部屋で遊んだり、帰りも一緒に手を繋いで帰ってた。


 小学校も低学年までは一緒に遊んでいた。まだ彼女のことをあまり“女”と意識できていなかったのせいもあるのかもしれない。

 しかし、高学年になってクラスが変わると、学校内での交流は次第になくなっていった。帰り道も一緒だったが、お互い違う友達と帰っていた。


 中学生になる。

 俺は幼なじみの制服姿を始めて見た。女子のセーラー服だった。

 この頃にはもう花は女の子らしい体つきになってきて、少し胸も膨らんでいた。一方の俺も、声が少しだけ低くなっていた。

 お互いの親がしゃしゃり出ては、家の前で俺たちは制服姿の記念写真を撮った。

 このときには、もう既にあまり喋らない仲になっていた。

 俺も花もお互いのことを名前で呼んだりはしなくなっていた。


 登校中に姿が見えると、「おぉ」、「おはよう」――なんて当たり障りのない会話を一言。そしてどちらかが歩くスピードを上げて、先に学校に辿り着く。


 高校生になる。

 義務教育が終わっても、俺たちは同じ高校だった。花は頭がいいのに、『近いから』という理由で俺と同じ学校にしたらしい。もちろんこれは母から聞いた情報だ。

 高校生姿の写真も記念に撮った。既に俺たちの目線はカメラレンズから反れていた。


 ――そんな関係だ。

 俺と花の関係。気まずくなってしまった、幼なじみの成り立ち。


 そんな俺だが、第二次性徴は無事終了したらしく、はれて一人前の大人――の一歩手前で立ち往生する普通の18歳だ。

 合法的にAVだって見られるし、正直そろそろ彼女が欲しいなあとか、デートしてキスがしたいとか、誰もいない暗がりで女の子とちょっとエッチなことがしたいとか、そんなことばかり頭の中を巡らせる、ごく普通の高校三年生だ。


 そんな俺を――花は一体どう思っているんだろうか。


 花は好きな人とかいるんだろうか。

 恋愛とか、考えたりするんだろうか。


 俺は――お前のことが、昔から――今でも、ずっと好きだよ。

 高校三年生になって、久しぶりにクラスが一緒になったことが凄く嬉しかった。

 別に喋るわけでもなかったけど、とても嬉しかったんだ。


 花は……?

 君は――まだ、あの約束のことを覚えているのかな。


 ただただ純粋で、相手を大切に想う無垢な純情。

 小さな小さな、二人だけのとても大切な子供の“約束”。


「結婚しようね」


 ――花、俺は昔じゃなくて、今の君のことが知りたいよ。


 * * *


「あぁ~、昼休み終わっちまうよ」


 俺の隣で、飛谷健治とびたにけんじが大きくあくびをした。ちゃらちゃらした印象を与える長めの茶髪が、ヘアピンで留めてある。

 軽めに見える男だが、根はいいやつだということを俺が言っておこう。でないとただの遊び人でしかない。


「まーそう言うなよ、あと二時間だろ」


「……そうだけどさ、ふぉぁぁ~」


 健治は次のあくびに身を委ねながら、何やらぼやきつつ机に突っ伏した。

 まなじりを擦りながら、健治は教室の入り口に注目する。


「赤希ってさあ……かわいいよなあ」


 健治が何かの当てつけのように呟く。彼の視線の先には――廊下から帰ってきた赤希花が友達と談笑しながら、ちょうど自席に着いたところだった。


「……何が言いたいんだよ」


「べっつに~?」


 口笛を吹きながら健治は頬を緩める。

 こいつは俺と花が幼なじみだと言うことを、この学校で唯一知ってる人物だ。


 先生が登場し、生徒たちの騒ぎが自然と静まる。

「はーい、日直」、という先生の言葉に皆が俺に注目する。


「あ、俺です」


 注目されたのが妙に気恥ずかしかった。俺はすぐに席を立ち上がり、前を向く。

 ――目が、合った。


「……礼」


 数席前の花と、数秒間だけ視線が交差した。だが――すぐに反らした。

 なんで……目線が合ったんだ? 今じゃ交流も殆どゼロなのに。

 やっぱり、花もまだ……あの“約束”を気にかけてくれている?


 最近、俺はこうも考えたりする。

 もし――俺と花が幼なじみじゃなかったら、一体どうなっていたのか、ということ。

 普通に学校で知り合って、好きだと伝えられるか?


 ――いや、ないだろう。

 幼少期の想い出があるからこそ、俺は花が好きなんだ。

 普通に学校で出会っていても、そもそも好きにならないだろう。


 なんで、こうなってしまったんだろう。

 小さい頃はあんなに仲良しだったのに、身体と心が大人に近付いていくたび、なんでこんなにも気まずくて、恥ずかしくなってしまったんだろう。


 相手のことを知りすぎているからこそ……?


 いや、中学生になってからの花のことを俺はよく知らないし、同じように彼女もわからないだろう。


 ――花の心の中が見てみたい。

 俺は、先生の授業をウトウト聞きながら、まどろみの中へ落ちていった。


 * * *


「ねぇねぇ、お花だよ! みて、キレイな赤いお花! ホラ!」


 近所の空き地。数々の子供たちに踏まれ続けた芝生が根強く広がっている。

 風がとても心地よくて、俺は大好きだった。


「わ、ホントだ! キレイだねー」


 俺と花はよくここで遊んだり、昼寝をしたりした。憩いの場というやつだ。


「はなと同じなまえ! かわいい!」


 花のぷにっとしたマシュマロのような頬に、赤みが差した。


「……あっ! きれいな青いチョウチョだよ! ちょー!」


「……ほんとだ、おれたちといっしょのなまえだ」


「えへへ~、かわいいね~」


「うん!」


「あっ……チョウチョがお花にチューしたよ!」


「ホントだ! きっと好きなんだよ!」


 幼き日の俺と花の目前には、かわいらしい赤い花。その花びらに青い蝶が止まっていた。蝶は止まった花の蜜を吸っていたのだが、そのことを俺たちは好きな人同士がする“チュー”だと、思っていた。


「チューってパパとママがするんじゃないの?」


「えっ? 好きな人にチューするんじゃないの?」


 深い意味もなく、俺たちは唇を重ねる行為について、お互いの知識のズレを共有し合った。


「へえ……そうだったんだ! じゃあさ、ちょーは花のこと好き?」


「おれ、花のこと大好きだよ!」


 なんの躊躇いもなく、俺は百点の笑顔でそう答えた。


「じゃあ、花にチューしてほしい!」


「うん! する!」


 今思い返してみれば、これほど恥ずかしいものもないだろう。

 鮮明に覚えている俺は相当にヤバいやつなんじゃないかと、最近思い始めた。


 でも――。


「えへへ~蝶と花、ケッコンしようね!」


「うん! このチョウチョとお花みたいに好きどうしだもん、ケッコンだね!」


 忘れられない。この日の約束が、今の俺の心をえぐり返す。

 俺はこの日、おそらく初めての“チュー”をして、彼女と結婚の“約束”をした。


 思い出したってしょうもない、ただの子供の約束だ。

 花、お前は……まだ、このこと――覚えて……。


「……んっ」


 視界が、ぼんやりと人影を写した。

 黄昏色に染まった、少し長めの髪がゆらりと揺れる。


「蝶くん? 起きて、蝶くん」


 声がした。この声は――。

 俺は瞼を擦りながら、おぼつかない調子で口を開いた。


「は……」と、そこまで言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。


「蝶くん、朝だよ、もうっ! そんなんじゃ学校に遅刻しちゃうんだから!」


「……何のつもりだよ、健治」


 目の前でやたら瞬きをする飛谷健治が、小馬鹿にするような表情で俺を睨む。


「……大層なご身分じゃねーか、幼なじみに朝起こされるとか。神かお前は」


「何言ってんだよ、お前は」


 俺は口元の唾液を拭って、健治の頬に擦り付けた。


「はぁー!! てめ汚ねっ! ありえねこいつ」


「俺からの餞別だ、違う学校でも元気でな」


「なんで俺転校する感じなってんだよ! イジメか! また舞い戻ってくんぞ、翌日くらいに」


 健治がお得意の三枚目顔で唾を飛ばしながらツッコミを終え、


「……ちっ、まあいいや。ホームルームもう終わってんぞ。ここで問題。ノートを集めて代わりに提出してきたのは誰だと思う? 日直の蒼希くん」


 健治は勝ち誇ったような表情で、自らの胸に指を突き付ける。

 俺は大きく伸びをしてから、


「ん~しゃあない、アイス一本で手を打とうじゃないか」


「ういよ、んじゃさっさと行こうぜ」


 健治に頭を叩かれてから、俺たちは二人で教室を出た。


 * * *


 思えば、薔薇色の高校生活もあと一年でおしまいだ。

 俺、何かしたっけ? いや、特に何もしてない。

 勉強を真面目にやってたわけでもなければ、部活もしてない。

 バイトに情熱を注ぐわけでもなく、おまけに恋すら叶わないときたか。


 なんだか、実に俺らしい人生だったな――。


「……終わったんだな、この高校生活も」


「いや待ておい。むしろ今始まったばっかだろーが。何もう世界終わったみたいな顔してんだよ」


 しみじみと血の涙を流しそうになる俺に、ツッコミを入れる健治。そんな彼の背を叩き、そのままグラウンドの横を歩き続ける。


「じゃな、さっさと部活行きなよ」


 健治はサッカー部に所属している。だから俺とはいつもここで別れる。


「お~、毎日一人で帰るのは寂しいだろうが、まあ、お前なら行ける」


「何が行けるんだよ」


「まあまあ、そう慌てんなって。今度テニス部との合コン開催予定だからさ、そしたらお前呼んでやるからよ。結構かわいい子揃ってんだぜ」


「今どき合コンとか……流行んねーよ。お前は中年のオヤジかよ」


「え、フツーじゃね? 何、俺がおかしいの?」


 健治は少し不安げな表情を浮かべながら、グラウンドに走り去っていった。


「余計なお世話だよ」


 俺は健治の背を眺めつつ、健治主催の合コンの様子を妄想してみる。

 急に馬鹿馬鹿しくなってきて、俺は妄想を手でかき消し校門を出た。

 帰路の途中、さっき見た夢のことを思い出した。


 ――昔だったら、花と手とか繋いで帰ってたな。

 空想の相手と手を握って、俺はぶらんぶらんと宙で片手を揺する。


「…………」


 ――ヤバい。

 やめよう。想像以上に虚しくなるわ。相当ヤバいやつに見える。通報されるぞ。最近怪しい男はなんでも通報される時代だからな。


 もやもや想い人を思いながら、愛しの幼なじみの家の真ん前を通り過ぎる。

 ――チラッと見る。俺はいつも花の家を横切る際、こうして家を確認しているのだ! ……キメェよ。なあ、やめようぜ、俺。


 自分で自分が悲しくなり、溜息をついた。


「……もう帰って来てんのかな」


 ぼそりとそんなことを言いながら、俺は自宅の鍵をポケットから取りだして鍵穴に差し込んだ。


 俺と花はいわゆるお隣さんだ。マンガとかラノベみたいだろ? ハハ、でも実際は何もないんだぜ。リアルの幼なじみに夢なんかみちゃいけないぜ、諸君。


 ハーレムラノベみたいに一方的に思いを寄せられてるわけでもなし、昔の少年マンガみたいに罵詈雑言浴びせながら、実は好き合ってるみたいな夢展開は皆無。


 つーか全然話しませんから。いや、話せませんから。

 お口チャックメンですからね、なんつって。あーあ、なんかもう俺ってば存在忘れられてるんじゃないかなぁ! かなぁ!?


 俺はフンと鼻息を漏らし、そのままソファにどさりと腰掛けた。


 ――ポロン。

 何だ、おっぱいぽろりでもしたか、我がスマホよ。


「……ん?」


 俺はスマホの通知画面をスライドして本文に目を向けた。

 母親からだった。


『――突然でごめんね。っていうか、言ったんだけどさ、なんかアンタゲームやってたし、話聞いてないだろうから自業自得だろって感じでマジざまぁっwwwアレほんとあれムカつくんだから。人が話をしてるときは人の話をちゃんと聞きなさいよ、そんなんだからアンタモテないのよ。気持ち悪っ。それと毎日鏡の前で髪の毛いじくるのもいい加減にしてくれる? お父さんがこの前キレてたんだから。お父さんのメガトンパンチでアンタなんて一発よ』


「え?」


 つい素で声が出た。何これ。スパムかなんか?

 何のメッセージなのか手がかりさえ掴めない状況だけども。あの母親何考えてんの。草なんか生やしてんじゃないよ、いい大人が。

 つーかお父さんのメガトンパンチ怖えーな。とんでもねえ信頼感だよマジで。


 だらだらと数行は流れるメッセージをテキトーに斜め読みしながら、俺は次の一文に辿り着いた。


『パパとママは社員旅行で三日間帰れません』


「なんか言ってたかもな、そういや」


 母よ、確かに聞いていなかった。すまない。謝る。でも髪の毛だけは許してくれ。

 何がパパとママだ。一人称は統一しろ。


『蝶は料理もできないから、私たちそれはもう心配で心配で』


 絶対嘘だね。早く用件を言え。


『なので――今回は特別ゲストを用意しました!』


「特別ゲスト? なんだそりゃ」


 世界一落ち着く我が家で一人だと、つい独り言喋りたくなっちゃう俺である。

 言っておくけどテレビとかにめっちゃ喋りかけるよ、俺。別に寂しいやつってわけじゃないんですけどね!


 そんなことを考えながら、馬鹿みたいに改行入れて勿体ぶらせる母に愛想を付かせつつも、俺は親指を高速でスライドさせる。


 縦読みで一文字ずつ、数十行の改行を挟みつつ文字を置いていくという奇行。

『わ』『た』『し』『た』『ち』『が』『い』『な』『い』『あ』『い』『だ』


「どんだけ改行すんだよ! やるほうも相当ダルいだろこれ!」


 俺の母親はそう言う人である。相手を驚かすことに手間を惜しまない人なのだ。

 ――そして俺は、次の文面で更なる大打撃を受けた。


『花ちゃんに、ご飯を作ってもらうようにお願いしました』


 ――思考が一瞬止まる。


『気まずいとか言わないこと~、昔みたいに仲良くね!』


「……くっ」


 ここで一度、俺の自慢のスライド親指が止まる。

 だが俺は、悪鬼の手先のような母のメッセージを読み進めることにした。


『話盛り上げて、沢山お喋りしてね。あなたの世界一のママより』


「ママァぁぁぁぁぁぁ!!」


 俺は――発狂した。


「うわぁぁぁぁぁぁ!!」


 それはまるで、引きこもりのニートが、お前は明日から働かねばならない。さあ、来るんだ……。と、無理矢理にでも工事現場に向かわされる愚者の非行そのもの。


「ぁぁぁアンディーッ、オロゴーン!」


 なぜか俺は知らない外人の名を叫んでいた。誰だよ、オロゴン。

 それくらいに心を取り乱していたっていうことだ。端的に言って、意味不明。


 粗方騒ぎきった後、俺は憔悴しきった表情でもう一度スマホに目を向ける。


「マジかよ……」


 頬ががプルプル震えた。

 あの花が、ご飯を作ってくれる……だって?

 ってことは、今夜来るってこと……?


 ウチに……?


「アカン!!」


 今度は関西人になった。キャラぶれも甚だしい。俺は一体誰なんだ。

 俺は髪をぐしゃぐしゃにして駆け回り、やがてテーブルの角に思い切り小指をぶつけ、そのまま壁に衝突してフローリングの床に転がった。


「くっ、痛てぇ……折れた。俺はもうダメだ。生きていけない」


 爪の先が少し欠けただけだった。

 しかし実際折れていたとしても、今はそれより気がかりなことがある。


「とりあえず……」


 俺は深く深呼吸をして、再びソファにドサリと座った。

 カチカチ、とリビングに飾られた置き時計が残酷なまでに刻を進めていく。

 ああ、神は俺に考える猶予さえもくれないというのか。


「……くっ!!」


 嬉しいのか……!?

 苦しいのか……!?


この想いは一体なんなんだ!!


 そして俺はテレビに反射する自分を見てから、


「おし、イケメンになろう!!」


 謎のセリフと共に、俺は慌てて部屋の掃除を開始。

 親から禁止宣言が発令されたばかりの鏡の前で崩れた髪型を修正し、いくつか決め顔を決めてみることにする。……うわ、気持ちわるっ!!


 慌てて階段を駆け上がって自室に入ると、俺は思いきりベッドに顔を埋め、窓を一瞥する。にやにやとする表情が顔が押さえられない。……気持ちわるっ!!


 俺の部屋と花の部屋は、窓がほぼ隣り合わせだ。小さいときはあの窓を介しては、よくお互いの部屋に遊びに行ったりしていたのだ。


「んぉぉぉぉふぅぅぅぅおおおおおおおわぁぁぁっぉ!!」


 クッションを顔に押しつけながら、とんでもない叫び声を上げる。

 ダメだ、アドレナリンがヤバい。ヤバくなるとどーなるんだ?とにかくヤバい!


 ――花が来るッ!

 来てしまうと言うのか、お前さんよ!!


 どの部屋を使う!? 使うってなんだっ!! 気持ちわるっ!!


「いいか、俺落ち着け。お前はとんでもない不細工だ。髪の毛から納豆の香りがするし、メガトンパンチ百発喰らった後みたいなヤバい顔面をしている。気を保て」


 ………………ふぅ。


 俺は自らを罵ることで心を静め、高鳴る胸の鼓動を感じ取りながら、もう一度だけ視線を窓へと向ける。


「この先に花が……いる」


 薄桃色のカーテンの向こう側に、花がいることを妄想してしまう。

 この薄布で、俺と花は視界も心も遮られている。数年間ずっとこのままだ。


 今、花の部屋とかってどんな部屋になってんだろうな。気になるような……でも見ちゃダメのような。……でも見たい!


 俺は妙な欲望を抱きながら、眼界に入り込む運命の針に悲鳴をあげる。


「うわヤバい! もう七時だ! ちょ、まっ、そろそろ来るんじゃないのか! あーちょっとまってくれよ、マイ神様。まだ心の準備が……」


 俺はシャツを汗でじっとりと濡らしながら、リビングに戻った。


「うぉ、汗掻いてる!! ぐっは、こんなんじゃ会えないだろ!」


 俺は制汗剤スプレーをシャワーでも浴びるみたいに吹きつける。


「あっ、やべえ……服装とかまったく考えてなかった! なんだ、何がいいんだ! ああ、もういっか制服で! 制服万能だろ最高だろ、イケメン制服ありがとよ!」


 俺は独りでに部屋で騒ぎながら、花を迎える準備に忙しかった。


「ああ、心臓に悪いな……なんだか準備だけでげっそりした気がする」


 俺は一通りの準備を済ませ、ソファで腕を組んでそのときを待った。


 ――俺は花と何を話せばいいんだ? あれ、何年ぶりになるんだこれって。相当な期間まともに喋ってない気がしてならないんだが。


 ――ピーンポン。

 遂に来てしまった……。


「…………はぁ、もう無理だ。胸が苦しい」


 さっきから一人バンド状態になっている胸板を押さえながら、そっと立ち上がった。ゴクリと生唾を飲み、玄関をリビングのモニタで確認する。


「…………」


 ――……ただの中年のオヤジだった。

 しかも見たことあるっていうね。配達のおっちゃんだよ。

 この地区担当の! お馴染みの!! いつもありがとう!


 俺は大きく溜息をついて、弛緩した表情のまま玄関まで歩く。


「……は、は~い」


「んふぁーっす、お届けものでーすッ!」


 ダメ。今はこのおっちゃんのテンションに付いていく気分じゃない。

 なんだよ、んふぁーっすって。


 俺はいぶかしげにおっちゃんを睨んでからテキトーにサインし、荷物を受け取った。


 おっちゃんが帽子を外し、頭を下げながら、


「んふぇーっす! どうも、ありがとうございやーす! ぁーすっ!」


 この人言い方に統一性がないんだよなあ……と、どうでもいいことを考えていたときだった。


 横から――視線を感じた。


 俺は、そこに誰がいるのか、なんとなくわかっていた気がした。

 俺は荷物を抱えながら、首だけを左へ傾けた。


 ――花。


 四月の夜風に髪を靡かせながら、隣に住む幼なじみ、赤希花がそこには立っていた。

 辺りにいるのは、俺と花だけだった。

 お互いに目が一瞬合ったのを確認すると、俺はすぐさま視線を俯けてしまった。


 俺が何も言えずに視線を俯けていると、花が靴音を鳴らしながら近づいてきた。


「あ、あの……赤希ですけど――」


 消え入りそうな声で。えらく他人行儀な声で。まるで見ず知らずの人に話しかけるみたいな声音で、彼女は俺に話しかけてきた。


 ――……始めに言っておこう。


 これは、ドラマチックでもロマンチックでもなんでもない。



 俺と幼なじみの――小さな恋物語だ。

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